第4話 転鬼

 それは松島が子供の頃、まだこの町が旧町名の鬼帰村きがえりむらと呼ばれていた時代の話だった。


 盆地を囲う山々の内、南山に位置する鬼帰村には恐山家が、その対角線上にある北山には神納村じんのうむらと呼ばれる村があり、そこには立花たちばな家という送り人の一族が住んでいた。


 その頃の世は、まだ野良留人のらるじんが歩き回る混迷の時代。高い鉄の塀で囲まれた村には、魂を無くした放浪者が頻繁に訪ねて来ており。それを放っておく訳にもいかないと、毎日のように送り人による留人の処置が行われていた。


 処置とはつまり、留人の脳機能を物理的に止めて、彼等に二度目の死を与えること。それを恐山家ではその後主流となった送り刀の原型に近い、ハリガネと呼ばれる道具で行っており、一方の立花家では当時革新的技術として期待されていたある手法を用いて行っていた。


 立花家の用いた手法。それは、特殊な薬剤を留人の血管から注射し脳機能を直接止めるヤクドメと呼ばれるものであった。


 謳い文句は『留人の身体のどの部位に注射しても良く、また即効性もあり安全で大変優れている』とのことで、何よりその処置中の見栄えが頭に金属を突き刺すよりも遥かに良いことが人々に歓迎されていた。当時の鬼帰村でも、恐山家がその新しい手法を取り入れるべきだと主張する者も多かったと言う。

 

 そんなある日のことである。松島が村の近くの山に入り、子供同士で遊んでいた所、祖母が血相を変えて彼を探しに来たことがあった。草木の中を駆け回りそこかしこを土で真っ黒にしている孫を見つけるなり、駆け寄った祖母は乱暴な程に強く彼を抱きしめると


かったぁ、かったぁ。」


 ただそれだけを繰り返したという。そして、有無を言わさず松島の小さな手を強く握り、遊んでいた他の家の子も引き連れて村の中まで帰っていった。まだ太陽は空高く輝いている時分。


 自分たちの遊んでいたのは、熊も留人も出ない、人の手の入った明るい山であった為、幼い彼は不思議顔で何故帰らなければならないのかと質問したが、彼の祖母はそれには一切答えてはくれず、結局その日は村の外はおろか、家から出ることすら両親に固く禁じられてしまった。


 その夜、家でやることも無くふて寝をしていた松島が、小便ついでに廊下へ出た際のこと。


 目を擦りつつ便所から戻る途中、廊下の木戸の隙間から漏れる一筋の灯りを、彼は見つけたのだった。興味本位からその側へと近寄り隙間にそっと目を当ててみると、木戸の向こうでは父親を含む村の男達が数人、居間の囲炉裏を囲んで怪訝な表情で話し合いをしているのが見えた。


「そしたら明日の朝、皆で留人を殺すってことでええかっ」


 そう言うなり、待ちきれないとばかりに立ち上がったのは、身体の線が細く、目鼻立ちの整った若く美しい青年だった。その目は囲炉裏の炎が瞳に映り、熱く燃えているように見えた。


「――座れ馬鹿もん! いいか、殺すんとは違う。我を失ってしもうたあいつらを、人の道に戻してやるがじゃ」


 それを一喝したのは、男達の中でも人一倍大きな身体を持ち、同時に猛獣のような迫力を備えた大男だった。彼が睨みつけると空気を無くした風船のようになった青年は畳に座り、息を吐いて俯いたという。


