第6話 ケイ
ガシャリガシャリ。
鎖を擦らすそんな音が、木帰町の中に鳴り響く。
恐山は鬼装束姿のまま、町の高台にある彼の屋敷へと帰ってきた。
町の下方に住む
「恐山さん、お疲れ様です」
腰を折ってうやうやしくお辞儀をする彼女に、今度は立ち止まって挨拶をする恐山。
「古尾さん、今日も一段と元気そうでなによりや」
「いやあ何とか生きとるけどな、今日にでも留人になってしまうかもしれんわ」
そんな冗談にも聞こえぬ冗談で、あっはっはと笑う古尾。既に山下のことは察しがついているようで、何も言わずとも彼女との思い出話に始まった世間話は、ここ数日間の近況報告と数十年前の出来事を交互に交えた、年寄り特有の振れ幅の大きなものになった。
その話の最後、古尾の婆さんは傍らに置いておいた風呂敷包みを指差して言う。
「これ隣村に住んどる、いとこから貰った大根なんやわ。一人じゃ食べきれんし、邪魔じゃなかったら持っていき」
「――ほお、こりゃ美味そうに仕上がっとる。帰って早速ふろふきにさせてもらうわ」
そう言って布の間から青々とした葉を覗かせる大根を、快く受け取る恐山。ただでさえ重量のある鎧を身に着けながら、ずっしりとした包みをひょいと肩に乗せると、またジャラジャラと音を立てて坂を登っていく。
彼の自宅は、町でもかなり古い部類に入る古民家であった。旧世紀にはどこにでも見られた和風の門構えをしており、その門の前には、犬が一匹伏せて退屈そうに辺りを眺めているのが見えた。遠くから鎖の音が近づくにつれ、その犬の耳と尻尾は上向きに立ちあがり、小麦色の毛をふさふさと揺らして彼の元へ駆け寄ってくる。
「ロク、すまんがこれはお前の喰いもんじゃねぇんだわ」
尻尾を左右に振り、喜びの声を上げながら付いてくる飼い犬の頭を、恐山は軽く撫でてつつ門をくぐる。後ろで舌を垂らしくるくると回るロクは、首輪こそ付けられてはいるが、基本的に放し飼いにされている自由な犬であった。
元々群れからはぐれ、集落に居着いた野犬だったロクは、最初は町の入口付近にある酒屋を営む、田村という老人に世話されていた。しかし、ある出来事をきっかけに、恐山家の家族となった犬だった。
その出来事は、ある年の冬の日に起きた。ある日の夜中、いつまでも吠え続ける犬の声に気づいた恐山が外に出ると、家の目の前に酒屋の犬が座っているのだ。
あまりにも尋常でないその吠え方に、何かを感じた恐山が雪を踏みしめ彼に着いていくと、そこに酒屋のガラス戸に向かって己の頭を打ち続ける田村の姿があった。留人と化したばかりの彼は、風呂上がりに逝ったのか、髪を濡らし、服は肌着のままであった。
すぐに恐山に処置をされた田村だったが、彼には家族がなかった為、他にロクを引き取るあてもなく、それ以降縁あって恐山家の一員となった忠犬は、今でも時々、空き家になった田村酒店の前で座り、もうひとりの飼い主の姿をどこかに探していた。
ガラガラと引き戸を開けた彼は、玄関に風呂敷包みを置いてその横に腰掛けた。ロクは賢い犬なので、それ以上中には入って来ない。
恐山は頭の鉄兜をさっさと降ろすと、上半身を折り曲げて、玄関の敷石に向かって上鎧を脱ぎ捨て、下半身に鬼装束を纏った姿のまま、タオルで頭と身体を乱雑に拭き始めた。
一通り吹き終わると、もうそこで力尽きたとばかりに廊下に背中を預けて後ろ向きに倒れる恐山。軽く目を瞑ったまま彼は、手探りで腰袋から紙タバコを取り出した。
強靭な肉体を持つ送り人の家系に生まれた恐山とはいえ、寄る年波には逆らえない。その疲れを癒すかのようにライター片手に煙をくゆらせていると、居間の方からガラガラと滑車を滑らせるガラス戸の音が聞こえた。続いてとんとんと聞こえる足音を、恐山はそのままの姿勢で仰ぎ見る。
するとそこには、訳あって先月からここに住んでいる彼の孫の姿が見えた。
