第5話 開幕

「やっと来たか、トシ子さんは寝室におるぞ」


 石段を登った先には、口当てだけを外し、真っ黒な鬼装束姿のまま玄関先に座って二人を待つ恐山の姿があった。


 肌を覆う以外に目的を持たない重厚な鎧は、代を重ね、表面に出来た小さな傷やへこみも黒の中に陰影を作っており、その構造の単純さ故に美しかった。


 制帽を脱ぎつつ挨拶をする柄谷は、そこに直前の話にあった血溜まりの光景を思い出すと、尋常な重さではないだろうその鎧と、それを身に纏う彫り深な人物の顔を交互に眺めた。老齢の送り人の皮膚に刻まれた皺の一つ一つが、彼が積み重ねてきた何かを伝えてくるように、彼には思えてならなかったのだ。


「どうした、ワシの顔にゴミでも付いとるか」


「……いやあ恐山さんは若い頃、相当な美男子だったと聞いたもので」


 目があった気まずさを誤魔化すように彼がそう言うと、それにびくりと身体を震わせたのは横に立つ松島だった。大げさに彼の肩を掴み左右に首振る松島の姿に、柄谷は「冗談ですよ」と笑った。


 知らない間にやけに仲良くなっている二人の様子を見て、恐山は不思議顔を浮かべていた。よもや彼自身の過去の話がその親交を深めるきっかけになったとは思いもしていないだろう。


 男達はそんな軽いじゃれあいをしばらくした後、気を取り直して現場へと向かった。既に恐山の仕事は済んでいる為、随分と気楽な雰囲気が彼らの間には流れていた。


 そう言った意味では、留人への転化は、死というものを受け入れる緩衝材の役割を果たしていると言ってもいいのかもしれなかった。しかし同時にそれは、送り人のような者がいなければ、死者は死後の尊厳すら保つことが難しいということでもある。


 まるで、何かから家を守るかのように壁際に固められたゴミの山。それを避けつつ彼らが家屋の裏側へと回ると、山に面した壁に大きな窓が付いているのが見えた。


 窓は既に開け放たれており、カーテンが外に向けて、空気を包んでふわりと膨らんでいるのが見える。先頭に立った恐山は、ベージュ色の布を片手で押さえてまとめ上げると二人に中を確認するよう促した。ゴクリと少し息を飲んで、まず柄谷が近寄る。過去の経験から、遺体を見ることに抵抗のあると言う松島は、その後ろからそっと続いた。


「これは……」


「だいぶ服が汚れとったからな」


 窓枠を握ったまま、思わず言葉を失う柄谷。日光の差すベッドの上、そこには襟に小さな花の刺繍のされたシャツを身に付け、まるで今にも寝息が聞こえるかのような姿で眠る美しい遺体の姿があった。


 体液の染み付いた衣服の着替えを何気ないことのように恐山は言っているが、人に戻るなりあっという間に硬直すると言われている遺体の服を、一人で着せ替える苦労は相当なものであるはずだった。


 木帰町に赴任されて五年、彼が恐山の仕事に立ち会ったのはこれで三度目だったが、この町で死ねば、人は留人に転化せず逝けるのでないかと錯覚させる程、恐山の処置した遺体はどれも綺麗な状態を保っていた。


 また、本来ならその立会いの性質上、遺体の状態は死後そのままが望ましいとされていたが、柄谷は恐山の死に対する真摯さに思う所があり、その点について口を出したことは一度もなかった。


「なんまんだぶ、なんまんだぶ」


 うろ覚えの念仏を唱える松島が、あえて視界を閉じたがるようににぎゅっと目を瞑り遺体に手を合わせている。あまり故人とは交流の無かった柄谷であったが、彼もその横で目を瞑り、静かに山下 トシ子を弔った。


 この後は、朝廷政府によって定められている調査項目に従って現場の状態を調査記入し、人手を集めて町外れの葬儀場に運ぶという流れがある。


「そしたらワシは一旦帰るから、後は頼んだぞ」


 そう言って片手を上げつつ、あっさりと来た道を帰って行く恐山。彼の立会いは遺体の現場へと二人を案内する所までなのだ。


 ガシャリガシャリと鎖を擦らせる音を立てて去るその後ろ姿をぼんやりと見ていた柄谷は、いつの間にか送り人である彼に対する強い尊敬の念が宿っていることに自身で気がついた。