「それが、恐山やった」


「はぁ……なるほど、昔から身体が大きかったんですね」


 ジャリジャリと都道を歩む二人。松島の横で得心したように柄谷が頷く。そんな想定通りの反応を見た松島は、得意気な顔を浮かべると大げさに首を左右に振った。


「いやいや違うぞ、そっちは恐山の父ちゃんや。ワシらがこれから会うんは、立ち上がった美青年の方やな」


「美青年……。」


「くくく、今でこそ大岩みたいなジジイやけどな、昔は細くて女にも好かれるやったみたいやぞ」


 まるでいたずら好きの鼻タレ小僧のように笑った後、松島はその先へと話を続けた。





「――ワシとせがれであのジジイの相手するさかい、お前らは残りの留人を処置してくれ。難しい仕事になるとは思うが、よろしく頼む」


 そう言って、仕事が全て終わったら皆で酒でも飲もうと皆を励ます恐山の父。


「これで解散じゃ」


 彼が立ち上がると、続いて体格の良い男達が次々に表へと出ていくのが見えた。どの人物も、幼い松島が村で見かけたことのない顔であった。


 彼らの後に続く、一回り小さく貧相な体つきをした甚兵衛姿の男が松島の父だった。村長職に就いて間も無かった松島の父は、深々と頭を下げて男達を見送ると、火の消えかけた囲炉裏の横に座り込み一人酒を飲み始めた。ちらちらと赤く照らされるその表情には、どこまでも沈鬱な色が浮かんでいた。


 今ならば、その時の父の肩にかかる責任の重さが松島にも分かる。彼がすぐに酒に逃げようとするのも、もしかするとそんな父の真似をしているのかもしれなかった。


 しかし、その頃まだ幼かった彼は、親の見てはいけない部分を隠れ見てしまったことへの罪悪感に襲われ、そのまま踵を返して寝室に戻り布団の中へと飛び込んだのだった。


 その明朝、留人達に名前を呼ばれるという悪夢にうなされ目を覚ました彼は、目が覚めても尚自分を呼ぶ声が止まないことに気がつき、布団から跳ね起きた。


「たかし……おい、隆……まだ寝とるんか、おいっ!」


 それは喉から無理やり絞り出すような小さな呼び声だった。寝ぼけ眼を擦りつつ、松島がおっかなびっくり声のした方の木窓を開けてみると、そこには藍染めされた麻の着物を纏った、一人の少年が立っていた。


兵太へいたくん?」


 松島がその名を呼ぶと、指の鼻を擦りながら「おうよ」とその少年は笑った。丸刈り頭に濃い眉毛が特徴的な彼は、松島の三つ年上でいつも子供たちの遊びの中心を担っている村のガキ大将、山本 兵太やまもと へいたである。


「――ほら、山沿いに叉鬼またぎの集落があるのは知っとるやろ?」


 懐かしい思い出に浸り、数歩先の地面を見て歩いていた松島は、ふと顔を上げて柄谷に尋ねた。


「ええ、今時あんな立派な樹上長屋じゅじょうながやは珍しいですからね。」


「兵太、いや山本の爺さんは叉鬼の家系でな、昔からあの集落に住んどるんだわ」


 松島や柄谷が今住んでいるのは、南山に築かれた旧鬼帰村の流れを汲む集落であった。ここにはかつて農業を営む村民達が、塀によって囲われた村の中で畑を耕して暮らしていたのだという。


 一方、鉄砲を操り獲物を仕留める、いわゆる狩猟を生業としていた叉鬼達は、塀の中には住まず、南山の山裾をずっと進んだ先に別の集落を作って暮らしていた。


 彼ら叉鬼は頑丈な塀を持たない代わり、先祖が植林した剣山のようにそそり立つ杉林を家の柱として、木の上に家を建てて暮らしていた。平和となった今でもその集落は健在であり、山本家を含む五つの世帯が、未だに樹上に広がる小さな共同体の中で生活を営んでいる。


「あの人もな、その日叉鬼の集落からウチの近所の親戚ん家に預けられて、家ん中で腐ってたらしいんや」

 

 それを聞いた柄谷は、一層首をかしげていた。


 松島は軽く頷いて言葉を続ける。


「これは、その数年後に親父から聞いたんだがな……あの晩囲炉裏を囲んでおった見慣れぬ男達は、皆叉鬼の集落の人間だったらしい。彼等は危険な仕事を引き受けるもんで、万が一自分達が帰れんかった場合に備えたらしいんだわ」


「危険な仕事……ですか?」


「ああ、確かにこの世で一番、とびきりの危険な仕事やった。そん時のワシには、見当も付かんかったがな。」


 そこで一旦松島は、柄谷の目を一度真剣な目で見た。本題に入るぞという合図だ。小さく息を吸い込んだ松島は、いよいよ村に起きた事件に触れ始めた。





 ――親戚の家を早々と抜け出して、遊び仲間で仲の良かった松島の家に飛んできた山本兵太は、大人達の様子がおかしいのを、村に行商が来ているせいではないかと予想していたのだという。


