第8話 木梨
「木梨さん、早く逃げろ!」
さっき店を出ていったばかりのケイが、血相を変えて戻ってきたと思えば開口一番そんな突拍子もないことを木梨に言ってくる。
「はあ、何言っとるんだ」
もう一杯茶でも飲むかと彼が湯呑みを取りに行こうとすると、シャツの裾を強引にひっぱられる感触がする。その力強さに振り返ってみれば、恐山の孫、ケイは真っ青な表情で震え、木梨の目を見つめて声をやっと搾り出すように言った。
「や、やばいんだって。こっちに、留人の、群れが来てる」
息も絶え絶えにそれだけを伝えると、彼はとにかくここから逃げろと急かしてくる。その只ならぬ動揺ぶりから、木梨はその言葉が冗談ではないことを悟った。
ケイに背中を押されるまま店の前に出てみれば、姿こそまだ見えてはいないが、確かに風に混じった留人特有の腐臭がする。
それは木梨が子供の頃、村の外で何度も嗅いだことのある臭いだった。
この香ばしい臭いがしたらすぐに逃げろと、子供の頃によく母に言いつけられていたものだと思い出す。とにかくこれは一刻を争う事態だと、彼はすぐに頭を切り換えた。
「いいから落ち着け、群れと言ったが何体程だ?」
「分からない、けど、五十は軽く居た」
五十、その数字に木梨は我が耳を疑った。そんな数の留人の流出、ここ数十年見たことはおろか、聞いたことすらない。落ち着くように言っておきながら、ケイ坊と同じように動揺してしまっている自分に彼は気づいた。
その焦りを散らすかのように右手でこめかみの辺りを掻いて、今どうすべきか、最善の答えをそこからひねり出そうとする。
――ここで自身が下した判断によって、多くの町民の命が左右されるかもしれない。そう思うと細かい汗粒が彼の額に浮き出てくるのだった。
昔のように、集落を囲む塀もない。
よっぽどのことがなければ、その留人共は木帰町に入って来るだろう。だからと言って隣町に逃げようとするのはまた危険だ。ここから隣町まで、歩いて半日以上の距離がある。留人に追われ、混乱した年寄り達が逃げ切れるとは到底思えなかった。
ならばどこかに隠れて連中が通り過ぎるのを待つべきか。町民全員が、なるべく安全な場所で……。
その時ふと彼の頭に浮かんだのは、昨晩の宴会の光景だった。
そうだ、公民館だ。木帰町公民館なら十分な広さもあるし、何より集落の一番高台にある為、町に入った留人の動きも手に取るように分かる。
だがしかし、突然の避難を知らせて一体何員の町民らがあそこまで無事にたどり着けるだろうか。額の汗粒がまとまって一滴の線を額に走らせる頃、覚悟というその二文字が彼の脳裏によぎった。
「――いいかケイ坊、一度しか言わんからよく聞け。今すぐ表に出て、町のジジババに公民館まで逃げるよう伝えてこい。ほんでそのままお前の爺ちゃんにな、恐山さんにこのことを伝えるんや!」
それが終わったらすぐに走って公民館に行けよ。そう付け加えると、木梨は少年の肩を軽く掴んでそのまま表に向かって押し出した。
「分かった、木梨さんも急げよな!」
若いのは理解が早くて助かる。
短く返事をすると転がるように外へと駆けていくケイ。じきに店の表に、留人が出たことを叫ぶ声が聞こえた。さて、と木梨は店内を見回すと、名残惜しそうに二、三度頭を振った。
「少なくとも、二階に上がるだけの時間はまだありそうだな」
木梨商店と書かれたエプロンを外し、レジの横に放り投げつつそう独りごちると、彼は店の奥、急な階段を一歩一歩登っていくのだった。今、自分にだけ出来ることに気付いてしまった以上、やるしかないだろう。キィキィと木の階段を軋ませながら、彼は決意を胸にしていた。
――木帰町唯一の商店である木梨商店が、ちょうど町に入って最初に目に映る位置にあるのは単に偶然ではない。というのも、木梨家は元々この集落における見張り役の家柄であるのだった。
