王と王妃

 周囲の絶句を、友人兼相棒が破った。

「バカな!」

「あり得ない話ではあるまい」

 冷静にジルは言った。

「もしあの噂が真実で、先王の御子が生きていらっしゃるとすれば、年頃は十七、八才くらい。年は合う」

「しかし」

 ジルの言葉に水をさしたのは、エリクシルだった。

「精神薄弱となられた方の、今際の際の言葉など、信用できるものでしょうか?」

「――まあ、確かに」

 ジルは苦笑した。


「――ねえ、お兄ちゃん」


 フェルマークが遠慮がちに、兄の服の袖を引っ張った。

「うん?」

「あの噂ってなに?」

「――ああ」

 前王には、王妃がいた。

 いた。つまり、過去形である。

「王妃様は嫁ぐ前からお体の弱い方でね。お心の方も、ちょっとお強くなかったようなんだ」

「そりゃ、恋人に囲まれてご満悦の旦那様と、あの気のきっつい姑と、貴方様は田舎の出でいらっしゃいますから、都会のハイセンスなんか理解できないでございましょって意地悪な女どもに囲まれてりゃ、どんなに健康でも半年で病気になるだろうよ」

「クレイグ!」

 要旨は合っているが、子供に聞かせるべきではない言葉のオンパレードに、ロッディの眉が吊り上げる。そんな彼の様子もどこ吹く風、クレイグはぶっきらぼうに言い放つ。

「事実だろうが」

 フェルマークが長兄を見上げる。

 ロッディは困ったように、それでもクレイグの言葉をもう少し上品な言葉に言い換えた。

「王妃様がお育ちになった所と王宮は大分環境が違ったのも事実だし、王様が王妃様に会ったのは、結婚式のほんの数日前だからね。まあ、好きになれって方が無茶かもしれない」

 フェルマークが驚いたように言った。

「え? 王さまって好きな人と結婚できないの?」

「できないと言うか、まあ、王妃様になれる資格のある女性が多くはないと言うか……」

 うん、多分できないよ。と言えないところが、大人のつらいところだ。が、ロッディにとって幸いなことに、

「なあんだ。だったら、ぼく王さまになんてならなくていいや。だって、好きな人と結婚したいもん」

 弟は、ちょっと外れた納得をしてくれた。あからさまにほっとした顔になるロッディに対し、クレイグはまだ言い足りなさそうだったが、エリクシルが話を戻した。

「ま、王様が王妃様を好きだったかはとにかく、今から二十一年前に嫁いできた十四才のお嫁さんは翌年には子どもを産みます。その子は王子様だったのでみんな喜んだのですが、誕生して二週間後、この小さな赤ちゃんは死んでしまいます」

「――かわいそう」

「ええ。かわいそうですね。でも、その後の王妃様はもっとかわいそうでした。赤ちゃんを失った王妃様は、悲しみのあまり病気がちになって五年後には死んでしまうんです」

 さて、とエリクシルは続けた。

「問題はこの後です。王妃様は死ぬときにこう言い残したんです。二年前にも子を一人産んだ。長男のように殺されるのが怖かったから、その子をさる人に預けた、と。――もっとも」

 挑むように、エリクシルはジルを見上げた。

「王は本気にはなさっていらっしゃらなかったようですが」

 ジルは答えなかった。というより、答えられなかった。

 そんな噂があることは知っていた。しかし、話を伝え聞く限り、体も弱く、王の恋人はおろか、メイドたちにさえ気後れするような気の弱い王妃が、子を守るために気丈な意思を持ち、そんな大胆な行動に出るとは思えない。

 が、それでもジルにはたった一つ。この噂を簡単に笑い飛ばすことができない不安要素があった。

「なー、兄貴」

「何だい?」

「その王妃様ってさ、十五年くらい前には死んでるんだろ? なんで王様は次の王妃様をもらわなかったんだよ」

「――それは」

「決まっている! あの女狐のせいだ!」

「ケイト!」

 友人の大きな声を、ジルはさらに大きな声で咎めた。そうしておきながら、なぜそうしたのか、自分でもその理由がいま一つわからなかった。

「あの女狐って?」

 ジルの気持ちは、肝の据わったバーロウ家の次男のあっけらかんとした態度に救われることとなる。エリクシルが、これまたあっけらかんと答えた。


「グラモーレス侯爵夫人ですよ」


 もっとも、シムチエール王家を騒がせた女は、なにもグラモーレス侯爵夫人が初めてではない。というより、シムチエールの歴代の王は、女で世間を何かと騒がせてきた。

 その始まりは、いまの王家の血統を作った『老人王ローシレイ二世』、即ち、シムチエール四大公爵家の一つ、ポーヴルのユグリッドである。 

 シムチエール王国は、ローシレイ一世の即位と、デューダルシュ皇女エタルニタとの婚姻で始まったが、ローシレイ一世は在位わずか七か月にして、突然病にかかり崩御してしまう。ローシレイ一世とエタルニタとの間に子がなかったため、ローシレイ一世の右腕であったポーヴル大公ユグリッドが、その志と王位を継ぐと宣言を出した。