 行商とは、季節に一度村に訪れる、馬車に荷物を満載し山を越えて都の方からやってくる旅の物売りだ。


 その荷の中には日用品だけでなく、都でしか手に入らないような珍しい品や、子供であれば興味を持たずにはいられない旧世紀の珍しい玩具などもあり、特に寒い季節になると娯楽も少なくなる山手の村では、老若男女皆が行商の到着を心待ちにしているのだった。


 少し時期は早いが、実際表には大人達の姿は無く、何やら村の入り口の方に人影が見える。ならば答えは一つ。


「行商以外に、考えらんねぇだろ」


 そう山本は、三つ年下の松島に力説した。


 村のガキ大将に力強くそう言われ、それを信じぬ子供はいないだろう。あっと言う間に面白い品物を見たいという気持ちだけが頭を支配して、松島は結局親との約束を破り、山本と共に家の外へ出ることにしたのだった。


 幸い、家の中に何かと厳しい父の姿はなく、母は台所で鼻歌交じりに炊事をしている最中だった為、彼は易々と玄関から滑り出ることが出来た。外には山の朝特有の霧がかった冷たい空気が満ちており、寝ぼけた彼の意識は急速に冴えていった。


 玄関の前では既に待ちかねたといった様子の山本の姿があり、彼は松島の顔を見るなり行くぞとだけ言って先に駆け出した。


 好奇心に手足を生やした年頃である彼らは、何の根拠もないままに行商が店を広げているだろう村の門の方へ吸い込まれるようへと向かっていく。


 道路を下る途中、門の前に道路を塞ぐ程の人だかりが出来ているのを認めた時、彼らはいよいよそれを確信して胸を期待に膨らませた。


 人だかりの最後列に着いたが、大人たちは寄り添うように立っていた為、隙間も無く、前方には何も見えなかった。


 彼等は小さな身体を活かしてその股をくぐり、気づいて引き止める手を無視して先頭列まで一気に躍り出た。しかし、そこには行商はおろか、子供の喜ぶようなものは何もなく、代わりに衝撃的な光景が広がっていたのであった。


 幼い彼らがまず目にしたのは、古くひび割れた道路のアスファルトに溢れる、赤黒い血溜まりだった。


 血溜まりに顔をうずめているのは、真っ黒な影。


 それは、黒い鬼装束を纏ったまま横たわる村の送り人だった。


 ピクリとも動かないその身体からは、赤黒い血がだくだくと漏れ出ており、その血の量は、彼がもう助からないであろう傷を負っていることを誰の目にも明らかにしていた。


 そして、その血溜まりのすぐ側には、頭に鉢巻を締めた美青年が立っていた。


 綿生地の着物を纏っていたその青年は、全身を血でぐっしょりと濡らしている。


 松島は、昨日囲炉裏の側で見た顔を思い出し、それが送り人の一人息子であることに気がついた。


 彼の両手には不釣り合いなまでに長い太刀が握られており、その刃先には真新しい血がこびりついていた。


 道に倒れて大量の血を流す送り人と、刀を片手に立ち尽くすその息子。


 その部分だけを見た少年達は、当然短絡的に「親殺しだ」と発想した。しかし、すぐに彼らは、そんな凄惨な殺人現場を囲む大人達が、全員その手に刀や槍を握っていることに気がついたのだった。


 若く頼りない青年の背後に、こぞって固まるように肩を寄せ合い、武装した大人達の視線。その全てが、地面に横たわる送り人の死体ではなく、村の門扉の方へと向けられていた。


 その昔、鬼帰村に限らず、どの集落の入り口にも留人の侵入を防ぐ為鉄の合板で作られた頑丈な門扉があった。


 夜、定刻になると頑丈なかんぬきがされ、また朝になれば、村の見張り役の手によって門扉は解放される。それが村の決まりだった。


 しかし今、太陽も十分に昇り、開け放たれて然るべき門扉は固く閉ざされたままとなっており、また、ぴたりと重なるはずの両の扉は、その中央に歪な隙間を空けていた。それは、まるで巨大な万力で無理やりこじ開けたかのようだった。


