第14話 森田

「日没までには必ず戻る。誰一人外へ出るなよ。」


 ただそれだけを告げると、恐山は公民館を飛び出した。


 背後から熱心にそれを引き止めようとする町民の声が聞こえたが、あえて振り返ることはしなかった。自分は神仏では無いのだから、どちらも同時に守る事は出来ないのだ、そう自身に言い聞かせた彼は、助けを必要としているだろう町民の元へと急いだ。


「――絶対、絶対帰って来いよ!」


 最後に聞こえた、そんな孫の声が、彼の耳にやけに残っていた。


 公民館のある高台から、住宅地へと降りて行く石段の途中。恐山は、先程壁を打っていた、腕の折れた留人を見つけた。

 

 すらりと腰の葬鬼刀を抜刀し、その背後から近寄って行くと、横薙ぎに一振りし、首を静かに断ち切る。身体は一歩二歩と歩んだ後、やっと頭の不在を知ってその場に倒れた。しかし、落下して数段先にまで転がった首は、恐山を見ながら、かちりかちりとその歯を鳴らし続けているのだった。


 留人の活動を止めるには、頭の中身を壊すしかなかった。


「やはり、道具が要るな。」


 そう呟くと、彼は刃先でそのこめかみを貫いた。留人の口は、半開きのまま動きを止めた。


 石段を下り、民家の連なる住宅地へと降りてからは、彼は巨体を出来るだけかがめて先を急いだ。幸いな事に、ここから彼の自宅までは近い距離にある。仕事道具を取りに自宅へ行っても、ほとんど時間は取られないだろうと思われた。


 鉄砲の音に引きよせられているせいか、町内を徘徊している留人の数は少なく感じられた。


 どれも群れを形成していない留人ばかりであり、慎重に振る舞いさえすれば、ほとんど危険を感じる事もなかった。


 無論、それは彼の感覚が麻痺しつつあるとも言えた。即死の毒を持つ留人を前に、本当の意味での安全はあり得ないのだ。


 家の門をくぐり、自身が開け放ってきた玄関の前に立つ恐山。


 そこで彼は、顔をしかめたまましなし立ちすくんでいた。ちらりと中を覗き、小鼻をほんの少し動かした後、下唇を噛んで苦々しい顔つきを浮かべている。


 ――彼の仕事道具の入った腰袋は、すぐ目の前にまで見えていた。仕事帰りに廊下に置いた、あの状態のままだ。全てがあとほんの数歩中にさえ入れば、手の届く距離にあった。


 しかし彼は、顔を左右に振ると、深い溜め息と共にその手で引き戸を閉めてしまった。


 額を軽く抑え、後悔する仕草を見せる恐山。何歩か歩き、苛立ちを抑えようとタバコとライターを探った後で、それも家の中にある事を思い出したのだった。


 彼は、自身の間抜けさに、ふふと思わず笑みをこぼした。しかし、もはや悔いても仕方がないと、むしろ諦めのついた彼は、ふいと踵を返して叉鬼の集落の方へと駆けていった。


 後には不気味な静けさを保つ、恐山家の屋敷だけが残された。


 その頃、ぽつぽつとその肌に当たり始めたのは、雨粒の感触だった。朝から動きっぱなしであった火照った老人の身体には、冷たいそれはむしろありがたかった。


 留人を出来る限り避ける為、民家の屋根に上がり、瓦を踏み鳴らしながら町の下へと向かっていく。通りは相変わらず、留人が闊歩していた。もう鼻が馬鹿になったのだろうか、彼等の腐臭は、随分と気にならなくなってきていた。


 時折上を見上げ、恐山に気がつく留人も居た。しかし、悲しいかな、屋根に昇る程の知能は持ち合わせていない為、まるで万歳をするような姿勢で虚しく空に両手を上げることしか出来ていないようだった。


「――なんと哀れな。」


 地獄で救いを求めるかのように、差し出される手の平を眺め、恐山は一人呟いた。


 この町に縁もゆかりもない留人達ではあるが、彼は出来る事ならその身体が腐敗する前に還してやりたいと思っていた。留人は恐ろしい毒を持ってはいるが、彼等自身に罪はない。むしろこの世で最も哀れむべき存在であるというのが、死者と多く関わってきた彼の持論であった。


 ――剥き出しの柱に割れた窓ガラス。廃屋と化した木梨商店をじっと見てから、恐山は酒屋の屋根から飛び降り、すぐさま集落の外へと出た。町から真っ直ぐ田んぼを通り、都へと続いていく都道。そこに、留人の行列は見えなくなっていた。全てが木帰町に到着したのか、あるいは単に第ニ波の前の静けさに過ぎないのか。生きている者が知る手段はなかった。