「おかえり爺ちゃん、そんな格好してたら風邪引くよ」
肩まで伸びた黒髪に白い肌を覗かせ、一体何を読んでいるのか文庫本に目落としたまま恐山に声をかけてくる孫。
そのはっきりとした目鼻立ちはその血を感じさせるに十分であったが、(ワシが若い頃はこんな覇気のない表情はしていなかったな)と勝手に自身を重ね合わせ、内心微笑む恐山。
孫は一度ちらりと本から顔を上げると、玄関に何かを見つけたらしく顔色を変えた。
「うわっ大根じゃん。すっげ、めっちゃでけぇ」
「古尾さんからもろうたんじゃ、台所の方に出しといてくれ」
はいはいりょうかーいと軽くそれに答えると、彼の孫は水気をたっぷり含んだ重たい大根の風呂敷包みをひょいと片手で持ち上げた。
「ケイ、慎重にな」
「分かってるって」
呼び止める恐山を見て笑い、彼は鼻歌交じりに引き戸の向こうへと消えていった。その線の細い見た目とは裏腹に、随分と力持ちなのである。心配せずとも送り人の遺伝子は、確かに彼の孫、ケイにも受け継がれているのだ。
呑気な孫とのやり取りに、平和なこの時代への喜びをしみじみと感じる恐山。ぼんやりと玄関の天井を見つめ煙をくゆらせ、先端に積もった灰が落ちる前に、上半身をゆっくり持ち上げた。すると廊下の向こうからとんとんと帰って来る足音がする。
「ほれ、これに着替えて」
恐山がその声に振り向くと、ケイの手の中には恐山が普段愛用している灰色の甚兵衛があった。恐山は慌ててタバコを玄関の陶器の灰皿の中に捨てると、綺麗に畳まれたそれを受け取った。
「そろそろ帰ると思って先に風呂も沸かしといたから、入りたかったら入りなよ」
ちょうどこの後、ひと風呂浴びようとしていた所にこの言葉である。どこまでも気の利く、要領の良い男だと感心する恐山。孫から受ける小さな愛情は、老人の生における数少ない喜びの一つでもある。これにはさすがの恐山も、笑顔を隠せなかった。
「ケイ、ありがとうよ」
「はぁ、どうしたのいきなり笑顔になって。つーか玄関寒すぎ、俺コタツはいってるから……」
少し照れを含んだ様子のケイは、再び本に目線を落としながら居間へと帰っていった。それを恐山は目だけで見送りつつ、片手に握られた白い箱に手を伸ばす。すると、閉まりかけた引き戸が途中で止まり、間から顔だけを出したケイは眉をしかめて言うのだった。
「タバコも程々にしとけよ、長生き出来なくなるぞ」
肺がんになるからな、と分かったような口を利いて再び戸を閉める孫に、恐山はガラス戸越しに聞こえるように返した。
「ふん、もう十分に生きとるわ」
そう言いつつも恐山は、箱から半分取り出されたそれを元に戻して微笑んだ。下鎧を脱いで肌着姿になると、甚平を片手に風呂場へと向かう。その後ろ姿は、どこにでも居るだろう、平凡な、孫を愛するただの老人であった。
古傷だらけの身体を湯船に付け長い息を吐く彼が、ひょんなことから孫と暮らし始めたのは今より一ヶ月程前のことである。
その日、朝から恐山は農作業をしていた。これは彼のもうひとつの仕事というよりは、余生を楽しむ趣味に近い行為だ。
その日の作業を終えた恐山が、夕暮れに泥を払いつつ家に帰ってみると、玄関に見慣れないスニーカーが脱ぎ捨ててあるのを見つけた。
それを見た瞬間、土いじりを楽しむ好々爺から、留人と命のやり取りをする鋭い送り人の目になった恐山。
しかし視線を上げてみれば、半開きになった居間の座布団に彼の孫が座り、猫背でくつろぎながら片手を上げている姿が見えたのだった。
「やあ、爺ちゃん」
そんな呑気な声と共に、突然の訪問もとい侵入を行ったケイは、恐山の甚平を身に纏い、まるで我が家であるかのように玄関まで家主を出迎えると、玄関の靴棚の上に広がる送り人の道具の数々を物珍しそうに手に取り眺めていた。
「――何しとるんだお前は、学校はどうした」