見張り役というのは、かつてこの国が混迷を極めた時代、町や村の入り口に設置された見張り小屋に常駐し、集落に向かってくる留人をいち早く発見する任を負った者のことを指している。彼等見張り役の常駐するその小屋は、その当時全国どの町や村にも存在しており、木帰町の前身となる鬼帰村の玄関口にも、鉄の塀に寄り添うように高さ十二メートルの見張り小屋が建てられていた。
頂上にある吹き抜けの見張り台では、都から派遣された役人が
しかし、やがて死人が野を跋扈する時代は終わり、朝廷政府によって見張り役は見直されることとなった。お役御免となった見張り役達には、代わりに都での仕事が斡旋されることになったのだが、代替わりして当主となっていた彼――若き日の
「まさかワシの代でも見張り役の仕事をするはめになるたぁな……」
文句をぶつくさ言いながら、木梨は急傾斜な階段を登りきる。既に物置になって久しい上階は、ここしばらく立ち入ることもなくなっていた。
彼は、埃の被った屋根の支柱に手をかけて、どこから入り込んだのか床に散らばる枯れ葉を足で隅にやりつつ窓の方へと向かった。
二階の窓を開けて表を見れば、確かにぴょこぴょこと頭を揺らしながら進む留人の群れが、木帰町へ来ているのが見えた。少し高い視線から見た留人達の数に、木梨は思わず息を飲み、そして町を襲う悪夢の大きさに絶望した。
「なんじゃあこいつは……この世もいよいよ終わりか」
そこに見えたのは、都から続く都道の遥か先から連なっている亡者の列だった。五十どころか、軽く三桁はくだらない数の留人の群れが、それぞれ間隔をあけつつ、ゆっくりと向かってきているのだ。
この分だと、五分と経たない内に彼らの先頭集団は集落へと達し、木帰町は瞬く間に招かれざる客達で溢れかえってしまうだろう。
木梨は、窓から半身を乗り出して店の屋根を確認した。そこには、アンテナのようにそそり立つ鉄柱が四角い木梨商店の屋根から伸びているのだった。鉄柱の先には、お椀型の大きな拡声器が二つ括りつけられており、そこから鉄柱を伝って屋内に、一本の配線が伸びている。木梨は再び部屋に身体を戻すと、その配線の行き着く先を見つめた。
窓側の壁に置かれた木机の上。そこには、マイクの付いた簡易な機械が設置してあった。拡声器から伸びた配線はここに繋がり、マイクを通じて町中に声を届けることが出来るのだ。
――これは、天災等における緊急放送用に市街地で街頭拡声器の設置が進められているとの話を商品の仕入れついでに耳に入れた木梨が、木帰町の為に自費で購入設置したものであった。
見張り役の家に生まれた人間は、集落の人間の命を何より優先して守る義務がある。そう父から常日頃のように教えられていた木梨は、見張り役という役職が無くなり、平和な世の中となった今でも、その精神を大切に守り、あらゆる災厄から集落を守りたいと常日頃願っていた。
この小さな集落に不釣合いな大仰な拡声器は、そんな木梨の不器用な愛の形とも言えた。しかし、幸運にも町は平和そのものであり、本来の目的で使われたことはこれまで一度もなく、二階の片隅で埃を被ったままになっていた。ちなみに本来の目的でない使用例としては、以前木梨がテスト放送と称して自慢の歌声を流した、通称カラオケ事件が上げられる。
ある日の深夜、酒に酔った彼が町中に届けた抑揚の効いた美声で歌われた
カンカンになった妻が、金槌で壊そうとまでした埃の被った高価なカラオケ機材。木梨はそれを黙って見つめ、表面に積もった埃を手のひらで拭って電源を入れた。するとパチンと音がして、青色のランプが点灯するのが見えた。
