第3話 柄谷
段々畑のように家々の連なる木帰町。
その中腹には背の高いアンテナが目立つ、白い建物が建っていた。
壁は去年の春、町民らの手を借りて白ペンキで塗ったばかり。下地にうっすらと木目の覗く、年季の入ったその木造平屋建て。
大きなガラス張りの引き戸が表に開かれており、その横に掛けられた木板には『木帰町駐在所』の文字が墨書きされているのが見える。
四角形の小さな所内には、都からこの田舎町に赴任されてきた老警官が一人常駐していた。しかし、もっぱら平和な木帰町にあっては通常業務は程々に、日がな一日湯飲みを片手にぼんやりとしているか、たまに届く国からの知らせや、町民の家族による緊急の電報等諸々を伝える伝達係としての役目を主としていた。
達筆な文字で書かれた看板の横には簡易なパイプ椅子が置かれ、その書き手でもある人物がコーヒーカップを片手に、山間から昇りゆく朝日を見つめていた。オレンジ色に染まる山の輪郭を前に、いかにも幸せそうに目を細めている彼は、この駐在所に赴任して五年になる警官、
彼は勤務時間前であるにもかかわらず、既に紺の詰め襟の制服を着用しており、灰色の髪の上から都警の帽章付きの制帽を被っていた。豊かな眉毛とたれ目、痩せがちでピンと伸びた背筋からは、優しさと共に老犬の威厳とでも言うべき風格が滲み出ていた。
「どうもおはようございます、流石に柄谷さんは早起きですな」
そんな柄谷の元へ重たい身体を揺らしてやって来たのは、木帰町の町会長 松島 隆であった。彼は柄谷の側まで近寄って来ると、寒い季節に合わぬ量の汗を首に巻いたタオルで拭き、分厚い頬肉を上げて愛想笑いを浮かべている。
「ああ、どうも松島さん。ほら、とても綺麗な朝焼けですよ」
「……ええ、ええ確かに。今日も綺麗でなによりだ」
言いながら空の方など見向きもせず、どこか落ち着かない様子を見せる松島。普段はあまり外出もしないという彼が、こんな早朝から駐在所に来た理由が何であるかを、柄谷は当然理解していた。
この日の彼等二人は、送り人である恐山からの連絡を待っていたのだった。留人を死体に還すという恐山の仕事が終わり次第、彼等二人の仕事が始まるからである。
それは、現場確認による事件性の有無の調査から、町の外に住む遺族への連絡、葬儀場と化粧師の手配までと、大変な労力を必要とする仕事だった。
「今日もね、だいぶ早い時間からジャラジャラと聞こえてましたよ」
そう言って白いコーヒーカップを片手にした柄谷は、袖を小指でめくって時計を確認し、山下家の方角を見つめた。山に囲まれたボウルのような平地、彼方に木に囲まれた小さな家が徐々に太陽の元に晒され始めているのがそこに見えた。
「ええ、恐山さんはいつも仕事が早いんやわ。しっかし、ワシはこれがある日はどうにも落ち着かんで……」
そう言って松島は目頭を擦った。見ればその目の下には深いクマが刻まれている。
「どうしたんですそのクマ。まさか、一睡もしていないんじゃ」
「そのまさかで。ほんにお恥ずかしい話ですわ」
聞けばでかい図体の割に心配症であるという彼は、宴会が終わり家に帰ってからも、布団に入ったきり上手く寝付けなかったようで、それを紛らわそうと更に晩酌をしたのだと言う。
昨日が月に一度の宴会であることは知っていたが、それにしても酒の臭いがすぎると思った。と大きな欠伸をする松島の前で、柄谷は苦笑した。
「でもね、分かりますよ。私もこと留人となるとどうにもね……」
地方の訛りもなく丁寧な言葉遣いが特徴的な柄谷は、朝廷政府のお膝元として知られる都育ちの人間だった。彼は定年後、都警でも地位ある職への再雇用の道が用意されていたにも関わらず、それを蹴り、誰も行きたがらない遠方地への異動を希望し木帰町の駐在になるという、一風変わった経緯を持つ男である。
