第15話 夜明

 ぬかるむ足場、下駄履きのまま登るには険しい山道。着物の生地に纏わりつく枝葉を無視しつつ、前のめりになって恐山は坂道を駆け上がっていく。


 少年期から馴染んだ里山。秋には実る柿を求めて山野を駆け、夏には山中を流れる冷ややかな清流にその身を預けた事もある。


 しかし今、その懐かしい景色の中に、明らかな不純物として留人達の影が点在しているのだった。留人の多くは、木々に動きを阻まれ、斜面に足を取られており、自由の利かない様子であった。


 普段から山を歩き慣れていない者は、死後も山歩きが下手であるのかもしれない。それならそれで都合が良いと、恐山は目の前に集中し、山道を阻む者のみを相手にしていった。


 ――留人の群れは、時に群雛ぐんすうと呼ばれる性質を示す事があった。ひとつの個体が獲物を見つけると、それが波紋を広げるように周囲の留人に伝わり、やがて一個の意識を共有するかのように、全体が一定のまとまった行動をする。それが、まるで親鳥をなくした雛が集い力を合わせるように見えることから付けられた名前だ。


 恐山が山道を進む途中、その群雛によるものとしか考えられぬ一群が、ちらほらと見受けられた。大規模な群れとなって、雑木の中をふらふらと歩き続けている留人達。その周囲には、恐山以外の人影はおろか彼等の気を引くようなものも何もない。しかし彼等は、まるで大海に突如現れた渦のように、徐々に一箇所に集い、足りない知恵を一つに結集させるかのように正確に山道を歩み始めているのだった。


 きっとそのきっかけは、山中に逃げ込んだ叉鬼達なのであろう。自身の進路の先に、そんな腐臭を纏った登山客の後ろ姿を確認した恐山は、一人でそれを相手にする訳にもいかず、道なき斜面や獣道を無理に進んで行った。それでも留人が行く手を阻んだ時には、相手が何体であろうとも、刀を抜いて彼等に挑み、その偽りの魂を天へと還した。その太刀筋には一向に乱れは見えなかったが、雨露の中酷使された老体は、彼自身にその限界を知らせつつあった。


 先刻から、留人の骨を断ち切る度に腕が痺れ、脂汗はその額に滲み続けていた。それでも草木を掻き分け続け、彼がついに山小屋を目にした時分には、森の木々はその影を高く伸ばしており、自身の周囲を見るのもやっとという暗さになっていた。


 紫色の夜空に一番星が輝く夕暮れの森。その頂上の開けた広場にある、腰高程の草木に囲まれた山小屋。その窓に灯りは無く、周囲は不気味な程にしんと静まり返っている。やっと目的地にたどり着いたという安堵感から、肩をわざとゆっくり上下させ、呼吸を整える恐山。


 山の澄んだ空気は、普段からタバコの煙で痛めつけている彼の肺を癒やしていく。


(これでこの臭いさえなけりゃあ、完璧なんだがな……。)


 そう内心呟く恐山。山の中には、留人達の腐臭が満ちており、それは到底無視出来る程ものとは言えなかった。


 彼はふと、草木の中に、既に紐の切れた留人が遺体となって横たわっている事に気がついた。頭部に深い太刀傷を負っており、真っ直ぐ脳天に一撃を与えられている様子だ。


 そこから数歩草をかきわけつつ進んでみると、またもそんな遺体の姿が見えた。


 山小屋を目の前にし、不思議顔で恐山がそれを見ていると、その背後からパキリと枝葉を踏む音がした。咄嗟にその方を振り向こうとすると、彼の脇の下から手が伸びて、大きなその身体を羽交い締めにしようとしてくるのだった。


「――!?」


「よし、今だッ!やれい!」


 彼の背後から聞こえたのは、どこか聞き覚えのある野太い声だった。それと同時に、正面の藪の中から立ち上がった人影が見えた。その人影はザッザッと素早く草木を掻き分け、躊躇いなく片手を上げる仕草をした。


