第11話 幕間

「爺ちゃん、もう平気だから」


 そう言われて、やっと恐山は孫を肩から下ろした。再び公民館のドアを力任せに叩くが何の反応も無い。中の様子を伺おうにも、古い造りの公民館は分厚い木製のドアのその向こうは見通せなくなっていた。


「多分……こんな状況だし、怖がってるんだと思う」


 まだ目元の赤いケイは、鼻を軽くすすると一歩前へ出て木のドアをゆっくり規則正しく叩いた。コンコンコンと三回高い音を鳴らした後彼は周囲に留人の陰が無いことを確認し、口元に両手を添えてドアの隙間に向かって声をかける。


「――ごめんくださーい」


 するとその直後、ドアの上部がキィィと音を立てて開いた。


 恐山が目をやると、ちょうど指二本分の隙間から不安げな両目がこちらを窺っているのが見えた。それに向かって片手を上げると覗き窓はパタリと閉じて、同時にドアの向こうでドタバタと慌ただしい音がした。


 二人がしばらく待っていると、ガチャンと鍵を開ける大きな音と共にドアは開く。


「――良かった、よう生きとってくれた。恐山さんすら死んでしもうたかと……」


 中から顔を覗かせたのは、先刻恐山に大根をくれた、古尾ふるお フサだった。昼食の支度の最中にここまで逃げて来たのか、割烹着姿の彼女は早く皆に顔を見せてやってくれと恐山を急かす。


 公民館の玄関には、所狭しと町民らの靴が並べてあった。


 聞けば木梨の決死の放送のおかげで、ほとんどの町民らが公民館へたどり着く事が出来たのだという。だが、今この公民館内にはまとめ役となる人間が居らず、外へ逃げようと主張する者あれば助けを待とうと言う者もあり、収拾がつかない状態に陥りつつあるのだ、と古尾は付け足した。


 恐山はその話を聞いて察する所があったらしく、小さな声で古尾に尋ねた。


「――松島は、やはり来とらんのか」


「来とらんね、あの駐在さんもや。トシ子さんとこは田んぼの真ん中やったから……気の毒にな……」


 そう言って眉尻を下げ、今にも二人に向かって両手のひらを合わせかねない様子の古尾。恐山は、それに苦い顔をして俯く。あれだけの留人が山下家の前を通ったのだ。二人がそのまま無事で居られたとは思えなかった。


 もしあの場所に自分が残っていれば。そう、過ぎ去った事への後悔が彼の頭をよぎった、その時である。


 ――ワンワンワン!


 まるで彼等の纏っていた暗い空気を蹴飛ばすかのように、公民館の上階から恐山家のもう一人の家族が駆け下りてきたのだった。


「ロクッ! お前、無事だったか!」


 ケイはしっぽを振って駆け寄るロクを抱きとめると、その頭をわしゃわしゃと撫でつけた。


「その子ね、さっきここに着いたばかりなんだよ。随分とまあ賢い子だね」


 まるで聴覚の鋭敏な留人の性質を知りでもしているかのように、公民館の中で大人しく主人の帰りを待っていたというロク。


 恐山は家族の無事を知って少し笑顔になると、町に迫る危機をロクが自分に知らせてくれたことをケイへと伝えた。するとケイは、ロクの顔をじっと見た後、その身体に顔をうずめて命の恩人を抱きしめた。


「あっ……放送が……」


「言わないで」


 小麦色の毛の中に顔を埋めたまま、何かに気付いた古尾の言葉を遮るケイ。そのまま口をつぐんだ古尾は、遠くを見るような仕草をした後で廊下の奥へと消えた。恐山も黙ったまま公民館の外を見やり、この町を救った英雄に思いを馳せた。


 ――気付けば木帰町に、再びの静寂が訪れていたのだった。


「ケイ、あいつの事だが……」


 階段に並んで腰掛ける二人。最初に口を開いたのは恐山の方だった。


「分かってる、僕が間違ってた」


 てっきり、あの場から逃げ出した事に対して何かしら詰問を受けるのではないかと恐山は思っていたが、ケイは下を向いたまま、物憂げな表情を見せるのみだった。


 あの地獄のような光景を思い出しているのだろうか。結んだ髪と白い肌には、留人の血が乾いてこびりついたままであった。


「――僕がしたのは、木梨さんを裏切る行為だろ。皆に生きのびて欲しいって、あの人の願いを、意志を無視して……勝手に助けようとして、勝手に死にかけたんだ」


 もしあのまま僕が死んでいたら、木梨さんはどう思っただろう。そう言ってケイは眉間にグッと皺を寄せる。恐山はそこに、ケイが語りたがらない何かの一端を見た気がした。


 送り人の家系に生まれるという事は、自分自身の力に生涯縛られ続ける事を意味する。時にその運命は、血を受け継ぐ者に度々、自身の希望とまるきり違った方向へ人生が導かれる不自由を感じさせ、大きな孤独感を与えるのだった。