 明らかに自然に曲がるようなものではなく、何か人為的な恐ろしい力を感じる歪み方をする門扉。


 そして、ひしゃげた門扉からここまでに、一直線に赤い血の線が引かれていることに松島は気づいた。


「ここまで逃げて来たんか……」


 同時にその赤い線に気がついたのか、彼の隣で同じく呆然としていた山本がそう呟いていた。


 まっすぐ引かれた血の線の側には、二本の引っかき傷がアスファルトに刻まれており、それが送り人が横たわる血溜まりに続いていた。


 それはきっと、重い鎧の足を二つ擦った跡であり……つまり頑丈な鬼装束を着ていながらに致命的な怪我を負わされた送り人を、その息子が引きずり逃げてきた跡であることに少年達は気付いてしまったのだ。


 目を見合わせた彼等は、歪んだ門扉をもう一度見た。


 まだ見えない、しかし薄皮一枚向こうに広がっているであろう深淵を想像した彼らの手足は、がたがたと震え始めた。


「来よるかっ」


 道路に溢れる程の大人数が居て、申し合わせたかのように声を発する者が誰もなかった為、恐山青年のその呟きは、周囲によく聞こえた。


 既に子供が二人紛れていることに気を回す余裕のある者は、どこにもいなかった。ただゴクリと息を飲む村民らの音が聞こえるかのような静寂がそこにはあった。


 そんな、緊張の極限を迎えようとする彼らの前。


 最初に現れたのは、大きく節くれだった長い指であった。


 ガギンと鋭い音を立て、ひしゃげた鉄の門扉の隙間に掛けられた指。


 一本、二本、三本と徐々に増えていき、探るような仕草と共に四本目へ達したその瞬間。前触れも無しに鉄の門は、扉に張り付いていた閂ごと、めくり上げられてしまった。


「――!!」


 突如ぽっかりと外に向けて大穴を開けた門の向こう。姿を表した不安の正体を見た松島は、恐怖から声も出せなかった。大人たちは咄嗟に武器を構え、勇敢な仕草を見せたものの、その動揺を隠しきれている者はいなかった。


 そこに立っていたのは、一体の隻腕の留人だった。見上げる程の身の丈を持ち、隆起した筋肉が関節すら覆い隠そうとしているその姿。


 頭の先から爪先まで、余すところなく人の返り血で真っ赤に染まっており、それは、まるで地獄の釜から抜け出した鬼の姿そのものに見えた。


 留人が右手に握る歪んだ門扉を離すと、アスファルトに叩きつけられた鉄クズは、ガランガランと凄まじい轟音を辺りに響かせた。


 ゆっくりと、こちらに歩んでくるその動きには、留人特有の不自然さや不安定さは一切見られない。


 一歩ずつ、確かな足取りで前に進み、その光を無くした瞳は、鬼帰村の住民達を見据えていた。


 彼を一目見て生きた人間ではないと知らしめるのは、その返り血を浴びた姿や馬鹿力によるものだけではない。


 その腹部からは腸が露出しており、肩口には、送り人の道具であるハリガネが突き刺さっていたからだ。


 むせ返るような香ばしい留人臭、その他にも身体に刻まれた切り傷と銃痕が、直前に行われた死闘を生々しく語っていた。


 明らかに死んで、転化をし終えているにもかかわらず、留人らしからぬそのしっかりとした足取りと、生命力溢れる動きを前にして、武装した村民達は、困惑と驚愕の入り混じった表情のまま動けずにいた。


 そんな時であった。彼らに背を向けて立っていた若い剣士がこう声を上げたのだ。


「ワシが仕留めてやるさかい、よう下がっとれ」


 そう背後に声をかけると、恐山青年は父の得物である長刀を両手に握り直し、真っ直ぐ留人に向かって駆けていった。空にまで届かんと掲げられた刃は、彼の身体に対してあまりにも大きかった。