同時に外の拡声器から、キィンと空気を震わす高音が響く。あとは、マイクに向かって呼びかけるだけで、あの夜、町中の人間が木梨の歌声で目を覚ました時のように、全員に危機を知らせることが出来るだろう。
ついでに音に敏感な留人共を、一箇所に集めることもできるかもしれない。当然いつまでもと言う訳にはいかないが、足の悪い年寄りが避難するくらい時間稼ぎは出来るはずだ。
と木梨は機材の音量調節と書かれたつまみを指にとり、それをめいいっぱい上に押し上げてマイクに向かった。
【――緊急放送、緊急放送。】
彼は、緊張から声が出せないかもしれないと考えていたが、それは何のことはない杞憂だった。鉄柱の先に括られた拡声器からは、少し遅れて落ち着いた木梨の声が流れた。
【留人の群れがこの集落に来ております。かなりの大人数です。今すぐ公民館へ逃げて下さい】
かしこまった口調で言った後、首を振りつつ含み笑いを浮かべる木梨。どうも調子が出んな。と小さく言った後、先程とはうってかわった大声で叫んだ。
【――いいか……全員良く聞いてくれ! 先に言っとくがワシは今日、酒は飲んどらんぞ。つまりこれは冗談じゃない。皆聞け! この町に留人の群れが迫ってきておる。見れば分かると思うが、それも中々の数じゃ。ちょうど今、まさにワシの店の下にまで来ておる。この声が聞こえとるもんはすぐに、すぐに、今すぐに! 公民館まで逃げろ! もしそれが無理なら、せめて家の戸締まりをして隠れとれ!】
拡声器から流れるその必死な声は、ついにこの町にその異変を伝えることに成功した。外を歩く町民は、山の麓、集落の入り口に群がる留人達を認め、屋内に居たものも何事かと表まで出てきた。
【留人が来とる。留人がこの町に来とるから、今すぐ公民館まで避難せい。絶対に町を降りて逃げようとするな、こいつらは都道を登って来とるぞ! すぐに公民館へ逃げて、恐山か松島の指示に従え!】
町中に木梨の張り詰めた声が響き渡る。木梨商店の下に到達した留人達のうめき声が、拡声器から流れるその声の背後にうっすらと聞こえていた。
マイクを握る木梨の耳にも、地を這うようなその声と、階下から店の戸を何度も打ち叩く音が聞こえていた。まるで家全体を揺らすような激しさに、思わず身体とマイクを持つ手が震える。
しかし、不安が声に表れてはいけないと木梨は脂汗を流しながらも恐怖に耐えた。町民を怯えさせるなど、見張り役としては三流のやることだ。そんな随分昔に聞いたきりの父の声が、彼の中でしていた。
留人には、脳のタガが外れたような怪力持ちはいても、まともな思考力や判断力を持つ個体は存在しない。恐らく自分の声が聞こえている限り、この場所に彼らは留まり続けることだろう。その間に、町民が避難を終わらせることだけを彼は願った。
しかし当然、いつまでも引き付けていられる訳ではない。トタン壁の木梨商店が、留人達の馬鹿力にどれだけ耐えられるものか。その時間は神のみぞ知ると言った所だろう。
まあいい、自らの命運が尽きるまでだ。と彼は、怯える自分の弱い心を鼻で笑いながら、マイクを握り震える手をもう片方の手で力強く押さえつけ、愛する町の人々に声をかけ続けたのだった。
◇
――最初に外で畑仕事をしていた数人が、ケイの声でその異常事態に気付いた。木梨商店を出て以降、喉が壊れんばかりの大声を上げて彼は公民館まで逃げろと血相を変えて走り続けていた。不思議顔でそれを見る町民らが、ケイの指差す方を見ると、尋常でない数の人が、集落に足を踏みいれんとしている光景が見えた。一体何事かと尋ねられたケイがそれを全部留人だと言うと、そのあまりの非現実的な光景に腰を抜かして立ち上がれなくなる者もいた。