 彼はローシレイ一世の志を継ぐ証として、ローシレイ二世を名乗ること、それからエタルニタとの結婚を発表したのだが、彼はこのときすでに四十四才で当然妻も、成人した息子もあった。息子が大公の地位を継ぐとはいえ、長年連れ添った妻を何の未練もなく離縁したころから、噂が立った。

 

 曰く、ポーヴル大公ユグリッドは、王位と王妃欲しさにじつは王を暗殺したのだと。

 

 実際、疑われる条件は揃っていた。降嫁する皇女エタルニタを道中護衛したのは、ユグリッドであり、王が突然の病に倒れた戦場にともに赴いたのもユグリッドであった。しかし、世間の黒い噂はとにかく、『老人王ローシレイ二世』は王としての責務を全うした。その在位約三十年の中で国法を制定し、教育制度を整え、さらに四十七才のとき、エタルニタとの間に王子アルベールをもうけ、シムチエール王家の血統さえ作った。若い頃はローシレイ一世に付き従い様々な戦場を回った彼ではあったが、王になってからはできるだけ戦を避け、机の前の仕事に専念をした。彼が『老人王』と呼ばれる所以である。

 さて、彼が崩御した後アルベール王子はどうしたか。無論、王位を継いだ。

 

 二十七才の『青年王』の誕生である。

 

 父親が中年期に入った子どもであった彼は、反抗の二文字を知らないと言われるほど素直に育った。そして素直に、婚約者であるこれまた四大公爵家の一つであるペルダン家のドロテアと結婚し、父の遺言どおり、ガルディアンに戦争を仕掛け、素直に戦場で傷を負い、そのまま亡くなってしまった。さて、この辺からシムチエール王家に垂れこめた暗雲は、いよいよ雷の音を響かせ始める。

 青年王アルベール一世とドロテアの間には、三人の息子があった。アルベール一世が戦傷からとうとう回復せず亡くなってしまうと、王妃ドロテアは長男のユグリッド二世を立てる。 

 ユグリッド二世はこのとき八才。『青年王』よりさらに若い、『少年王』の誕生であった。

 

 さて、このユグリッド二世の一つ下の弟に、ユベール王子がいた。体も気も弱い兄と違い、彼は聡明で武芸の腕に優れ、やがてユグリッド二世は王位を退き、ユベール殿下が王位を継ぐのではないかというのが、大方の見方であり、密かな希望でもあった。事実、ユベールは十八才で成人の儀を終えると同時に宰相の地位に就き、兄王にも頼りにされていた。が、この聡明な王子にも一つ大きな弱点があった。

 

 自分の母親と、まるでそりが合わなかったのだ。

 

 ドロテアは子どもへの愛情が非常に偏った女性で、しかもそれが露骨に出るタイプだった。彼女が目に入れても痛くないほど可愛がったのは、体が弱く、一番自分の手を必要とし、また逆らうということを知らないユグリッド二世で、嫌いなのは何事も自分の思いのままに動かしたいという自分に理路整然と反論してくる二男のユベール。三男のライシャルトには、そもそも関心がなかった。母親とは反りが合わなかったユベールだが、意外と兄王との仲は良く、彼は宰相として兄王を懸命に支え、また兄も弟を大層頼りにした。

 面白くなかったのは、常に我が子に寄り添うドロテアである。

 ユベールの評判が高まれば高まるほど、母は『あの子は、自分の持っている頑健な体を見せつけて、兄たる王を蔑にしている』と不機嫌になった。兄王ユグリッドは母を思い、また、弟を思うだけの優しい人であったから、二人の確執に心を痛め、おろおろするばかりだった。このように水と油のような母子は何かとぶつかりがちではあったが、決定的であったのは、ユベールが、自分の妻にポーヴルのドロテアを選んだことであろう。二人の名前は同じだが、その気性はまったく違っていて、母への当てつけのために結婚相手を選んだのではないかと噂が立ったほどだった。

 母ドロテアは、荒れた。そして、事件は起こった。

 ユベールは、シムチエール五十周年記念式典の最中、二十才の若さで暗殺されてしまうのである。この悲報を聞いたユグリッド二世は、その心痛に耐えられなかった。彼はその場で昏倒し、半年後、生後二か月の王子を置き土産にしてこの世を去ることになる。さて、王と王弟を死に追いやったその人物は直ちに捕えられ、慌ただしく処刑が行われたが、その後奇妙な噂が立つようになった。


