第2話 留人

 部屋の大きな窓には、薄手のカーテンがかけられていた。


 そのベージュ色の布地の下半分は、赤黒い手形の染みで埋まっているのが見える。恐らく彼女は、何度もここに手を叩きつけていたのだろう。


 その窓際に寄り添うように置かれた木製のベッドの上には、若い頃は美人で知られていた鼻の高い横顔が、カーテンの隙間から漏れる光によってうっすらと照らされていた。


 元は白かった肌は、今や血の気が全くない土気色に。大きな瞳は白く濁り、乱れた長い髪の隙間に覗く首元には、はっきりとした死斑が浮き出ている。それ故、ひと目見て彼女、山下 トシ子の魂が既に空へと解き放たれていることを恐山は確信した。


 なんとも形容しがたい腐臭の漂う部屋の中、目を開き宙を見つめたまま事切れている山下。


 恐山が銃口を下げてその側まで近寄ると、息を無くしたはずの彼女の口が、何かを訴えるようにゆっくりと開閉を繰り返すのが見えた。しかし、彼は別段取り乱すことはなく、ただ黙ってベッド脇に立つと、思案顔で彼女の全身を見渡すのだった。


 恐山が毛布をめくり上げた所で、彼女の死体は今度は上半身をゆっくりと持ち上げ始めた。かくんかくんと、バネの壊れたからくり人形のように首が動き、彼女は天井に向かって大口を開けた格好になる。


 首の座らないその不気味な姿は、まるで綿の寄ったぬいぐるみを思わせるものだった。バランスを保てなくなった頭部がぐったりと胴体の上に乗って横に傾き、焦点の合わない濁った目が恐山を捉えている。そして彼女は、歯の抜けた口をパクパクと開閉させ、声を上げた。


「お”お”お”あ”あ”あ”」


 先に声と言ったが、声帯を不器用に震わせ山下が叫ぶそれは、声と呼ぶにはあまりにも不完全で不快な異音であった。しかし、死者が動き、腐肉を震わせ叫ぶ姿を前に対しても尚、恐山は何の反応も返すことはなかった。さも当たり前のようにそれを一瞥すると、彼は物言う死体をそっちのけで、担いでいた猟銃の肩紐を外して後ろの箪笥に立て掛ける。


 そして、黒く重厚な鎧の内側でそっと目を瞑り、手の平を重ねて祈りの言葉を呟き始めるのだった。


「その者の魂、輪廻流転の業より逃れ、菩提樹の木の元へ迷わず還られよ」


 手を合わせられている彼女は、首を垂直に持ちあげると、酷い猫背の姿勢で恐山を不思議そうに見ていた。その皮膚に浮き出た紫色の動脈は心臓の停止を、そして茶色く染まったシーツは漏れ出た体液の腐敗を知らせている。しかし、ここまで魂の不在が明らかであるにもかかわらず、彼女自身はその死を受け入れていない様子だった。


 かすれた息の混じるうめき声を出しながら彼女は、ふらふらと震える枯れ枝のような両腕を持ち上げ、恐山に向かって突き出す。


 そして、宙を掴むように指を何度か折り曲げた。その仕草は、恐山に何とかして触れたいという意思表示なのだろう。しかし、彼女の腰から下だけは、蘇ることを忘れたように動くことはなかった。それは偶然ではなく、生前の彼女の配慮による結果であることが、毛布の下に露わになったものによって窺い知れた。


 山下は恐らく、孤独の中で自身の死期が近いことを悟っていたのだろう。自身の魂がいつこの世を去っても良いように、毎晩その為の準備を行っていたらしい。


 ある日の就寝中に人知れず息を引き取り、再び肉体だけを蘇生させた彼女。自我を持たない自由なその抜け殻をベッドの上に留めていたのは、その腰に巻かれていた一本の帯紐であった。黒色の丈夫なこの紐は、いわゆる『留め紐』と呼ばれる類のものであり、幅太の帯紐は彼女の腰を一周し、そのままベッドフレームに結わえ付けられていた。仕組みは単純で、慣れれば子供でも取り外しの出来る簡易な仕掛けの紐である。


 今では田舎以外で見ることは珍しくなったが、かつて愛する家族をから守る為、この留め紐を使うことが一般的だった時代があった。


 いつか来るであろう送り人、恐山の為に自らの身体を縛り、ついにほどくことが出来ない存在になり果ててしまった彼女は今、他ならぬ過去の自分による拘束によって自由を奪われ、まるで幼子が抱っこをせがむ時のようなポーズのまま身悶えをしていた。


 人がこうした死の新たな側面の恐怖に怯えるようになって、どれだけの年月が経ったことだろう。死ぬことの意味が変質した時期には諸説あるが、かつて神々の領域に手を触れ自然の理から逸脱した人間に、神が罰を下したのだとこの国では広く伝えられていた。しかし、いかなる罪であったとしても、物を知らぬ赤子を含んだ全ての人が償い切れない程、重い罪がこの世にあるものだろうか。


 魂が不在のままこの世に留まる哀れな姿。この国では、こうなった人々を一括りに留人るじんと呼んだ。そこには単純な呼称の問題だけではなく、人間との区別をつけることで、故人の尊厳を守ろうという意図がある。しかし、いくら呼び名を変えて誤魔化そうが、愛した人がそのままの姿で起き上がる事実にも、また変わりはなかった。


 存在自体が周囲に悲しみを与える留人達。彼らを元の人間に還すのが送り人の仕事である。


 人の生とはなんと虚ろで不確かなものだろうと、留人の姿を見る度に恐山は思った。どんなに偉い人間も絶世の美女も、死ねば皆等しく転化する。この世で誰一人、こうなる運命から逃れられる者はないのだ。