 ひび割れたアスファルトの上には、ふらふらと左右に揺れたり、呆けたように空を見上げている人影が散見された。言うまでもなく、どれも生きた人間ではない。きっと放っておけば、何日でもその周辺で同じように揺れ続けている事だろう。


 そんな半日と経たぬ内に、変わり果てた町の姿を彼が眺めていると、皮膚の状態の悪い留人が正面から数人寄って来るのが見えた。恐山は、そのうめき声を聞いて我に返り、ほんの数歩息を整える為の間合いを取った。


 すらりと抜いた葬鬼刀の刃先を向け、狙いを定めてから真っ直ぐに突き出す。


 そのまま刃は眼孔の奥へと深く差し込まれ、留人に二度目の死を与えた。


 まるで剥き出しになった歯を見せつけるかのように、前のめりに崩れ落ちる留人。恐らくカラスにでもやられたのだろうか、くちばしに啄まれ、小さな穴のようになった痛々しい傷口が身体のあちこちに見られた。


 ――留人の毒は、人のみを殺す毒だ。ゆえに腐乱して動きの鈍い留人は、腹を空かせた野生動物達にとっては、きっと食べ放題の不思議な餌に見えたことだろう。


 身体の力を失い、ばたりばたりと死体に還って行く留人達。それを恐山は、一体ずつ道の脇に並べて寝かせていった。

 

 途中、細いあぜ道から転げ落ちたのか、ぬかるんだ田んぼに足首を取られた留人達を見かけた。彼等が四つん這いで動きまわっている様を見て、まるで泥遊びをしているようだと彼は思った。もしも留人が血肉を求めず、遊びたがるだけの存在であったなら、どれだけ人は救われただろうか、とも。


 ゆったりと山の形に沿って湾曲した道を進むと、杉林の中に叉鬼の集落の輪郭がうっすらと見えてくる。


 枝葉に隠れるように建つ彼等の集落は、人々から樹上長屋と呼ばれていた。鬱蒼と茂った森の中に浮かぶ建物群は、夜になると窓から漏れる生活の灯りで幻想的に光る。それを撮影するためだけに、はるばる都から人が来る事があるくらいだった。古くは全国に見られた樹上長屋も、これだけの形で現存しているのは珍しい事なのだという。


 しかし今、そんな歴史と趣のある集落の下を歩き回るのは、腐臭を撒き散らし頭を揺らす留人達ばかりだった。彼等は、森のなかで何か探しものでもするかのように、木々にぶつかりながら長屋の遥か下方をぐるぐると彷徨っていた。たまたま群れになったにしては多い数だ。どうやら、ここで発砲があったのは間違いないらしい。


 それならばなぜ……と、抜き身の刀を手にしたまま不審そうな目つきを杉林に向ける恐山。真っ直ぐ獲物に向かっていくしか能のない留人達。彼等が樹上長屋にたどり着けるとは到底思えない。ならば何故、銃を撃つ必要があったのだろうか。


 しかし、その考えをまとめる暇を与えてくれる程、留人達は話の分かる相手ではない。一体、二体と、道の真ん中で佇んでいる恐山の姿を見つけた留人が林から出てくるのが見えた。


 個別に見れば動きも鈍く、そこまでの脅威ではない留人。しかし、それが十体二十体の群れと化せばたちまち厄介になる。甘い考えで相手をしていると、四方八方が囲まれ手に負えなくなるのだ。


 ゆえに早くここを離れなければならないと、自身に気づいた留人達に背を向けて、彼はあぜ道から田んぼに飛び降り、転ばぬように気をつけながら直接杉林に足を踏み入れた。


 雨水を蓄えた土の上、幾重にも重なった枯れ葉の絨毯の上を歩き上を見上げると、そこには視界いっぱいに広がる樹上長屋の床板が見えた。太陽が傾き、夜の色が濃くなっていく森の中。木の上の構造物は、地面により深い影を落とし込んでいた。


 陽が当たらないせいか、弱々しく存在を主張している草花。恐山は床板から細長く伸びる空中回廊を仰ぎながら、森の奥へと歩んでいった。木の幹と幹の間に渡された集落への通路は、徐々に地表へと近づいていき、ついに土の上に着地する。


 綺麗に草刈りのされた空中回廊の入り口にたどり着いた彼は、ぎしぎしと鳴る古い踏み板に足を乗せた。


 間違って踏み抜く事のないよう、足元の感触を確かめながら登って行くと、視界は次第に高い位置に変わっていく。子供の頃、彼はこの高い位置から森を見るのが好きで、何の用事もないのに叉鬼の集落に一日中居たのを父に叱られた事をふと思い出した。