 王子ユベールは、王大后ドロテアの差し金で殺されたのではないか。


 先王アルベールも、若くして死んだ。本当は戦傷のせいではなく、我が子を早く王位に就けたいドロテアが毒でも盛ったのではないか。もっと言えば、今の陛下はお体が弱い。陛下が崩御されたのちには、自らが王位に就くつもりではないのか。だから、人望もあり寿命もありそうなユベール王子は殺されたのでないか……。

 一度そう言った噂が立つと、そう言えば……と芋づる式にすべてが疑わしく思えてくる。

 が、大方の期待を裏切り、彼女は女王にはならなかった。どころか、生後わずか二ヶ月の孫の即位を見届けると、二人の息子の喪に服するためと称して、とっとと実家が治めるペルダン領へと引っ込んでしまった。『王家の魔女』と呼ばれたこの女性にも案外、この人殺しめという人々の視線は耐えがたいというかわいいところがあったのかもしれない。

 

 そして、世は『赤子王リオンハート』に移った。

 

 リオンハートとは、獅子の心臓の意で、弟の衝撃的な死以来病みつき、もう床から出ることは叶うまいと考えた父が、自分とは違い、強い心と体を持てるようにとの切なる願いからつけられた名である。リオンハートが父か与えられたものはもう一つあって、それはユベール王子とポーヴルのドロテアの娘、メアレであった。同い年の二人は、こうして生後一年とたたぬ間に将来を誓いあうこととなった。が、父の願い空しく、リオンハートは父以上に弱い心臓の持ち主だった。生誕からわずか八年。メアレは未来の夫を失った。

 なお、余談ではあるが『王宮に巣食う魔女ドロテア』、そして、凶刃によって最愛の夫を喪なった『ポーヴルのドロテア』。この二人のドロテアのせいで、この時代以降、女の子につける名前の中で『ドロテア』の人気が急落したと言われている。

 さて、時間は大分アーウィリドたちが生きている時間に近づいてきた。

 続いて登場するのが、ある意味現在の騒動の元凶となったと言ってもいい、アルベール一世とペルダンのドロテアの第三王子ライシャルト、つまり、アルベール二世である。


「お前は所詮代わりの女だと思え!」


 先々王アルベール二世と、前王太后の生涯に渡る苛烈極まる夫婦生活は、こんな言葉で、その火蓋を切ったという。結婚式が始まる直前のこの屈辱に、ペルダン家の娘キルシェは、誰が見てもはっきりそうとわかるほど青ざめた。新郎たる王にこの新婦が無言で背を向けたころには、臣下たちが。そして、豪華絢爛でありながら、新郎と新婦が揃ってむっつりした表情でそっぽを向くという、なんとも型破りなパレードを見た瞬間、国民たちまでもがこの結婚の失敗をはっきりと悟った。

 アルベール二世は歴代王の中でも飛び抜けて激情家で気難しい性格だったが、兄王が生きていたころは、周囲には陽気な浪費家として知られていた。明らかに様子が変わったのは、次兄ユベールの暗殺以降である。どういうわけか、彼は『王室の魔女』の噂を盲信しきっており、次は自分が殺されるに違いないと恐れ戦いていたのである。そして、彼が抱いたもう一つの妄想が『自分は幸せな国家を築かねばならない。そして、それにはポーヴルのメアレを絶対に娶らねばならない』という、周囲が目を丸くするものだった。

 ポーヴルのメアレは夭折した甥リオンハートにとって、従姉に当たる。つまり、当のアルベール二世とは叔父と姪の関係である。しかも、その年まだ八才。

 周囲は思った。『この王、ちょっと頭がおかしいんじゃないか』

 しかし、アルベール二世は大真面目だった。何としても、ポーヴルのメアレを娶る。でなければ嫂のドロテアを娶るといって、どうしても聞かない。そのあまりの必死さに、ポーヴルのドロテアは義弟は本当に娘と結婚するか、自分と強引に関係を結ぼうと明日にでも我が家に押し入ってくるかもしれないと恐ろしくなった。結局、彼女は娘を連れ、ともに僧院に入るという道を選んだ。八才の娘に歩ませるにはあまりに残酷な道ではあったが、それでも王の幼すぎる妻になるよりはましと、母は思ったのだ。

 報告を聞いた王は不機嫌になり、次いで挙げられた候補者の名に怒りを爆発させた。

 その女性こそ、ペルダンのキルシェである。


 ペルダン、ペルダン、ペルダン! ペルダンのキルシェ!