子供はなく、定年間際に妻も亡くしている。ただ、その仔細について踏み込んで聞く者がなかったので、恐らく木帰町の人々は、それ以上は何も知らないはずであった。それは、こと身内の死の話となると、皆心に大きな傷を伴っていることが多いのがその理由だろうと柄谷は考えていた。
今より遥かに不安定な時代に幼少期を過ごし、死んでから動き回る知人の姿を間近に見てきた老人達であれば、その気遣いは尚のことだ。そんな、あくまでも自然な様子であくびをしてみせる松島の横で、息を吐き出すように柄谷は呟く。
「実は昨日、死んだ妻が出てくる夢を見てしまってあまり眠れませんでした」
「ああ、あんたそうやったか。気の毒やったね……」
「いえ、気を遣わせてしまっていたらすみません」
柄谷は眉尻を下げ、片手をひらひらと顔の前で揺らした。
そして、コーヒーカップを口元に寄せ、底に残っていた最後の雫をすする。
「警官の仕事っていうのは、とても忙しいものなんです」
ふうと息を尽き、彼はかたりとカップをソーサーに置くと、そう切り出した。
「この世の中……、人手が足りないのは都警も同じで。出勤したきり一週間も帰れないなんてこともざらにありました」
「はぁ、都にはまだ若者が沢山おると聞いておったが」
「そりゃあ沢山居ます。でもね、やっぱり先行きが見えないと、人の心は荒れるんでしょうね。年々、治安は悪化してきています。そうなると必然的に我々の仕事が増える訳です。……寒いでしょ、中に入りますか」
松島の息の白いことに気付き、柄谷はガラス戸を開けて所内に入ると、半開きのその向こうから手で松島を案内する。
「ある日、大きな仕事を終えた日のことでした。家に帰ると、妻がね……台所に、立ってたんです」
安物の椅子に座り、言葉を詰まらせている彼の前で、後ろ手に戸を閉める松島。少し底の濡れたその靴が、ワックスのかかった駐在所の床に擦れて音を鳴らしていた。
「台所に居るんが、そんないかんことかね」
革製のベンチに腰掛け、困惑顔で問いかける松島に対し、柄谷は自身の言葉足らずを詫びた。
「すみません、実は、妻はその数年前に事故で足を悪くしていまして。家の中では基本的に車椅子で生活していたんです」
「そりゃあ、つまり……」
「ええ……そこに立っていたのは妻ではなく、留人でした。私が知らない間に妻はこの世を去り、誰にも看取られぬまま留人になっていたんです」
その死因は、急性心不全だ。消えゆく意識の中、自身の死後を気にしなければならなかった彼女のことを思うと、柄谷は今でも後悔してもしきれなかった。もうすぐ定年を迎え、やっと夫婦で向き合う時間が増えると思っていた矢先の出来事。生真面目で仕事熱心だった彼の心は、そこで完全に砕けてしまったのだ。
「それで、この町へ来たんか」
長い息をつく松島。
「ええ、妻はこの集落の出身なんですよ」
「そいつぁ……初耳だ」
「だと思います。妻の旧姓は、菊島というんです」
松島は何か記憶があるらしく、片目を瞑りながら固まると、答えを見つけたように顔を上げた。
「ああ、昔都へ越して行ったあの……!」
「ええ、ちょうどこの場所に、実家があったと聞いています」
彼のその言葉に、松島は口を開けたまま、改めて自身の立っている場所を確かめていた。柄谷にとって郷里でもないはずのこの田舎町。この町へ異動してきた理理由は妻の面影を求めてのことだったのだ。。
「すみません、いきなり湿っぽい話をしてしまって」
「いいや構わん。それにこういう日じゃからな。暗い話はさっさと胸の内に仕舞わず吐き出した方がええんじゃ」
立ち上がって柄谷の細い肩を軽く叩いてくる松島。