 途中、手すりのない踊り場や、直角に曲がる箇所があるのは、言うまでもなく留人避けるじんよけの工夫の一つであった。今こうして見ると、子供をここで遊ばせたくなかった理由が良く分かる。留人に対する罠は、普通の人間でも下手すれば命を落としかねない危険な作りをしているのだ。


 実際、留人に対する効果は十分らしく、恐山が踊り場のひとつから下を覗いてみると、哀れ転落したと見られる土まみれの留人が、こちらに手を伸ばしているのが小さく見えた。


「蜘蛛の糸でも垂らしてやりたいとこだがなぁ。」


 そんな冗談を言いつつ、曲がりくねる空中回廊を進んでしばらく。恐山はついに叉鬼の集落に辿り着いた。多層構造の樹上長屋は、樹木の形に沿って建てられている為、縦横様々な大きさの家屋が身を寄せ合い、仲良く整列しているようで可愛らしくも見えた。


 細長い杉の葉が散らばり、まるで茶色い絨毯が敷かれているような床板。しんと静まりかえる林内に人の気配はなく、代わりに雨に濡れた木の匂いが恐山の鼻腔いっぱいに広がった。


 どこかに隠れているかもしれない叉鬼達に向かって、彼が呼びかけの声をあげようとした、その時である。


 物が倒れるような音が、彼の耳にかすかに聞こえたのだった。開いた口をそのままにして、ひたと動きを止め耳をすませる。足をそっと動かし、下駄を鳴らす音を最小限に抑えてその方へと進んで行くと、外側に小さく半開きになった木戸が見えた。取っ手にそっと手を掛けると、木戸はキィと音を立てて開き差し込む光の角度を広げ、部屋の中を照らしていく。


「ひ、ひいいっ。」


 部屋から聞こえたのは、そんな弱々しい悲鳴だった。彼が恐る恐る中を覗き見ると、部屋の隅に、まるで光を嫌う生き物であるかのように両手を顔の前に広げて固まる女性の姿が見えた。


「――篠原さん、落ち付け。ワシや、鬼帰の恐山や。」


 そう言って恐山は、篠原 貞世しのはら さだよに声をかけた。髪が乱れ、何かに怯えている様子の彼女は、恐山と目を合わせずに、ただ小さな悲鳴を上げている。ゆっくり近づいてみるが、むしろ更に身体を強張らせ部屋の壁を背に後ずさりするばかり。ひと目見て、彼女が重度の恐慌状態に陥っている事が分かった。


「どうした、一体ここで何があった――」


 そこまで言って、ハッとした顔で固まる恐山。すると、先程聞いた音が、彼のすぐ背後から聞こえてきたのだった。


 物音を聞いた貞世は、また声にならぬ悲鳴を上げ、両手を耳にかぶせて小さく丸まってしまう。その小さく震える肩が、とても痛々しかった。


 恐山が緊張と共に振り向いてみると、そこには木目の美しい壁があった。――この壁の向こうに、何かが居る。そう感づいた恐山は、樹上長屋の間取りを頭に思い出そうとする。


 杉林に依存する小さな又鬼の集落の中には、五つの世帯が暮らしている。樹高の高い杉の木に沿い一段と高い所にある小さな家は、独り身で暮らす山本と熊谷の自宅だ。そして、それ以外の家族のある者達は、横長で広い集合長屋と呼ばれる家屋を壁で三分割にして暮らしていた。


 風呂と調理場は集落にひとつずつしかない為、皆が共同で使用しており、掃除や修繕も持ち回りでする事が決められている。集落の住民全員が密接に関わり合い、出来るだけ快適に暮らす工夫をする。それが樹上で生活をする事を決めた叉鬼達の知恵であった。


 今恐山が居るのは、三分割にされた集合長屋に暮らす世帯の内の一つ、篠原家だ。長屋には篠原の他に、森田、奥田の合計三世帯が暮らしている。そして壁の向こうから聞こえた不穏な物音は、篠原家の隣。つまり長屋の中央に暮らす森田家の方から聞こえている。恐山は、その事実に息を飲んだ。


「まさか……。」


 昨晩、宴会場で山下 トシ子の死を気にしていた森田 勇。細く骨ばった彼の姿を恐山は思い浮かべた。彼は山で命を張って暮らす叉鬼には珍しい性格をしており、良く言えば温和で、悪く言えば臆病な面がある老人だった。