 王宮の魔女をこれほど恐れている王が、これを聞かされたとき、どんな気持ちであったか。若い頃から女性には不自由のなかったアルベール二世だが、自分の心を癒してくれる女性は生涯見つけることができなかったのである。ある意味、彼は男の中でもっとも不幸な男だと言えるかもしれない。

 とにもかくにも、みなが思っていたとおり、この結婚生活は終始一貫失敗続きだった。

 ただ一つ成功したことと言えば、二人の男児を設け、見事血を繋いだというところだろうか。もっとも『お互いをとことん嫌い合うという点では、まことにお気の合ったご夫婦』と言われるとおり、彼らには案外憎しみ合う相手がいるというこの状況が必要だったのかもしれない。

 さて、舞台は整った。

 いよいよグラモーレス侯爵夫人の恋人、この話の主役ユベール王の時代到来である。

 その前に、夫と不仲であった女が、上の息子とも不仲になった理由を語っておかなければならない。夫とも我が子とも不仲な女を、世間では不幸というのだろうが、キルシェという王妃は『王宮の魔女』ドロテアの激しい気性にさらに輪をかけたような気性で、我が子への愛情の隔たりもきっちりと継いでいたために、その世間からの同情を勝ち得るのが大変難しい女性であった。そのご乱行のほか、『戦争王』としても知られたアルベール二世がことさら戦争をしたがったのは、王宮内で蛇蝎の如く嫌っている妻と顔を合わせるのが嫌だったからとも言われている。妻から逃げる言い訳として戦争を使うというのもなかなかはた迷惑な話だが、周囲にとって幸いなことに、キルシェは二人目の子を宿すと、出産と育児を理由に実家に居ついてしまった。つまり、別居が始まったのである。というわけで、王子ユベールは母をほとんど知らずに育った。そして、意外なことにアルベール二世は手元にいる息子を可愛がった。もしかしたら、母に愛されなかったわが身を、息子に重ねあわせていたのかもしれない。ユベールは父の庇護の下、ある意味まともに育った。というわけで、父王が長年の不摂生がたたり病を得て、いよいよ危ないというときにしたり顔で戻ってきた母を、格別歓迎もせず淡々と出迎えた。王位はすでに長男であるユベールが継ぐと決まっている。では、母親は何をしに戻って来たのか? 次王の后を決めに来たのである。ここで、母と息子の亀裂は決定的なものとなった。王大后は、王より七つ年上の従妹で、トレートル家の娘を息子の妻に奨めたのである。

 満面の笑みですでに決定事項であるかのようにこれを宣言した母に、近未来の王は激怒した。夫が病みついているとき、しかも、長い間ほったらかしてきた息子に言うことが、まずそれですかと。

 キルシェは呆気にとられ、次いで真っ青になり、最後に真っ赤になった。

 不思議なもので、この母親はなぜか息子は自分の思い通りになるものと信じていたらしい。これがまるで戦争のような怒鳴り合いの日々の始まりとなった。病みついたアルベール二世にとって、これは大層堪える出来事だった。が、すでに往年の膂力を失い、妻を押えつける力のない彼は癇癪を起こして壁に枕を投げつけるくらいが精々であった。

 そして、母とのたび重なる口論は王子ユベールにも、意外な変化をもたらした。

 早熟すぎる父に対し、かなり奥手だと言われていたユベールが、これ見よがしに女性を連れ歩くようになったのである。それはまるで、母に若き日の屈辱を思い出せと言わんばかりの行動であった。

 そして、事態はとうとう動いた。母子喧嘩のあまりの激しさを見かねて、四公家の一人であるシェルシェール公爵が、自分の遠縁に当たる娘を養女に入れるから、それを王妃にしてはどうかと王に進言したのである。ほとんど土気色の顔で、王は妻と我が子を呼び、これを厳命した。これには妻キルシェのみならず、子ユベールにも不満はあったが、死にゆく父たっての願いとあれば息子としては、無視のしようがなかった。

 かくしてアルベール二世は崩御し、ユベール王の時代が結婚式とともに始まった。

 が、よくも悪くも今までまさか王妃になるとゆめ思ったこともない田舎娘は、それほど剛毅なわけでもなく、また格別美しいわけでも、教養に優れているわけでもなかった。当然、王大后キルシェが気に入るはずもなかった。そして、結婚生活わずか七年で妻は死んだ。他人お奨めの女が死んでしまったのだから、今度は自分で納得いく、それも素晴らしい女をと王が考えたとしても無理はない。幸い前妻との間に子はないし(と、王は最後まで思っていた)、なにより王はこのときまだ二十五才の若者だった。四、五年独身を謳歌したところで、何の障りがあろう? というわけで、王は自由を楽しんだ。遊説と称しては地方の有力貴族のもとへ顔を出す。中でも一番のお気に入りが『義兄上』と慕ったポーヴル公爵領で、数年後、王は彼の引き合いのもと、運命の出会いを果たすことになる。

 それが、エミリア・バーバラ。後のグラモーレス公爵夫人である。

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