混迷の時代に生まれたとはいえ、幼少期には既に安全な塀の中での暮らしがあり、やがて訪れた野良留人の居ない平和な時代に慣れ切ってしまった町民たち。
優秀な送り人のおかげで、彼らは長い間人の死のなんたるかを忘れていたのだろう。自分たちにも死後訪れる、魂の抜け殻としての姿。死後に取り立てられる、生の代償たる留人という呪い。すぐそこに大口を開けている死の姿を、彼等は見ないように暮らしてきたのだ。
そんな町民らにとって、目の前に突然突きつけられた光景はあまりにも衝撃的すぎた。足元に広がる死の恐怖にうろたえ、歩くこともおぼつかなくなった老人たちは、公民館へ逃げるよう伝える若い声も聞こえず、ただ狼狽え、混乱したままそこに立ち尽くした。
ケイはその姿を見て、彼等以上に焦っていた。我を忘れた大人ほど始末の悪い者はなく、必死に叫ぶ自身の言葉通りに動いてくれる者はほとんど居なかった。町の上から見れば、その留人の尋常でない数が改めて分かる。先頭の留人は既にその着ている服の色すら判別できる程の距離にまで迫ってきているのだ。
ここから公民館まで、若い自分の足で行くならともかく、こんな状態になった爺さん婆さん達が果たしてたどり着けるのだろうか。彼一人では抱えきれない命の責任。目の前で失われるかも知れないその重みに、頭の中がグルグルとまわり、眩暈がしてくる。
そんな時、町の空気を震わす大きな音が聞こえた。
【――緊急放送、緊急放送】
【留人の群れがこの集落に来ております。かなりの大人数です。今すぐ公民館へ逃げて下さい】
そんな出だしで始まった放送は、徐々にその口調に熱を帯び、同時に耳の遠い年寄りにも聞き取りやすいようにと、ゆっくりと、しかし的確な情報だけを繰り返し伝えて続けた。あの大音量であれば、屋内にいる人にだって必ず伝わることだろう。実際に狙いは上手く当たっているらしく、ケイの周りで右往左往していた町民たちが、少しずつ放送を聞いて冷静になっていくのが分かった。
「でも、それって……」
反響する声の方を向いて、強く歯咬みするケイ。留人は死後の経過時間にもよるが、人間だった頃の五感の内、主に聴覚と嗅覚を頼りに動いており、音で生物を捉え嗅覚で人間を判別すると言われている。
つまり留人のいる所で大きな音を出すというのは奴らに見つけてくれと言っているようなもので、自殺行為と言えるのだった。まして町中に届くような大音量であれば、眼下に見える留人達の全ては木梨商店に集まってしまうだろう。
「くそ、何格好付けてんだよ!!」
【身体の元気なもんは、そうでないもんを連れて行ってやれ。ゆっくりでもいいから一歩一歩、今は何も考えず、ただ公民館へ向かったらいい】
憤るケイ達に届けられる、その語りかけるような口調の木梨の声は、悲しいくらいにとても優しかった。
【まあ心配するな。ワシらの集落にゃ、恐山がおるじゃないか。だから今は何も考えず皆公民館へ向かえ。絶対にこんな奴らに捕まるンじゃあねえぞ】
その後も繰り返される木梨の放送を聞いて、冷静さをわずかでも取り戻した者から一人、また一人と公民館へ駆け出していく。中にはあまりの緊張と恐怖から、胸を押さえながらゆっくりと歩いている者もいたが、何とかお互いに助け合ってその歩を進め始めた。暗澹なる海に放たれた灯台の光にも似た木梨の言葉を頼りにし、上へ上へ、公民館へと向かっていく木帰町の人々。
しかし、その中でケイだけは、その希望を目指す町民の列に混ざることも、また祖父の元へ向かうこともしなかった。
木梨の捨て身の行為に気付いた時には、既に彼の身体はこの声の大元へと、留人達に囲まれて、悲鳴のような軋みを上げる木梨商店へと駆け出していたのであった。
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