 恐山とは歳も近く、数年前に叉鬼を引退して狩長を山本に譲ってからは、斜面側の集落に畑を借りて悠々自適の晩年を過ごしており、また夫婦で毎朝散歩をする程、夫婦仲が良いと町内で知られていた森田。


 そんな絵に描いたような心優しい老人の家から聞こえる不審な物音に、恐山の鼓動は早鐘を打つ。焦りを抑えようと一度外に出て深呼吸をしてから、森田家の玄関口に立つ。木戸の前でもう一度耳をすませてみたが、物音は聞こえなくなっていた。

 

「森田、おるか。ちょっとばかし邪魔するぞ。」


 一言声をかけて返事の無い事を確認した彼は、意を決して取っ手に手をかけて手前に引く。瞬間、部屋の内側から力を込められている感覚を腕が感じた。


 咄嗟にそれを止める事も出来ず、木戸が勢い良く外向きに開く。同時、何かが勢い良く彼に向かって倒れ掛かる。身体にぶつかる重量。思わず仰向けになって倒れる恐山。その上に覆いかぶさったのは、両手両足を縛られた留人の姿であった。


 半開きになった口からは、たらりと唾液が零れ落ちている。万事休す。しかし、どうした事か、その留人の口には細長い布が咬まされて、後ろ頭に縛られているのだった。


 おかげで命をとりとめた恐山は、その留人の顔を見るや否や、肩を立てて身体の上から乱暴にどかすと、抜き身のままの葬鬼刀片手に部屋の中へと駆け込んでいった。


「おい、森田っ!」


 叫ぶその先には、部屋の隅に寄せた椅子の上、静かに座っている森田の姿が見えた。


「こ、この……」


 わなわなと唇を震わせ、言葉を詰まらせる。既に時は過ぎてしまった。何もかもが遅かったのだということを一目見て彼は察した。目の前に居る男は、既に遠くへ旅立ってしまった後であった。後ろ首を背もたれに預けるような姿勢で、森田 勇は既に事切れていたのだ。


 その手には、猟銃の銃身を握っていた。銃口は口の中へ差し込まれ、白髪の薄い後頭部がザクロのように割れている。壁には穴が開いており、そこから差し込む外の光がまるで後光のように彼を照らしていた。足の親指で引き金を引いたのだろう。左足の靴下だけを脱いでおり、まるで銃を抱きかかえるような形で、森田は留人もならずに、その確実な死を自身に与えていた。


「この……大馬鹿野郎!!」


 小さい頃から彼を知っていた恐山。勇という名には似合わず、どこか頼りなげで臆病な性格だった彼の最後は、全く彼らしくもない壮絶なものとなってしまっていた。動揺を露わにし、地団駄を踏む代わり壁を強く殴りつけた。


 どしんと音が響き、隣室からまた小さな悲鳴が聞こえた。その声を思い出し、少し冷静になった恐山は、そこで冷たくなった森田の胸ポケットから覗く小さなメモ紙に気がついた。


 取り出してみれば震える字で書かれたそれは、森田の遺書である事が分かった。つらつらと書き連ねた言葉の中には、恐山への伝言も書き残されていた。


『妻の魂を追う。儂には、出来なかった。どうか彼女を還してやってくれ。』


 その一文を認め、彼が改めて玄関口に目をやると、芋虫のように身体をよじる森田の妻だった留人がそこに居た。死んで間もないのか血色は良かったが、生前の顔を思い出す事も難しい程、醜く歪んだ憤怒の表情を浮かべており、首をほとんど真後ろに折り曲げてこちらを見ていた。それはまるで、触覚をぐにゃりと動かすカタツムリのようで、恐山はその姿のおぞましさに思わず身体の震えを感じた。


 自由の利かない身体をよじり、壁や床を縛られた両足で力強く叩きつける彼女。それをまたいで外に出ると、恐山は共同の調理場へと向かう。調理場は屋根と簡単な衝立に囲まれており、ガスボンべと調理器具が横一列に整列していた。


 彼は、その中から丈夫で長い菜箸を選んで手に取ると、一本の先端を葬鬼刀の刃に擦りつけた。先端が鋭く尖り、一本の長い串となった菜箸。それを片手に調理場を出てきた彼は、首をあらんばかりに持ち上げる森田の妻、森田 梅もりた うめの顎を片手で持ちあげ、鼻腔の片方に、その菜箸を差し込んだ。