 直後、空気を切り裂く鈍い音が聞こえた為、恐山は咄嗟に地面を強く蹴り上げ、そして、自身を羽交い締めにしていた声の持ち主諸共後ろに向きに倒れた。


 恐山の頭のあった位置には、鋭い輝きを放つ鉈が振り下ろされているのが見えた。


 一体、これは。


「ええい、しっかり抑えておかんか!」


「いかん、これはっ、待て兵太!」


 立ち上がると、今度は首元に向かって迷いのない鉈の一振りが飛び込んで来るのが見えた。反射的に刀を鞘走りさせ、刀身の中心でその一撃を受ける恐山。鉈と葬鬼刀の刃が重なり、暗闇に小さな火花が散る。


 すぐ目の前にまで迫っていた刃を横目で見つめつつ、彼の額に溢れた汗粒が一筋の汗となって流れ落ちた。


「――!?まさか、恐山かっ!?」


「惜しかったな……あと一息じゃった。」


 手に持った得物を降ろし、向き合う二人。極度の緊張の後に必ず訪れる弛緩のせいで、互いを攻める事もなく、力の無い笑い声を出すと、手と手を組み、抱き合って再会を喜びあった。


「――それにしても驚いたぞ。こんな暗い中、山に入って来たのか。」


 自身の下敷きになった腰を擦り、勘違いを詫びつつ近寄ってくるのは熊谷だった。


「ああ、お前たち銃を撃っただろう。あれで心配になってな、長屋で篠原の母ちゃんにここを聞いてきたんだが……。」


 そこで篠原の名前を出した途端、叉鬼達の反応が明らかにおかしくなった事に恐山は気づいた。


「どうした、何かあったのか。」


「ああ、中に来てくれ、そこで話そう。」


 話を濁され、誘われるまま恐山は小さな山小屋へと近づいて行った。山本が窓ガラスを手の甲でコンコンと叩くと、窓の向こうでカーテンが半分開き、中にまた別の人影が現れた。その背後に灯油ストーブの小さなオレンジの光がうっすらと見えている。


「こいつはたまげた、地獄に仏さまじゃ。」


 ガラガラと窓を開けるなり、少し高い声で恐山を歓迎したその人影の正体は奥田だった。彼の手を借りて、恐山は窓枠をくぐって中へと入る。冷たく濡れた身体は、暖気で篭もる室内に白い蒸気を上げた。しかし彼は、腰を降ろして一息つく間もなく、部屋を見渡す事になった。そしてすぐに見つけたのは、反対の窓際に寄せられた人間大の毛布の簀巻だった。


 それを見て、彼はここで起きた事を理解したのだった。というのも、小さな小屋の中に充満しているのは、灯油の燃える臭いに混じった香ばしい臭いだったのである。


「篠原、か……。」


 カーテンが閉まり、パチリと点灯したひよこ電球の下。深刻な顔で立つ叉鬼衆の顔を一人ずつ眺めた後、恐山は部屋の隅のそれにもう一度目をやった。聞けば、留人に噛まれた篠原を庇いながら、この山小屋にまで逃げて来たのだという。


 死後しばらく経つという遺体の側で、叉鬼達は恐山の話に静かに耳を傾けた。木梨の犠牲によって公民館に皆が逃げた事。叉鬼の集落に寄った際、森田夫妻の死を目の当たりにし、そして、篠原の妻が夫の帰りを一人待っているという事。


「ああ、なんちゅう事や。馬鹿な真似をして……。」


 森田の選択に、彼等はそれぞれ思う所があるらしく溜息と憤りを繰り返した。そして彼等は、この場所に来る前に起きた事。そしてこの小屋での篠原の最期の様子を話して聞かせてくれた。話の途中、視線を横にやると、酌み交わしたという空の酒瓶が一本、ストーブの側に置かれていた。


 恐怖が一段したのか、堰を切ったように語られる彼等の話が、近寄ってくる留人が群れにならぬようにと小屋の外で仕留めていた、という何とも叉鬼らしい豪胆な話題に差し掛かった時の事である。恐山は簀巻になった毛布が、もぞもぞと動き出している事に気がついたのだった。