町の誰にも言ったことのなかった話を、どうして今松島にしたのかは、彼自身も分かずにいた。
「ありがとう。やっと、私の中で何かが完結しました」
「そいつぁ、良かった」
そう言って松島が浮かべた笑顔は、彼には先ほどとは違って見えた。
◇
「――山下さんは、やはり亡くなっているんでしょうか」
ジジジと音を立てる電気ストーブを移動し、ベンチに座り並んだ松島に、柄谷はそう尋ねた。
「そうやなぁ、十中八九間違いないやろな。話を聞く限りやと、多分転化して三日ってとこかの」
指折りながら、松島は頷く。
「全く、どうして巡回で気が付かなかったのか」
単身世帯だからこそ、もっと注視しておくべきだったと柄谷は頭を下げる。
「気にするこたぁないよ。音のしとったんは家の裏手やし、トシ子さんもここんとこ、外にも出んで塞ぎ込んどったから……」
松島はそこまで言って、ふと外の方を見ながら遠い目をした。
「まあ、それでも人が減ってしまうってのは嬉しいもんじゃないがね」
先細っていく世界の中、真っ先に消えゆこうとする町、木帰町。町会長である彼には、きっとその運命に思うところあるのだろう。二人の間にしばし沈黙が流れた。
「そうだ、待ってる間にコーヒーでも飲みませんか。先日都から良い豆を取り寄せたんですよ」
「ええ、ほんならお言葉に甘えさせてもらいます」
松島の憂鬱を察知して、気を利かせた柄谷が給湯室へと立ち上がった時である。四角い駐在所の部屋の隅、彼の仕事机の上にあった黒電話がジリリリと鳴り響いたのだった。
瞬間、松島の大きな身体がビクリと縮み上がっていた。
柄谷は受話器を持ち上げ、警官らしい落ち着いた声で送り人からの報告を受ける。
結論から言うと、やはり山下さんは亡くなり、留人になっていたようであった。
既にその処置も完了しているとのことだったので、簡単な状況説明を受けた後、二人でそちらへ向かう旨を伝えて彼は重たい受話器を下ろした。
死人が出ている手前、直接口に出しては言わなかったが、柄谷は送り人の仕事が無事に終わったことを伝えてから小さく微笑んだ。
すると松島も同様に安堵した顔を見せる。電話のベルが鳴るのを待つこの時間は、それほど二人にとって不安なものなのであった。
送り人からの連絡を待つことしか出来ない彼等にとって、最も恐ろしいのはこの電話のベルがいつまで経っても鳴らないことだった。恐山を信頼していない訳ではないが、頭のどこか片隅に、二人の留人の元へ向かう自分達の姿がよぎってしまうのだ。
「さ、出ましょうか」
晴れた空の下、駐在所から姿を出した体格の対照的な二人が歩き出した。重たい身体に押されるように、ほっほっと少し小走りになって前を進む松島と、長い足でそれにゆったりと着いていく柄谷。
「――柄谷さん、ちょうどあのへんの杉林になっとる所が見えますかね」
「ええと、あそこですか」
二人で坂を下り終わり、今年の収穫が済んですっきりとした田んぼを横目に歩いている途中、松島が前方遠くの山を指差した。柄谷が目を細める風にして指の先を探すと、背の高い雑木とは対照的に、等間隔に並んだ小さな杉の木が群生している箇所が見えた。
「そう、そこな。実は、あの山の麓には昔もう一つ村があったんですわ。」
「それは……初耳です」
「そうじゃろ? そりゃあ、ワシがこんなに小さかった頃に無くなった村やからな」
そう言って松島は手の平を自分の腰に当て、あの頃はただの鼻タレ小僧だったと言って笑った。
そして、山下家までの時間潰しのつもりか、消えた村にまつわる思い出話と自身の過去を柄谷に語り始めたのだった。
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