 あまりにも虚しい人の命にも思いを馳せつつ、彼は留人への祈りを終え、静かに一歩前へと出た。いよいよ自らの仕事に取り掛かる時が来たのだ。


「分かったから、待っとれよ」


 穏やかな声でそんな独り言を呟きつつ、まず彼が腰袋から取り出したのは、噛み轡かみぐつわだ。これは、ちょうど人の口に収まる半月型の樹脂で出来た道具であり、その人の口の咬み跡が無数に付いた半月の左右両端には、丈夫な紐が結わえ付けられていた。


 恐山は片手でその半月部分を掴むと、もう片方の手で留人の頭を押さえ、顔を気持ち上へと向けさせた。そして、うめき声を上げて開いたその口に押し込むように噛み轡をあてがう。すると、さっきまでの弱々しい動きがどこへいったのか、留人はがっつりとそれへ齧り付き、二度と離そうとしなかった。


 それもそのはず、彼女が夢中になっている噛み轡の表面には道具を使う人間の、この場合恐山の血を薄めたものが塗布されているのだった。これは留人が人の血を好んで求める性質を利用した、拘束の為の道具なのである。


 次に恐山は、薄い肌色の半月の両端にある紐を留人の後頭部へと回し、それを強く縛り上げた。彼女の耳の上に固い結び目が作られ、これで恐山を噛むことが叶わなくなった。やっと毒を持つ恐ろしい口が塞がれ、恐山は少し安堵し、同時に町の叉鬼達またぎたちに迷惑をかけんで済むと内心苦笑した。集落から離れ、山中に居を構える叉鬼には、送り人が万一事故で死んだ場合、その後処理をする役目があるからだ。


 しかし、まだ油断は禁物である。例え恐山が尋常ならざる怪力を持った熟練の送り人であっても、生きた人間であることに変わりはない。何かの間違いで留人の毒に当てられれば、その死は避けられないのだから。


 彼は一度深呼吸をしたのち、今度は腰袋から手のひら大の大きさの道具を取り出した。木製の持ち手部分を片手で掴み、その先を包んでいたちり紙を外す。するとそこに、先端の鋭い金属の棒が三つ現れた。三角の点を作るように並び、まるで千枚通しを三つ束ねたような見た目をしたこの道具を、この地域では送り刀おくりがたなと呼んでいる。死して尚死を知らぬ留人達を黄泉の国へと送る為の、送り人にとって最も大切な道具である。


 これまでも、この町の人間を幾人も還してきた送り刀。刃先から年季を感じさせる鈍い輝きを放つそれを右手でしっかりと握ると、恐山は再び留人の頭を押さえ、その首と頭蓋の境目辺りに三つの先端をあてがった。すると、まるで何かを察したかのように彼女は鼻息を荒くし身体をよじって逃れようとする。しかし既に恐山の丸太のように太い腕がその頭部を固定している為、ついに自由にはならなかった。


 もがく彼女が諦めたように力を抜いたその瞬間、あてがわれた三本の刀がゆっくりとその頭蓋の中へと差し込まれた。


 瞬間、見開いていた目は眠るように閉じ、まるで糸の切れた操り人形のように、留人と化していた山下 トシ子は、身体の動きの全てを止めた。ついにその肉体が現世から解き放たれ、魂の元へと帰っていったのである。


 眠る彼女の後頭部から送り刀を優しく抜き取り、その血を丁寧に布で拭き取る恐山。仕事を終えた彼は遺体の乱れた髪を手ぐしで整えている途中、何か思いついたように後ろを振り返った。その視線の先には衣服の散らばる箪笥が見える。


 彼は箪笥の中を開くと、乱雑に詰め込まれた衣服の奥から、丁寧に折りたたまれた白い襟付きシャツを見つけ取り出した。そして自身の分厚い両手の革手袋を脱ぎ、その小さなボタンをひとつずつ外して広げると、物言わぬ山下の方を向いてニコリと笑った。


「着替えじゃ」


 彼は穏やかな表情で眠る山下の、血と体液で汚れた寝間着の裾を持つと、なるべく正面を見ないよう配慮しつつ背中の側からそっとめくった。





 恐山がカーテンを外して部屋の大きな窓を開けると、部屋の死臭を押し流そうとするように山から冷たくも爽やかな風が吹き、森の木々が息をする、生命の匂いが部屋に入ってきた。その窓のすぐ横、白いシーツが敷かれたベッドの上には、それを気持ちよさそうに肌に受け眠る山下の姿が見えていた。


 これだけ大きな窓なら、彼女を直接外へ運ぶことも出来るだろう。恐山はそう考え、実際に試すかのように、自ら窓から身を乗り出して外へと出た。


 枯れ葉の積もる足元を踏みしめるように確かめ、窓越しに眠るように死んでいる山下を見た後、彼は腰袋を探り中から薄い板状の通信機を取り出した。これは正式な呼び名をスマートフォンといい、みやこにある朝廷政府ちょうていせいふから、全国の送り人達に貸し出されているものであった。


 これが半導体をふんだんに使われた、いわゆる復元不可能な旧世紀の遺物の一つであり、大変な貴重品であることは言うまでもない。そんなものを端から見れば田舎の年寄りに過ぎない恐山が持っているのは、彼ら送り人が、社会にどれだけ重要とみなされているかの証拠でもある。


 彼は老眼を細めつつ、おぼつかない手つきでその通信機のパネルを触ると、次にこの仕事を引き継ぐ人物へ連絡をとった。


 というのも、送り人の仕事は留人を人へと還すところまでであり、この後の諸々の手続きや死者を弔う儀式の準備は、木帰町に駐在する警官と町会長によって行われているのだ。


「――もしもし。ああ、無事に終わったよ」


 窓辺に眠る死体の側。恐山の白髪を、山から吹く風が撫でつけていた。

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