 堂々と歩み寄る留人と、風の如く駆けていく恐山。


 その間合いが、両者の死の領域にまで踏み込む。


 雷撃のごとく、振り下ろされた長刀の鋭い太刀筋。


 それを身体のひねりだけで避けた留人。


 彼は、代わりにその拳を恐山の腹へと叩き込んだのだった。


【動きが鈍く、噛むしか能のないのが留人である。】


 松島の持っていたそんな常識と固定観念は、その時一瞬にして崩れ去ってしまった。


 口を開けて見つめるのは、宙に舞い上がり、民家の壁を半壊させて倒れ込む恐山の姿。


 その光景の与える衝撃は、事前に留人の話を聞かされていただろう大人達も同じだったらしく、この時をきっかけに、彼らは皆蛛の子を散らすように四方八方へと逃げ去ってしまったのであった。


 隻腕の留人は、逃げ去る人々を目で追いつつも、そのまま真っ直ぐ歩を進め続けた。


 留人は目の焦点が合っていなかったが、その顔の向きから地面にうずくまる少年達を次の標的として捉えていることは明らかだった。


 松島と山本は、あまりの凄惨な光景に腰を抜かしてしまい、未だ立ち上がれずにいた。


 数秒後の自身の死を悟り、思わず失禁する松島。そこに、彼らと留人の間に飛び込んできた一つの影があった。


「俺の息子に触れてみろっ! 留人に化しても貴様を縊り殺してやる!」


 それは、槍を留人に突き出す松島の父の後ろ姿だった。


 強い口調で自身を鼓舞しつつ、鋭い刃先を留人の頭へと向ける父。


 父は、本来家に居るはずだった我が子を守る為、命を捨てる覚悟を一瞬間に決め、端から勝ち目のない戦いを挑んだのだろう。


「と、父ちゃん!」


「はよう、逃げんかぁ! この馬鹿息子! 俺の代わりに母ちゃんを大事にしたれ!」


 振り向きざま、口角から唾を飛ばし怒鳴りつける父。人生で最大にして最後の度胸を見せつけるそんな姿を、泣きながら見ている松島。そんな親子愛などお構いなしに、隻腕の留人は歩み寄ってきていた。


 留人の胸先からわずか数歩半の距離にある槍は、細かく上下に震えており、その手に持っているのがやっとという様子だった。


 もはや武器を持っていようがいまいが、屠殺場の家畜と変わらない彼らの命の炎。


 恐怖に目を瞑り、それがまさに吹き消されんとした、その時。地震でも起きたかのような衝撃が、座り込む松島の尻に伝わってきたのであった。


 まだ命のあることに気づき、松島が恐る恐る目を開けて見れば、目の前には巨体を横たえた隻腕の留人の姿があり、その留人の足元には、鬼装束を纏った送り人の姿が見えた。


 既に彼との死闘を一度終え、結果致命傷を負って敗北した鬼帰村の送り人。


 その体力と気力は、とうに限界を超えているのは誰の目にも明らかだった。しかし、目の前の村民を守るというその妄執にも近い強い念が、もう一度彼に生命を与え、死にゆく身体を動かしたのだろう。


 足から徐々に腰にまで這い上がった送り人は、その腐肉をむしり取らんばかりの気迫で留人にしがみついていた。


 留人も負けじと、節くれだった右手の指を地面に突き立て、ガリガリと地面を引っ掻き、何とか前に進もうとしていた。


 その濁った瞳には、怯えきった表情を浮かべる松島達の顔が写り込んでいた。


「……後……頼む…………」


 その時分厚い鬼装束の奥から聞こえた小さな声。


 それは、背後から宙を駆けんとせんばかりの勢いで走り寄る、彼の一人息子へと向けられた言葉だった。


 死に損ないの邪魔者を振りほどこうとする留人。


 髪紐がほどけ、額から血を流した姿で、まさしく鬼のような形相の恐山青年は、長髪を振り乱し、高く掲げた刀を振り下ろしたのだった。





「――それで、ワシは命をとりとめたんや。」


 胸の辺りを軽く押さえ、感慨深げに松島は呟いた。


「後で大人達が隣村の様子を見に行ったんだが、村民の大半がその隻腕の留人に殺されおってな。まるであの世のような酷い有様やったらしい。結局、送り人の絶えた村に戻りたがる者もおらんで、神納村の生き残りは鬼帰村に移住して、あの村は廃村になってしもうた」