 目を瞑り顔を背けながら、手のひらで菜箸を奥深くまで差し込んで数秒間。それは、恐山には永遠にも感じられる時間だった。持ち上げた顔の筋肉が弛緩していくのを感じて目を開くと、そこには眉間に寄った皺をゆるりと解き、穏やかな元の顔へと戻った梅の姿があった。


 恐山は真っ赤に染まった菜箸を引き抜くと、力任せに集落の外に向かって投げつける。からりからんと杉の枝に何度かぶつかって、真っ赤な菜箸は下へと落ちていった。

 

 たらたらと鼻血を流す遺体を前にして、恐山は片手で自身の顔面を覆った。留人を還すのは、間違いなく故人の為、遺族の為になる事だ。しかし、親しかった人の身体を傷付ける事には代わりはなく、処置を行う度、老齢ゆえ町民達と長い年月関わって来た彼の心は、言いようのない無力感に支配されるのだった。


「――最初に、梅さんが首元を抑えて帰って来たんよ。」


 篠原家の食卓。白湯を口に含ませ、やっと少し落ち着いた篠原 貞世が事の顛末を語り出した。


 それは、ちょうど木梨の緊急放送が始まった頃だったという。早朝から山菜採りに行っていた森田夫妻が、留人に襲われたと叫んで帰って来たのだ。梅さんは首元を噛まれたらしく、血の止まらない歯型の傷を必死に抑える旦那が、何度も名前を呼んでいたと言う。


「ほんで、だんだんと梅さんも弱って来てな。最後は、ありがとうありがとうの繰り返しで……もう見ておれんかったよ。旦那さんも、顔が真っ青でな……。」


 そして死んだ妻を前にして、森田は着物の帯を貞世に借りると、それで梅の手足を縛りあげ、二人きりにして欲しいと言って閉じこもったのだと言う。心配げに貞世が家の前で待っていると、耳をつんざくような発砲音が中から聞こえ、しまいには尋常でない物音が鳴り始めた為、彼女は集落から出ていく事も出来ず、部屋の隅でただ震えていたのだった。


「そこにあんたが来てくれたんや。すまんな、取り乱しとって。」


 かたりと湯呑みを置いた貞世は、唾を飲み込むような仕草をして恐山に向き直った。


「恐山さん、それで……叉鬼衆の事なんじゃけど。」


「ああ、分かっとる。」


 この集落には今、生きた人間は彼女しか居なかった。叉鬼達は未だ外に居るのだという。ならば、彼女の心配する事といえば一つであろう。


「あいつらが、どこに逃げとるか検討はつかんか。」


「ええ、多分、すぐ近くで鉄砲の音がしとったから……山小屋にでも逃げとるんやろうと思う。しかしな、もう駄目かも分からん。わたしゃ、群れが山に入っていくのをこの目で見たでな。」


 だから、出来たらで良いのだと。留人が居なくなった後で構わないから。あの人達の様子を見てきて欲しい、と控えめな口調で語る貞世。しかし、彼女の隠しきれない不安と絶望を察した恐山は、その細い肩を叩きあえて強くうなずき返した。


「確かに、頼まれた。ただ、時間を待っても連中は引いてはくれんじゃろう。今すぐ探しに行ってみようと思う。」


「ありがとう……ほんにありがとうな。」


 そう言って、顔中の皺を一箇所に集めたような表情をする貞世に、戻って来るまで戸締まりをして、絶対に集落から出ない事を約束させた恐山。森田の使っていた猟銃を肩に担ぐと、集落の外へと続く空中回路へ足を踏み入れた。すると後ろから、彼女が手に何かを持って駆け出て来るのが見えた。これを、と差し出される手には、一着の着物が握られていた。


「あんたには丈が短いかもしれんけど、良かったら……。」


 留人の血で、全身を赤黒く染め上げた恐山を見かねたのだろう。篠原が着なくなった古着をくれるという貞世。いい加減まとわりつく血と雨の重さが嫌になっていた恐山は、好意をありがたく頂戴することにした。


 彼はその場で着替え、少し袖丈の短い紺色の着物姿で元来た道を駆け出した。ゴロゴロと雷が鳴る空の下、しっとりとした霧雨に肌を濡らしながら山中へと分け入っていく。


 孫には日没までには帰ると約束したが、今から山頂に向かうとなると、明日の朝までは帰れまい。恐山は苦い顔をした。人が眠る代わり、留人が我が物顔で闊歩する夜が訪れる。そうなれば、流石の恐山と言えど外を出歩く訳にはいかなかった。


 山小屋で一晩を過ごす。叉鬼衆がまだ無事であれば、きっとそれも叶うだろう。恐山は、天に祈りながら山道を急いだ。

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