第13話 酒宴

「ハァッハァッハァッ」


「篠原さん、気張れよっ!まだ死ぬな!」


 先頭に立つ奥田が、藪をかき分けながらそんな声をかける。徐々に短く、そして荒い呼吸に変わっていく篠原を支えながら叉鬼達はただ前へと進み続けた。


 山中にさえ入れば、たとえ大人一人を支えていようが山歩きの熟練たる叉鬼に一日の長がある。亡者との距離は徐々に開き、少しずつではあるが皆も冷静さを取り戻してはいた。


 ――前日の雨のせいで山の土はぬかるんでおり、力はあるものの知恵のない留人達は泥と化した斜面をいたずらに削るばかりだった。連中は山歩きはお世辞にも上手いとは言えない。しかし余裕でいられるのも今の内だと、山本は焦りを感じていた。


 留人は知能を持たない代わり、朝も夜も関係なしに動き続ける事が出来る。一方の叉鬼衆は、皆威勢こそあれど体力の長く続かない老いぼればかり。早く安全な場所へ逃げなければ、やがて留人は山のいたる所に溢れ、疲れきった叉鬼衆にその冷たい手が触れてしまうことだろう。


 その為か、尾根を目指し道なき道を行く一同の足は自然と早くなった。目的地は南山の頂上に位置する山小屋だ。安全な避難場所とは言い切れないが、叉鬼の集落に近寄れない以上、怪我人を連れて身を潜めるにはそこが限界だった。


 山本は、自身の体力とは関係なしに、徐々に篠原の身体が重くなっていくのを感じていた。毒が回り、いよいよ身体を支える事が困難になり始めているのだろう。篠原は、身体中から滝のような汗を流れ落としていた。


「ハァッ、いい、ハァッ、もういいんだっ。」


 苦しそうに息をしながら、篠原は何度も自分を置いて逃げるよう訴え続けた。留人の毒は、まず呼吸器系に障害を起こし徐々に全身への麻痺を広げていく。しかし初期症状ともいえるその喘ぎを聞きながらも、山本は決して足を止めようとしなかった。熊谷も奥田も同じ思いなのか、文句の一つも言わずに従ってくれていた。ありがたいことだと、彼は思った。


 ここで手負いの篠原を置いていくのは、いとも容易い。しかしそれではと同じではないか。そう山本は心の内で思っていた。まだ少年だった頃、隻腕の留人から一目散に逃げ出した大人達。事が全て済んだ後、留人と命を賭して戦った送り人を化物と罵り、叉鬼衆を……亡き父達を、役立たずとあざ笑ったあの醜い連中と同じだと。時は流れて彼等は改心し、その罪自体は水に流されてはいたが、あの頃の光景は今も山本の心に焼き付いたままであった。


「見捨てる事だけは断じてせん。叉鬼の誇りと意地にかけて、断じてだ!」


 眼光鋭く、山本はそう言い放った。例え四方を留人に囲まれたとしても、その決意が揺らぐ事は、彼の目の黒い内は決してないのだろう。


「――すまねぇ、本当に、俺は……ッ!……ッハァ!」


「いいから黙っとけ。最後くらい、ワシらに甘えてくれや。」


 柄にもなく優しげな声色で熊谷が呟く。強面に似合わぬその言葉。これ以上ない冗談に、うっすらと篠原は笑みを漏らした。


 彼の下半身が完全に力を失い、引きずられる形となった頃、四人の前に青い屋根の山小屋が現れた。山小屋と言っても、彼等がそう呼んでいるだけであり、実際は歪な形の物置をマシにした程度の作りの物置きだった。


 半ば藪と一体化し、廃墟然としているこの山小屋は、一時期心を閉ざし人を遠ざけて暮らそうと山本が建てた別宅であった。


 ただ、歳を重ねて自身の心に折り合いを付ける事を覚えた山本が、孤独な生活を止めてからは空き屋となり、今では狭くて声の響く集落の長屋では出来ぬ話を持ち寄って、男達が酒を酌み交わす場として、山小屋はその機能を果たしていた。


 そんな男達の秘密基地。ドアの取っ手にぐるぐる巻きになった針金が鍵代わりとなっている粗末な小屋。


奥田が焦りから震える手指で、その鍵を外す。彼がそれを解こうとする度、ぎぃぎぃと錆びた金属の音が大きく鳴り、一同は肝を冷やした。


 そうしてトタンの貼られた薄いドアを乱暴に開けて、四人は勢いよく中になだれ込んだ。敷物代わりの毛布の上で力無く大の字になる篠原と、その両脇で疲労感を露わにして、流石に立ち上がれない様子の山本と熊谷。


「頼む、奥田。」


 息を整えつつ、山本は奥田にドアをすぐに塞ぐよう指示した。


 くるりと丸まった針金を、今度はドアの内側に巻き付けた後、奥田は猟具の満載された棚を全身の力を使って押し、小屋の入り口をきっちりと塞いだ。


 ボロ布で出来たカーテンを引き、一気に暗くなった山小屋の中で小さなひよこ電球を付けると、柔らかなオレンジの光だけが、彼等の疲れきった顔をぼんやりと照らした。


「ほ……本当に……すまん。」


「謝らんで良い、死ぬるまで側におるぞ。」


 瀕死の篠原のあまりにも弱々しい声に対して、山本は穏やかに答えた。ヒューヒューと喉から漏れ聞こえる音が、彼に残された時間が少ない事を示しているのが分かった。


 留人の毒は、駆け足で身体中に死を告げて回ると言われている。


 篠原は、留人の潜む藪の近くに立っていた。本当に、ただそれだけだった。


 それだけで、さっきまで健康だった男は仲間に看取られるのを待つばかりとなっていた。自分達はたまたま運が良かっただけだと。そんな事実もまた、全員の言葉が喉で詰まる原因となり、部屋には重苦しい沈黙が流れていた。