 慰霊の意味も込めて空き地となった村の跡地に、植樹が行われたのはその数年後であった。


 あの晩松島が見た、囲炉裏を囲んでいたは、結局恐山親子以外は誰一人として帰らなかった。中には優秀な叉鬼として知られる山本の父も含まれており、父と二人暮らしていた彼は、そのまま親戚の家に預かり育てられることになった。


「確か季節が二つ過ぎた頃にな、山奥の竹林で身動きの取れんくなった父ちゃんを山本が見つけて来たんだったかな」


「痛ましいですね」


 柄谷は彼の口ぶりに、それが生きた状態ではないことを悟った様子だった。亡き父を探しに山に入る少年の姿を、脳裏に浮かべているのかもしれない。


「――ちなみにその、隻腕の留人というのは……」 


「ああ、神納村の送り人である立花家当主の爺さんはな、若い頃に留人に噛まれて自分で左腕を切り落としとるんだわ」


「つまり隣村の送り人が襲ってきた訳ですか」


「そういうことだ」


 死後、誰も見たことのないような恐ろしく強い留人へ転化した隣村の送り人。


 まず、何が彼を殺したのかというと、それは他でもなく彼が取り入れていた薬剤による処置、ヤクドメの欠陥によるものだった。


 実は、後にこの事件がきっかけとなり、ヤクドメには半日もしない間に蘇る留人がいるという致命的な欠陥があることが世に知られ、その欠陥が生んだ最初にして、最も代表的な事故として、神納村と鬼帰村を襲った不幸な事件は、一時都の新聞を賑わしたという。


 事の顛末はこうである。


 事件の前日、川で命を落とした子供の処置を行った立花は、翌朝葬儀の為の化粧師が来るまでと、遺体を自宅に預かっていた。


 しかし、その日の深夜、脳機能を復活させた留人が、隣室で就寝していた彼の喉元を咬んだのだった。


 翌朝、夜泣きが激しく寝所を別としていた幼い立花家の末娘と、それに付き添い世話をしていた下女が母屋へ訪れた所、屋敷は荒れ放題となっており、外に出てみればそこには、仕えていた家の主人や奥方含め、沢山の留人達が徘徊する地獄のような光景が広がっていた。


 その後命からがらその子を連れて鬼帰村まで逃げた下女が、仔細を先代の送り人に話した所、恐山の父は村に最悪の事態が起きたことを悟り、すぐ松島の父に人を集めさせ、留人と化した送り人の危険性を知らせ、家から子供を出さぬよう強く言ってきかせたのだった。


「先代の送り人、つまり恐山の父ちゃんはな、この留人を転鬼てんきと呼んでおったらしい」


「転鬼、ですか」


 鬼に転じると書いて転鬼。元は山手の地方の送り人の間でのみ使われていた、隠語に近い言葉であるのもので、その意味は文字通り、留人の力を遥かに越えた鬼への転化を表していた。


「昔から送り人は、そういう危険な因子を抱えとるという噂があったんやけどな。それでもこの事件の後、まだ十五にも満たなかった恐山さんへの村の大人達の態度の醜さときたら……本当にワシは……我慢ならんかった!」


 直接の命の恩人であり、また村の為に自身の父をも失った悲劇の英雄であるはずの恐山。


 しかし、死後送り人が転鬼する可能性があると知った村民の多くは、一種の視野狭窄に陥り、母もなく天涯孤独の身になった彼を、よってたかって化物呼ばわりしたのだと言う。


 松島と山本は、恐山に面と向かって言い放つ愚か者がいたなら言わずもがな。もし陰口だとしても決してそれを許さず、大人であろうが激しく反論し、恐山を庇った。


 しかし当の恐山は、どのような酷い放言を聞こうが決して言い返すことは無く、それでいて村民が死んだと聞けば必ず駆けつけ、送り人としての仕事を粛々とこなし続けたのだった。