 若くして父を亡くし、村の送り人となり、人々の白い目に耐え、一人葛藤を続けた経験のある恐山。だからこそ、今自身の孫が抱えている、そんな宿命的な痛みが良く分かった。


「――それは、違うぞ」


 ゆえに、彼はきっぱりと断言するのだった。  


「ケイ、お前のような優しい子があんな恐ろしい場所まで助けに来てくれた。その事実だけでな、ワシらみたいな年寄りは救われるんだ。……冥土に行くにも十分過ぎる土産じゃ」


 そう言いながら、ケイの頭を軽く撫でつけた恐山は、「それに」と何か思いついたかのように付け足して、優しくも快活な声を続けた。


「その理屈から言えば、あいつもお前も、そしてこのワシも。皆それぞれ自分勝手な行動を貫いただけっちゅう事じゃろ。そうやって、いちいち人の事ばかり考えんでもいい。お前は心根が優しいが、もっとお前自身の為に生きていいんやぞ」


 するとケイは、恐山の手から逃げるように階段からふいに立ち上がり、壁際に顔を向けたまま動かなくなった。彼が不思議そうな顔でその後ろ姿を見ていると、ありがとう、と呟く小さな声が聞こえた。


 どうやらこれ以上、祖父に泣き顔は見られたくないらしい。孫の横で尻尾を振り続ける飼い犬に後を任せ、恐山は階段を登り上階へ、町民達の待つ大広間へと向かった。


「恐山、さん……!?」


 襖は半開きになっており、そこから顔を入れるとすぐに、彼の姿に気付いた町民の一人がこちらを見て固まった。一瞬、しんと静まった大広間。広い部屋ではあったが、こう町民全員で集まると足の踏み場もない鮨詰めの様相だった。息を忘れたようにこちらを見つめる町民達の顔は、この短い時間の間で憔悴しきっているように見える。


 そんな町民達が皆、恐山の方を見るなり身体を浮かせていた。それは今すぐにでも逃げ出そうと身構えて居るようにも見え、そこでやっと、自身が全身留人の血にまみれた姿をしている事を恐山は思い出した。


「――安心せい、まだ人間や」


 それは彼にとっては、とっておきの冗談のつもりだったろうが、留人の恐怖にやられて恐慌寸前となっていた彼等は大まじめに安堵した顔になった。ため息とも声とも言えない腑抜けた音が部屋中に広がる。


「松島と柄谷は一緒じゃないんけ!?」


「叉鬼の集落から、誰も避難して来とらんのやが」


「一体こんな古い建物で、連中から耐えきれるもんかね」


 それからまるで堰を切ったかのような勢いで、恐山を質問攻めにする町民達。彼が困り顔をしていると、後ろから来た古尾が助け船を出してくれた。


「はいはい皆見て分かるやろ。恐山さんも疲れとるんやわ。これからどうするにしても一回落ち着かんと」


 ひとまずのまとめ役は、古尾が引き受けていたらしく、とりあえず質問の嵐は止んだ。しかし咄嗟に答えられなかったのは何も疲れのせいだけではない。恐山にも木帰町を襲っているこの悪夢について、現状把握は何一つ出来ていないからに他ならなかった。


「はい、これで顔拭きんしゃい」


 そう言って古尾が恐山に差し出したのは、真っ白なタオルだった。見れば彼女の後ろに、同じようにタオルを握って顔の血を拭いているケイの姿が見えた。彼は老人だらけの部屋を覗くと、「うわっ」とあからさまに抵抗感のある表情をしたあと廊下へと引き返していった。