 ヒューヒューと苦しげな呼吸音だけが響く室内。


 山本はふらりと立ち上がり、ひよこ電球の下から姿を消すと、奥から座布団を持って再び現れた。それを各自に投げてから、一つを半分に折って篠原の頭の下に敷いて枕にする。ついで彼の身体を横向きにしてやると、気道が楽になったのか、その呼吸は随分と穏やかなものになった。その際篠原の身体に触れたが、まるで氷のように冷たく、体温はほとんど感じられなかった。


「さ……よ……貞世を……。」


「貞世さんもきっと無事だ。落ち着いたら必ず集落に戻って、ワシらが守ってやるさかい、安心せい。」


 毛布を一枚身体にかけてやり、その意図を汲み取って答えると、篠原は力なく微笑んだ。そして何か冗談でも言いたげに口を開けるが、言葉はごほごほと咳に邪魔されてしまった。


 奥田はここに入って来てからというもの、感情のやり場に困っているのか、頻繁に立ち上がっては頭を掻き乱していた。熊谷は、口を真一文字に結んだまま何事か思いつめるような表情をしていたが、突如膝を力強くパンッと叩いて立ち上がるとこう言い放った。


「よし酒だ、酒を飲むぞ。」


 ――その、あまりにもこの空気に似つかわしくない言葉に、呆気に取られた顔をする二人。 


「な、何を言って。」


 ついに頭がおかしくなったかと、眉を八の字に曲げる奥田。一方山本は、最初こそ唐突さにぽかんとした顔をしてはいたが、その弛緩した顔を破顔させ、さも面白そうにころころと笑った。


「おう、確か先日の残りがそこにあったぞ。」


 そう言って部屋の隅を指差せば、熊谷は暗がりを手で探って一升瓶入りの酒を持ち上げた。先週末に行った、酒宴の残り酒であった。まだ半ばまでたぷんと揺れるそれを床に下ろすと同時、薪ストーブの上に置かれた御盆に手をやって、人数分の猪口を手に取った。


「二人して、一体どうしてしもうたんじゃ。」


 どこまでも不安げな表情を浮かべ、固まったままの奥田に湯呑みを手渡す山本と、有無を言わさずそれに酒を注いでいく熊谷。


「――分からんか、こういう時やからこそじゃ。ワシらがここに来るのは、酒を飲む時と決まっとろうが。」


 そう言って自酌で注いだ酒を高く掲げる熊谷。奥田はその意図にやっと気づいたのか、ハッとした顔になって慌てて猪口を持ち上げた。


「「乾杯!」」


 山本のそんな号令で、かちりと陶器の合わさる音が鳴る。奥田は目元をうるませながらも、それを一気に飲み干した。


「おお、いつにない豪快な飲みっぷり。いやはやこれはワシも負けておれん。」


 そう言って熊谷も、酒をがぶりと口の中に放り込んだ。


「……。」


 そんな叉鬼達を、どこか懐かしい光景を眺めるような目で篠原は見ていた。その目尻には、いつしか涙が筋を作っており、彼の顎からぽたりぽたりと座布団の枕に染みをつけていた。


「――どうだ、美味いか。」


 言葉の代わりじっとこちらを見つめる篠原の口元に、山本は猪口を傾けた。その雫のほとんどが口の端からこぼれ落ちたが、舌にわずかに染み入る辛さを感じてか、篠原は彼の目を見つめ、口を何度か開閉させていた。うまい、と言っているようだった。


 そして叉鬼達は、篠原に残された時間を忘れたかのように話に華を咲かせた。小さい頃、山本が好いた女を熊谷に言いふらされた事。それをきっかけに、互いの顔の形が変わる程の酷い喧嘩をした事。これまで何度繰り返されたか分からない、年寄り達の昔話だった。


「――その時、こいつに引き抜かれたのがぁこの左目じゃ!」


 片膝を立て、そう言って眼帯の下の義眼を見せつける熊谷に、山本は何のと言わんばかりの表情で銀色の耳をトントンと叩いた。


「その代わりに耳をくれてやったろう。」


 二人の話を聞いて、奥田は息を殺してくつくつと笑っていた。山本が言葉を続けようとしたその時である。眼帯をめくった熊谷の眉が下がり、すっと穏やかなものになったのだった。その表情の変化の表す所を、山本は十分承知していた。


「――逝ったか。」


 そう言って彼は、傍らに眠る篠原の顔をそっと撫でた。それは留人の毒に苦しんだとは思えない、微笑みを浮かべた死に顔だった。それを見てついに耐えきれなくなったのか、奥田は後ろを向き、熊谷は残った酒をぐいと飲み干した。


 まるで、彼等に配慮でもするかのように、留人の気配はおろか、虫の鳴き声もしない静寂の中。まだそこに居るであろう篠原の魂に囁きかけるように、彼等の酒宴はしばし続いた。

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