 鬼の因子を持つ送り人への、交流の一方的な断絶。その雪解けには、長い年月がかかった。それは恐山が先代の面影を強く残す美丈夫に育った頃である。


 村の一番上、今の公民館で村民達を集めた集会が開かれたのだった。


 上座には、当時恐山青年の背後で武器を握っていた者達が並んでおり、既に成人を迎えていた松島達は下座の端に座っていた。


 集会が開かれたのは、ちょうど十年前のあの日と同じ日にちだ。


 集会の内容を知らされていなかった村民達の多くも、それを察していたのだろう。皆多くは語らず、人数の割に部屋はとても静かだった。呼気で曇った窓ガラスはあれから十回目の冬の訪れを告げていた。


 ぎっしりと人の詰まった集会場の入り口が、わずかにざわめいた。


 皆と一緒に松島が振り返ると、そこには何か思い詰めた表情をした恐山が立っていた。


 彼はこの日まで、村民達の集まる場所へは一切近づかず、同時に恐山をあえて呼ぶ者もいなかった為、公の場所で皆が姿を見るのは、あの日以来初めてのことであった。


 大きくなった身体に視線を浴び、何とも言えぬ居心地の悪さを感じたのか、気まずい表情をして踵を返そうとする恐山。


「待ってくれ! 頼む!」


 彼の到着を知った上座の全員がそれを引き止め、そして、畳に額を擦り付けた。


「本当に、本当にすまなかった。我々は、殺されても仕方のないような酷い仕打ちを、あなたにしてしまった」


 頭を下げたまま、最初にそう口を開いたのは、当時転鬼の前から真っ先に逃げ出し、その後の送り人への差別を煽動する中心人物となっていた一人の老人であった。


 彼は、ただ様子を見ているだけだった己の弱さから目を背ける為、恥を重ねる行為をしてしまったことを涙ながら詫び、結局その集会が終わるまで一度も顔を上げることはなかった。その後も次々と、皆の自責と後悔の言葉が恐山に語られた。


 向けられた頭に白髪を混じらせ、いつの間にか年老いていた彼らに対し、恐山は怒りをぶつける声も、また更なる謝罪を求める声も上げなかった。彼は何一つ語らぬその代わり、大粒の涙をぽろぽろと零して微笑んでいた。


 溢れる涙を誤魔化すよう、口を真一文字にくいしばり天を見上げる、そのあまりにも不器用な姿は、彼を庇うと同時に慕い続けてきた松島と山本の感情をも決壊させた。


 そんな劇的な結末があったからこそ、世代が代わり集会場で頭を下げた者の多くがこの世を去った今でも、彼を町の守り神として称える者は多いのだった。


「まあ、今の木帰町の形になるまでに紆余曲折あったんやわ」


「……。」


 彼の語りの熱に当てられたのだろうか、柄谷は制帽を目深に被り直し、鼻をすする音をさせていた。


 縦に長く連なる木帰町。振り向きその全景を見つめる松島の目は、遠く過ぎ去りし過去の鬼帰村を見ていた。


 人は歳を重ねて必ず老いさらばえる。老いは人生に数多くの悲哀を生むが、ふとした時思い出す過去の記憶は、残り少なくなった人生を彩る大切なものでもあった。


 もう二度と戻ることの叶わない、それゆえに鮮やかに輝く過去。それを思い返す時、年老いた人間は必ず優しい目にならずにはいられない。


 赤い鼻をした二人の老人は、泣いているのか笑っているのか分からぬ表情のまま、二人で歩き続けていた。


「――ほれ見てみろ。無駄話をしとる間に、もう目的地に着いたぞ」


 山下家の前、長く二人の間に流れていた感傷的な空気を切り替えようと、松島はそう言っておどけてみせた。


「そうじゃ、わしがこの話をしたっちゅうのは、恐山さんには内緒にしといてくれんか」


 指を一本口の前に当て、わざとらしく口をすぼめる松島に、柄谷は制帽の縁に指をかけながら笑って応えた。


「ははは、松島さんの前では、漏らさないよう気をつけます」


 山下家は周りの田んぼより一段高い台地の上に立っている為、石垣の上の門扉に伸びる石段を、松島はふうふう息を上げて登っていった。その後ろを、相変わらずゆったりとピンと張った背筋で付いて行く柄谷。


 掠れた表札のかけられた門扉をくぐり、この短い時間で心の距離を縮めた老人二人が、山下家の敷地へと足を踏み入れた。

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