第18話 再会

 ふらふらと、おぼつかない足取りで恐山はただ真っ直ぐ歩んだ。


 後ろは、あえて振り返らなかった。


 高いアンテナの伸びた駐在所。その前に群れる留人の頭を、彼は鉈で力任せに叩きつける。そこにはもう、死者達への配慮など無かった。顔の真ん中を縦に割り、原型を留めなくなった留人達を横目に、ガラス戸に手を掛けて中へと入る。ガラガラと後ろ手にドアを閉め、一歩二歩と歩いた後、彼は膝から崩れ落ちた。


 そのまま頭を抱え込む恐山。彼はこれまでに無いほどに狼狽えていた。


 その背後、駐在所全体を揺らさんばかりの打撃音が響いた。


 そっと振り向けば、血飛沫に塗れたガラス戸の向こうで、隻腕となった女の留人がぼんやりとした様子で立っているのが見えた。


 二度、三度、手のひらをそこに叩きつけると、血の手形がガラス戸に張り付いた。


 恐山は立ち上がり、その方を向いた。彼女は首と肩を上下に揺らし、そしてさも当然かのように取っ手に手をかけて、ガラガラと引き戸を開けた。


「意識があるのか……?」


 あまりにも自然なその動きを見て、震える声で留人に語りかける恐山。


「頼む、何とか言ってくれ。」


「ヴヴヴォォォヴヴヴォォォ……」


 悲痛な問いかけを無視するかのように、身体を震わせた留人は、裂けた口を大きく開き、うなりを上げ、腕を弓なりにして、真っ直ぐ恐山に向かってぶつけた。


 何の受け身も取ることなく、彼は胸部を強く打たれ、地面にはりつけになった。駐在所の床に大の字になる彼の上に、留人は容赦なく飛びかかる。


 恐山に馬乗りになるような形になった留人は、彼の肩に手をかけて、首元に噛みつこうとするが、寸出のところで彼は両手を突き出すと、彼女の首元を掴んだ。カチリ……カチリ……と、肉を噛めなかった事を悔しがるように、むき出しの歯が虚しく宙を噛む。剥き出しになった歯から、粘着質な毒が一筋溢れ落ちたので、恐山は顔を背けてそれを避けた。


 そのまま恐山は、身動きを忘れたかのように身体を硬直させ、自身の上の留人をただ支え続けた。彼の腕力があれば、それをどかし、また鉈で頭を割る事も出来ただろう。しかし、戦い方すら忘れたように、彼はただ、留人と向き合っていた。


 そしてあろうことか、その目には、涙が溢れていた。


 その雫はぽろぽろと、目尻から首筋を伝って落ちていく。涙でぼやけた恐山の目の中には、自身の血肉を求めようとする、恐ろしい留人の姿は映っていなかった。


「……清香きよかぁ……。」


 ――そこに恐山が見たのは、愛する一人娘の姿であった。長い髪の奥、恐山の手が、彼女の悲しいまでに冷たい皮膚に触れる。香ばしい留人の臭いを漂わせ、その手になんとしても齧りつこうと顔を動かす彼女の表情からは、人らしい感情は感じられなかった。


「なして、こんなことになった……なしてじゃ……」


 恐山が呼びかける声も虚しく、尚も彼女は顔を動かして血肉を喰もうとし、隻腕を振り回して柔らかい肉を削り取ろうと努力し続けていた。


 留人達が、都から歩いて来ていると予想してから彼の脳裏に娘の姿が離れる事は無かった。


 きっとどこかに無事で居るはずだと、そう彼は自身に言い聞かせてきたのだが、まさかこんな結果が待っていようとは。


 頭の中は、真っ白になる。


 過酷な現実。その前に彼は、ただ打ちのめされていた。


 妻を早くに亡くし、男手一つで彼女を育ててきた恐山。そこには、一言では語れぬ苦労があった。望まずとも送り人の力を持って生まれた事で、幾度も苦労をかけた事もある。衝突した事も一度や二度ではない。


 それでも立派に、健康に育ってくれた我が子。


 気付けば互いに歳を取ったのだろう。いつまでも小娘だと思っていたその子の目尻に刻まれた皺を見つけ、次々零れ落ちる涙が止まらなかった。


 そんな、終わらせる事を躊躇する恐山と、終わることのない存在になってしまった娘。その天秤が傾く方向は、既に明らかだった。ここには、あの逞しい送り人の姿はない。ただ、子を失い、深く傷ついた老人が一人居るだけである。


 徐々に、彼の腕力に限界が近づく。無言のまま、見つめ合う二人の親子。やがて顔と顔が触れ合うぎりぎりの距離にまで追い詰められた恐山が、ついに生きる事を諦めたその時、開け放たれたままのガラス戸の向こうから、人影が覗いた。


「母さん。」 


 そんな若い声が、室内に響いた。恐山の喉元にまで迫っていた彼女は、ぴたりと動きを止め、反射的に反応し、ぐるりと振り向く。それは、驚きを露わにしているようにも見えた。


 恐山の上から身体を上げ、声の主の方を見つめる彼女。そこに立っていたのは、全身を血で濡らしたケイ。彼女の息子であった。


「母さん……!」


 唇を震わせ、今にも泣き出しそうな表情で叫ぶケイ。ゆっくりと立ち上がった彼の母は、片足を引き摺りながらその元へと近づいた。


「いかん、離れろ!」


 孫の危機に立ち上がる恐山の前で、彼女はそっと腕を差し出した。びくりと身体を震わすケイ。そして彼女は、その頬を撫でた。


「――ごめんね。」


 鼻声のままそう言って、ケイは彼の母を抱き寄せた。恐山は、彼の手に握られた送り刀を目にした。静かにされるがままにしている彼女の後頭部に、それをあてがい、ゆっくりと差し込む。


「け」


「い」


 確かに自身の息子の名を呼んで、彼女は膝から崩れ落ちた。後頭部には、血に濡れたケイの手が添えられていた。横たわる母と共に、ケイは一緒に床に腰を落とすと、頭を膝に抱え込むように抱きしめ、大声を上げて泣き出すのだった。


 誰が彼の悲しみを止められるだろうか。誰が彼の気持ちを分かってやれるだろうか。それは、一度は全てを諦めた恐山にも同じことで、ただ咽び泣くケイと、動かなくなった自身の娘を、彼はただ呆然とした表情で眺め続けることしか出来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る