 今日あんな話を松島がしたのは、彼にとって絶対的な英雄の仕事姿を、一緒の視点から見ていて欲しいと、彼が願ったからではないだろうか。


 そう思った柄屋は、松島の持つ少年のような心を見つけると同時、その目論見がまんまと成功していることについて苦笑した。


 今日はあまりよい一日では無さそうだと思っていたが、そうでもないらしい。


 彼は、亡き妻が遠い昔暮らしていた、この小さくも愛しい町の一員に、また一歩近づけた気がしていた。


 その後、現場確認の作業は二人で長時間をかけて行われた。真面目な性格の柄谷は人によっては飛ばしていくような調査項目まで忠実に拾い上げる為、作業の途中で松島はうんざりとした表情を浮かべては、幾度も何か言いたげに口を開いては戻すという動作を繰り返した。


 死亡推定日の欄から始まって、冷蔵庫の中身に電気水道のメーター、はたまた床に積もっている埃の量まで。


 過剰とも思える程多岐に渡る調査項目の数は全部で58。最後に事件性がないことを証明する署名欄に松森と柄谷の両名が署名をする頃には、彼等の額は細かい汗粒に濡れ、大きな窓越しに見える外の天気は今にも雨の降り出しそうな暗い色に表情を変えていた。


 全ての仕事を終えた彼らは、白い布を顔にかぶせた山下の婆さんを一瞥すると、大きな窓を締めてから山下家の玄関を出た。


 互いを労いつつ、この後の葬儀の段取りを話し合いながら二人が門扉へ向かっていたその時だった。数歩先に歩いていた松島が、汗を拭こうとタオルを握るその手を突然止めたのだった。


「松島さん、どうしまし……」


 突然固まった彼の視線の先。目でそれを追った柄谷も、同じく両足を止めて絶句した。


 木帰町には、都道と呼ばれる道が一本通っている。遠くは都から延々と続き、木帰町で終点を迎える旧世紀のアスファルトの道だ。


 真っ直ぐ盆地の真ん中を通り、山の集落へと続いている都道は、木帰町と都とを繋ぐ唯一の道路であり、同時に山下家の前を通り、集落へと続いていく大通りでもある。


 今彼等は、その都道を左から右へ木帰町の方へと移動していく人の群れを見ていた。


 恐らく彼らは、はるばる山を越えて来たのだろう。その証拠に、皆随分と見た目が若く、田舎の人間の着ないハイカラな色使いの服を着る者が多かった。


 見える範囲でも数十人という大所帯である人々は、一言も発さず黙々と歩んでいた。


 また、誰一人手荷物らしいものも持っている様子がなかった。


 つまり都から、歩いて数日がかりになる距離を、彼らは手ぶらで歩いて来たということになる。


「こいつは……参ったな」


 未だ言葉を失ったままでいる松島の代わり、柄谷の口からは冷静を通り越し色を失ったそんな言葉が出た。


 都から木帰町まで100キロ弱。


 どうやって現実を否定し、恣意的に解釈してみようと、この地獄のような光景が意味することはただ一つであった。


 気付けば辺りには、先程まで山下家の中で嗅いでいたものと同じ、香ばしいあの臭いが立ち込めている。


 松島は鼻腔に届いたその臭いに気づくと同時、合図をしたかのようにガクガクと身体を震わせ始めた。


 目と鼻の先に現れた究極の非日常に対し、松島の膝はその巨体を支える力を失って折れ、その場で腰を抜かす形になる。


 集落へ向かっていた人の群れの中にも、彼らに気づいた者があり、ゆっくり首を傾けて手足をひねりながら数人が歩み寄ってくるのが見えた。


 石段を一歩一歩、首を左右に振り、探るように登り、腐敗臭を漂わせながら近寄ってくる彼らは、当然、町の警官に道を尋ねようとしている訳ではない。


 皆、ただ生きた人間の匂いに引き寄せられているだけの、魂の抜け殻達であった。


 動けなくなった松島に近寄る留人達を見た柄谷は、慌てて指で拳銃嚢けんじゅうのうを探り、中から天八式携帯銃テンパチを取り出し構えた。


「フゥ――! フゥ――!」


 柄谷は、この平和な世の警官の職務に想定されていない異常事態を前にして、高まり続ける己の心臓の鼓動と早くなる呼吸を落ち着かせようと、口をすぼめて酸素を脳に回そうとした。


 そして、彼の人生で初めて、その照準を人の頭へと向けた。


 少し間を置いて、一面の田園風景に似合わぬ鋭い銃声が鳴り響く。


 遠くに聞こえるそれが、この町を襲わんとしている未曾有の危機に対する号砲であることを、木帰町の人々はまだ知らなかった。

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