「辞めてきた」
「はぁ、何を言うとるんや」
「だーかーらー、辞めてきたんだって」
そう言って唇を尖らす彼の孫は、何を聞いても説明をしようとせず、二言目にはしばらく泊めさせてくれと繰り返すのだ。
この時以前に彼が孫と会ったのは、二年前の正月が最後で、ちょうどケイが高校に入った年のことだった。その時の孫の印象は、物静かで純朴な少年と言った風だったのだが、今目の前に立つ若者は、成長期ですらりと背が伸びたのと一緒に、髪も女のように伸びきっており、いわば年寄りの知る言葉で言えば愚連隊のような印象を恐山に与えていた。
ケイは学校の制服のまま、この町に来ており、聞くと手荷物もスクールバッグひとつ分しか持ってきていないのだという。
「
「知ってるも何も、母さんが出てけって言うから来たんだよ」
聞けばケイは、母親と
その些細なことと言うのが、彼が勝手に退学届を出して学校を辞めてきたという一大事であった為、心根の優しい娘はきっと随分取り乱したことだろうと、恐山は一人苦い顔をした。
ここから娘夫婦の住む都までは、百キロ以上も離れている。更に公共の
ケイは既に、台所を漁って夕飯を済ませているらしく、後片付けよろしくとだけ伝えると、てきぱきと仏間に布団を引いて自分の寝室とし、恐山を得るより前に床についてしまった。
突然の嵐のような孫の襲来に頭を掻きつつ、恐山はケイが作ったというカレーを食べた。それは特別に美味しい訳ではなかったが、不思議に懐かしい人の作った味に良く似ていた為、料理の味も遺伝するのだなと恐山は独りごちた。
次の日、仕事用のスマートフォンをこっそり使って娘に連絡を取ると、電話越しにも分かる憔悴し切った声が出た。父からの電話で全てを知ったケイの母は、子供の無事をひとしきり喜んだ後、その自由奔放過ぎる行動への愚痴をつらつらと吐き出し続けた。
その数日後、恐山家に大きな荷物が配送屋から届いた。中に入っていたのは、ケイの着替えと勉強道具にその他木帰町では手に入りにくい日用品の一式。それと、手紙が二通入っていた。
ケイに宛てられた手紙の中には、学校にお願いして退学届は一度無かったことにしてもらったので頭を冷やすように、と言った旨が激しい筆跡で書き殴られており、父宛のものにはそんな孫を、落ち着くまでしばらく田舎で預かって貰えないだろうかと言った内容が、懇願にも近い表現で記されていたのだった。
結局、半ばなし崩し的に彼の家に住み着くことに成功したケイは、どこで得た才能なのか、町中の年寄り達の心をあっと言う間に掴み、気付けば恐山以上にこの町に溶け込んでいる始末である。
「そうだ、ちょっと使いを頼まれてくれんか」
風呂上がり、湯気を身体にまとわらせながら恐山が言う。ケイは掘りごたつに入ったままみかんをむしっていた。
「やだよ」
「木梨のとこに味噌を買いに行って……ほう、断るつもりか」
こりゃあ困った居候だな、とわざと意地悪に笑う恐山。
「勿論、ただ断るわけじゃないよ。決めるのは、これだ――」
ケイはコタツに右肘を立てると、顎をくいっと持ち上げてそこに座れと恐山に促してくる。不敵に微笑みながら、パンツ一枚の恐山はコタツに入ると、みかんのカゴをどかし、そこに自身の左肘を置いた。
組み合った手と手が空中で静止する。
表からは、犬の遠吠えが聞こえる。
これぞ小細工なし、純粋な力と力のぶつけ合い。
今まさに、コタツの上で送り人とその孫の
――踵を履き潰した靴を引っ掛けて外に出たケイは、温まった身体に突き刺さる冷たい風に身震いした。いつの間にか雲に覆われている暗い空を見上げてくしゃみをすると、ぶつぶつと何やら呟き、右手の肘と甲を擦りながら出かけていったのだった。
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