 受け取ったタオルはお湯で蒸らされており、恐山はそれを顔に当てて深い溜息を吐くと同時、心と身体が蘇る心地がするのを感じた。



 ――公民館の一階には、炊事場と広い物置だけが存在している。古い建物である為、一階の四方の壁には元から窓が無く、正面のドア以外に出入り口もなかった。いわゆる留人を意識して設計された、砦造りとりでづくりの建築物である。


 今その公民館の二階、曇り切った窓ガラスの内側には、恐山の話す一語一句を聞き逃さんとするように、真剣な表情で耳をそば立たせる町民らの姿が見えた。


「そしたら、ワシらは当分ここにおるしかないっちゅう事か」


 木梨、松島、柄谷の三名と、叉鬼の集落に住む八名を除いた、四十三名の町民が一同に集う集会場。壁際に立った恐山に対して、まるで教師と生徒のごとく、質問のある者が手を上げていく事となった。


「ああ、勿論連中がどこか遠くに消えてくれれば話は別じゃが……。木帰の集落に入ってしもうた以上はそれも期待出来ん。今は救助をじっと待つのが賢明やろうな」


 直接外部と連絡の取れる電話機は町に二台。駐在所の黒電話と恐山の所持するスマートフォンだけであったが、駐在所の固定電話は言わずもがな、持ち運びの利のあるはずのそれは、蓄電の為に恐山家に置いたままであった。


 公民館は留人の襲撃を想定してあるが、幾分古い建物であるがゆえ電話機の設置はされておらず、助けを能動的に呼ぶ手段はここには無かった。故に彼等は外の亡者達の気配に怯え、じっと待つより他はないのだ。


 恐山は慌てていたとはいえ、先の展開に頭が回らなかった事に情けなさを感じた。身体と共に頭の方も年々衰えていく。歳は取りたくないもんだ、と灰色の頭を掻いた。


「そいつは参ったねぇ、うちの畑は収穫もまだ終わってないっちゅうんに」


 一人が脳天気な声を上げると、それにつられて皆が笑う。恐山が来てからというもの、皆の動揺は明らかに収まりつつあった。この町の人々にとって、人を越えた力を持つという送り人の存在はそれ程までに大きかった。


 恐山はなるべく冷静な口調で次々に質問に答え、分からない事は分からないときっぱりと断った上で、ここに留まる事がいかに最善であるかを何度も説いた。そんな彼の目線は、しばしば部屋の一番奥、伏し目がちにしている二人の女性に何度か向けられていた。


 あらかたの話が出尽くした後、ひとまず解散となって廊下に出る者がぞろぞろと列を成す中、その二人が彼の元へとおずおずと近寄ってきた。それを横目に見て、他の町民達は何とも言えぬ表情を浮かべた。


「――主人は、最期に何か言い残しておりませんでしたか」


 そう言って恐山の目をしかと見つめるのは、白いブラウスを着た上品な女性であった。灰色の髪に細い金ブチの眼鏡がよく似合う、彼女の名は木梨 智恵きなし ともえ。最後の瞬間まで町民達に避難を呼びかけていた木梨 幸之助の妻であった。


「後を頼む、とだけ」


「いかにも、あの人らしいですね……本当に……」


 恐山が状況だけを端的に伝えると、声を震わせて両手に顔を伏せる彼女。恐山家と木梨家は、仕事柄昔から家ぐるみの付き合いをしてきた。人柄を良く知る彼女の悲しみの深さを想像すると、彼にはかける言葉もなかった。きっとどんな言葉もその心の表面を上滑りし、露わになった傷口に痛く染みいってしまうことだろう。


 聞けば彼女は、たまたま仕立て屋をしている友人宅に訪問している所で放送を聞き、木梨の元へ走ろうとするのを、その友人が必死に制止して公民館に連れてきたのだという。


「とても無理な頼みやと思うんですが……」


 そして友人というのが、このいかにも気の弱そうな女性 松島 登紀子まつしま ときこだった。夫婦で仕立て屋をしており、旦那はこの町の町会長も兼ねている。言わずもがな、あの松島の妻である。夫に似て体格の良く柔和な顔つきの彼女は、下唇を噛んだままおずおずと恐山の手を取った。


「どうか、どうかあの人を、いえ、あの人達を……恐山さんの手で還してあげてください」


 事が落ち着いたらで構いません、必要なら私もお手伝いしますから、と。彼女は涙ながらに恐山に訴える。あの人が、どこかへ消えてしまわないうちに。姿形が変わらぬうちに。そして、人の血肉を啜る前にと。