「おい、なんだ……まだのか。」


 篠原を包んでいた毛布が、その上から縄で幾重にも縛られていた理由がやっと彼にも理解出来た。叉鬼達はまだ、本当の意味での別れを済ませていなかったのだ。


「――ワシらは皆、木の上の狭い集落で生まれ育った家族だ。何度も、試みようとしたんだが、誰にも……どうしても出来なかった。」


 山本はそう言って一筋涙を零し、恐山に向かって頭を下げた。熊谷も奥田も、ただ黙って俯いていた。静かになった部屋の中には、布団ごしに聞こえる留人のくぐもった唸り声だけが聞こえている。留人の群雛という性質には、まだ解明されていない部分が多分にあった。光も漏れていない小屋に向かって何体も留人が寄って来るというのは、明らかにおかしい。もしかすると、篠原だった留人がその誘引の原因となっている可能性も否定出来なかった。


「そうか、よう頑張った。後は任せておけ。」


 そう言って、恐山は山本に一言尋ねた。 


「何か、工具を持っていないか。」



 ――簀巻になった留人をそのままひっくりかえし、ちょうど肩の部分に乗るような姿勢になった恐山。ゆっくりと毛布をめくっていくと、ボキリボキリと音を鳴らし、関節の構造を無視して首を真後ろに曲げた彼と目が合った。


 恐山は彼の頭を掴むと、側頭部を地面に押し付けた。そしてこめかみに親指を当てて、爪先に手に持った太釘の先端を立てた。先端が作った小さな傷が、まだ凝固していない血を溢れさせ、篠原の目元まで赤い線を作った。位置を探る仕草をしたのち、釘の頭に金槌を打ち込むこと二度。カツンカツンと高い音が響き、留人は全身の力をゆるりと抜いていった。


「すまない、損な役割を押し付けてしまったな。」


「一向に構わん。その為に、ワシはこの町におるんじゃから。」


 どこまでも申し訳なさそうな声色の山本に対し、さっぱりとした返事を返す恐山。彼は男結びできつく縛られた縄を解き、毛布の中から現れた篠原の手足を、あん摩をするように揉みながら整えていた。


 大きく節ばった恐山の手は、刀を振るう姿からは想像もつかない程繊細な動きで、篠原の強張る手足を何度も擦り、徐々に真っ直ぐに戻していく。


 最後に両手を丹田の辺りで組ませてやるのを、叉鬼達はそれぞれ真剣な眼差しで見届けていた。ひと仕事を終えて恐山が叉鬼達を振り向くと、皆何も言わず深く頭を下げた。


「拘束してくれたおかげで処置がしやすかった、ありがとう。」


「何とお礼すれば良いか、言葉が見つからんな……。」


 頭を上げ、鼻の頭を掻いて熊谷が言う。


「恐山、落ち着かないようで申し訳ないんだが、すぐに率直な意見を聞きたい。ワシらは、夜を越せると思うか。」


 眉間に皺を寄せ、山本はそんな事を聞いてくるのだった。


「――群れが山を歩いてはおるようだが、まあ、このまま留まるしかあるまい。朝日が昇ると同時、山を下るべきだ。今はそれしか言えん。」


 もしも全ての留人が山小屋へとたどり着くならば、全員の命日は揃って今夜になるだろう。そう付け足した恐山に、山本は「やはりか」と口を固く結んだ。


 また、近寄る留人を仕留めて回るのは、逆に群雛のきっかけを与えかねないと、恐山は小屋の中でじっと息を殺して潜む事を提案した。


 こうして灯油ストーブの小さな灯りを中心に、全員が車座になってただじっと朝を待つ事になった。一人ずつ交代で番をして、残りの三人が仮眠を取る。


 熊谷がいびきをかく度に、恐山はその肩をぽんぽんと叩いた。そうすれば、寝ていても不思議といびきは止まるのだった。


 最初は皆、緊張から眠れないのではないかと心配し合ってはいたが、彼等の肉体と精神の疲れは当人の想像を越えるものだったらしく、自身の番以外で起きている者は皆無であった。それは、朝から晩まで町中を駆け回っていた恐山も同じこと。彼は、泥のように眠る夢の中、自身の帰りを待ちわびる町民らの声を聞いた気がした。