 それは優しいと同時に、送り人に過酷な仕事を依頼する残酷な言葉でもあった。


「分かった、頼まれた」


 不器用で気の利いた言葉を知らない恐山は、ただ自分に出来る事をすべき事をするだけだと思い、そう約束した。無論、彼女達に言われるまでもなかった。彼は町民の為ならば、何度でも死地に赴く気持ちであった。


「爺ちゃん! ちょっと下来て!」


 ケイに声をかけられて、二人の女性のすがるような目に見送られつつ階下へと向かった。するとそこには、壁を恐れるように怯え固まる町民らの姿があった。


 その視線の先に目をやると、公民館の壁から、石つぶてをぶつけられているかのような恐ろしい音がしていた。不規則なその衝撃は、頑丈な砦造りの壁とて壊しかねない勢いである。


「もうこんな所まで来たんか……」


 恐らくこの壁の向こうには、彼等の中でもすこぶる勘の良い留人が来ているのだろう。美味そうな人間の詰まった箱を開けようと、駄々をこねる子供のように手足を打ち付けているのだ。


 恐山はケイに目だけで合図して、二階へと戻って行った。階段には様子を見に来たまま固まってしまった町民らが、階下と恐山達とを不安げな目で交互に見ている。


 二階の廊下を真っ直ぐ進み、彼は天井から下がった紐を引っ張った。すると木目の美しい木の天井が長方形に割れ、埃とともに中から収納階段が現れた。


 早速飛び乗ろうとするケイをたしなめ、その前を進む恐山。片手に鞘入れした葬鬼刀を握ったまま素早く上がると、そこには屋根裏部屋があった。


 埃とカビの臭いのする狭い屋根裏。照明がない為、二人は中腰のまま手探りで進んでいった。先を行く恐山が立ち止まり、両腕を上げたかと思うと、暗い部屋に正方形の穴が空き、そこから外の光が入り込んだ。


 突然の光に思わず顔をしかめるケイ。恐山は探るようにその穴の奥に手を入れて、バラバラと縄梯子を引きずり下ろした。


 縄梯子を登ると、細長いベランダの上に出た。


 公民館の屋根の縁に沿うように、後付けで設置された真新しいステンレス製。


 掃除もされていないのか、枯れ葉と虫の死骸がぱらぱらと表面に落ちている。


「一体だけ、か」


 細く頼りない銀色の手摺に上半身をそっと預け、屋根の下を覗き見る恐山。眼下には肘から先の骨を砕きながら、全力で木の壁を打ち付ける若い留人の姿があった。その内心で町民の誰かでなかった事を喜びつつ、彼は何事か思案する。


 この留人の気を公民館から逸らすには、彼等の鋭敏な嗅覚や聴覚に訴える手段が必要だ。生きた人間の匂いはこの中からしているのだろうから、何か別の場所で音を立ててやればいい。遠くに石でも投げてやれば、一体程度ならそれで移動してくれるだろう。もしくはベランダからは梯子を垂らして、直接自分が処置してやってもいい。


「ここから、頭狙って撃つとかどうかな」


 すると彼の横でケイがそう言って、手を鉄砲の形にした。ばきゅん、と悪戯っぽく笑う孫。恐山は、自宅の玄関に置いた猟銃を頭に浮かべて言う。


「そんな事した日にゃ、連中が大集合してしまうじゃろうな」


 きっと砦造りとてひとたまりもないだろう、と彼が呟いた――その時である。


 木帰町に乾いた一発の銃声が鳴り響いたのだった。


 ハッとした表情で互いの目を見つめる祖父と孫。恐らくは集落の中ではない。もっと遠く、町の外から聞こえている。


 恐山は、避難者の中に叉鬼の集落の人間が居ないという話を今一度思い出した。彼等は木の上に集落を構えているので、心配はないだろうと思っていたのだが……。


 すると少し間を置いて、恐山のそんな思いをあざ笑うかのように二発目の乾いた発砲音が続いた。山に反響するその音に引き寄せられるように、公民館に張り付いていた若い留人がゆらゆらと高台を下っていくのが見えた。間違いない、叉鬼達の集落で何かあったのだ。


「様子を見てくる。」


 恐山はそれだけを呟くと、ケイの制止する声も聞かずに屋根裏部屋へと滑り込んでいった。

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