「――朝だぞ。どうやらワシらはまぁだ生かして貰えるようだ。」


 恐山が目を開けると、熊谷がそう言って伸びをしている所が見えた。そう、天はまだ我々を見放してはいなかったらしい。結局留人の群れは山小屋を見つけ出すことはなく、外からは鳥の鳴き声が聞こえ始めていた。相変わらず部屋は暗く沈んでいたが、確かに木帰町に新しい朝がやって来たのだ。


「全部夢……じゃあない、よなあ。」


 奥田が目をこすりながら、篠原の遺体を見て力なく呟く。


「すまんが、全てが落ち着いたらまた迎えに来るさかい。ゆっくり休んどってくれや。」


 既に準備万端といった様子の熊谷は、篠原の薄い髪をひと撫ですると、窓際に立った。その手でカーテンを勢い良く開くと、シャッと滑車が回る小気味の良い音がして……彼は、静かにカーテンを元に戻し、部屋を振り返って言った。


「――ええと、すまん。今すぐ動き出そう。」


 緊張した面持ちの熊谷。皆が、それに何事かを尋ねる前に、彼の背後から、壊れた声帯が鳴らす不気味な声が聞こえ、直後、窓ガラスがたわむ程に激しく叩かれ始めた。


 ――留人に見つかったのだ。瞬時にそれを察知した一同が、慌てて立ち上がった。


「四体程、居た。すまんが……全員と目が合ってしまったようだ。」


「ははは、なあに。出発するのにちょうど良いじゃないか。」


 所在なさ気な熊谷をそう慰めつつ、恐山は慎重に反対側の窓を開けた。留人の姿が無い事を確認し、先に外へと身を乗り出すと、残りの三人に手招きをする。


 山の冷たい空気は、あの香ばしい臭いで満ちており、林内には明らかに昨日よりも多くの留人達の姿が見られた。彼等は山を知り尽くす狩長である山本を先頭に、恐山、奥田、熊谷の順に並んだ一列で、一路樹上長屋へと向かった。


「絶対に、この背中から離れてくれるなよ。そうすれば、必ず、皆を無事に帰してやる。」


 山を下る前、山本が言ったその言葉。実際、何度となく四人は留人に四方を囲まれ、その度に恐山は腰の得物に手を掛けたのだが、言葉通り山本の後に着いてさえいれば、するりするりとその手を逃れる事が出来た。


 そうして上へ下へと動き回っている内、ついに一度も留人と一戦も交えずに、樹上長屋へ向かう、空中回廊の入り口にまで彼等は着いてしまったのであった。


「あれだけの群れの中を……流石、という他ないな。」


 木の上へと続く通路の前で立ち止まり、理屈がさっぱり分からない、と首を傾げる恐山。奥田と熊谷は狩長である山本を信頼しきっているのか、何の不思議もなさそうに、ギシギシと床板を鳴らしながら先を進んでいた。


「ほんの少しだが、昨晩の恩返しのつもりよ。ワシにはワシの得意分野があるんだ。」


 そう言ってニコリと微笑むと、山本は細い通路を歩んでいく。


 杉の葉は、柔らかな木漏れ陽を湿った地面に届け、まるで昨日の事が全て嘘であったかのように、穏やかで心地の良い風がそこに吹いていた。


 恐山は、そんな何の躊躇いも無く、一日を始めようとする空を、我々人間をあざ笑うかのごとく振る舞う天を、鋭く睨みつけ彼等に続いた。


 山野を当て所無く歩く留人の上にも、冷たくなった屍の上にも、また今日を生き延びようとあがく人々の上にも、陽の光は平等に降り注いでいた。

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