第17話 帰郷

「苦しんだか。」


「いいや、笑っておった。」


「そうか。」


 叉鬼の集落、樹上長屋。夫が皆に看取られて死んだ事を知った篠原 貞世は、ぽつりとそれだけを口にした。彼女はそれ以上は何も語らず、それ以上は何も聞きたがらなかった。自分達の責任だと地に頭を伏せている叉鬼達の事も目に入っていないのだろう。黙って、ただ窓の外に目をやっていた。


 人の死は、親しい人々の心に、大なり小なり二度と埋まらない空洞を作り出す。それは時と共に遠くへ忘れる事が出来る空洞だが、老い先短い身にはその時間もなかった。


「――なあ恐山、ここにおる訳にはいかんのか。」


「すまんが、すぐに帰ると町の連中に約束したもんでな。」


 篠原の遺品となってしまった着物の上に、体格の近い熊谷から借りた黒い外套を着る恐山。何としても公民館へ帰りたいという彼を、叉鬼衆は何度も引き止めた。


 それでも樹上長屋から出て行く決意を変えない彼に、最後は皆折れてくれたようだった。三人に見送られつつ、空中回廊に足を踏み出した恐山は、ギィギィと床板を鳴らす音が背後に続いた事に気がつくとすぐに振り向いた。


「どうした、一本道だ。道案内はいらんぞ。」


「そう言うな。奥田、後を頼めるか。」


 彼の背後に付いて来た山本が、そう言って集落の方を見上げて声をかけると、奥田が片手を上げて、肯定を示した。それにいぶかしい顔をする恐山。彼が山本の後ろに目をやると、にやりと笑う熊谷とも目が合った。


「一体なんのつもりだ。」


「なあに、短い道中だが、お前さんには旅のお供が必要だと思ってな。」


 肩に担いだ猟銃をぽんぽんと弾ませながら、そう熊谷は言う。二人の担ぐ猟銃の先端には、いつの間にか大きな円筒が取り付けられていた。聞けば、消音器なのだと言う。恐山の知らぬ所で、準備は万端だったという事だ。


「何が起きたって知らんぞ。」


 呆れ顔を浮かべてはいるが、少し嬉しげな恐山。腕の確かな叉鬼が二人。留人の海を進むのに、これ以上頼りになる助っ人はきっと国のどこを探してもいないだろう。


 ――送り人と叉鬼達は、樹上長屋を降りて、山沿いのあぜ道を、恐山が昨日道に寝かせた留人を横目に進んでいった。


 恐山が正面の留人を相手する。二人の叉鬼は猟銃を使って、彼の死角を守った。短く声をかけ合い、三位一体となった彼等が通った後の道には、次々と動かぬ死体だけが残されていく。


「はっはっは、このまま全員を還してやろうか。なあ、恐山!」


 ぱすんぱすんと、消音器特有の音をさせながら、遠くに見える留人に狙いを定める熊谷。彼が弾を放つ度、酔っ払いが踊っているかのような留人の影が倒れていった。


「平地と言えど、油断禁物じゃ。」


 上機嫌な熊谷を、山本はそう言ってたしなめるが、その口調にはどこか余裕が見られた。事実として留人を個別に相手している限り、三人は無敵と言って良かった。


 本来不意打ちさえされなければ、噛みつく以外に能の無い留人は、すばしっこい動物を相手に毎日山を駆け回る叉鬼達の相手になどならなかった。


 それを証明するかのように、道に留人の死体を次々と残していきながら歩む三人。叉鬼達が三度目の装弾を終える頃には、山をぐるりと回り込んだ彼等は、ついに斜面側の集落に辿り着いていた。


「――菩提樹の木の元、迷わず還られよ。」


 荒れ果てた木梨商店の前へ差し掛かり、山本がそう言って手を合わせる。恐山は友の墓標と化したその建物から顔を背け、ふらふらと近寄る留人の頭を、力任せに一つ二つと跳ねた。


 留人の大半は上へ上へと登っていったらしく、彼等の周囲には、もはやまばらにしか姿は見えなかった。叉鬼達は、そんな見える範囲に居る留人を撃ってまわった為、辺りは随分と静かになった。


 そんな、死体がずらりと並んだ道の真ん中で、恐山は集落の上に小さく見える公民館を指す。


「見て分かる通り、上へ行く程、連中の数が多くなっとる。半ばまでは屋根を伝って行けるが……ちょうど駐在所の辺りから上が鬼門や。」


「隠れる場所が少ないんか?」


 山本が眉間に皺を寄せて言う。


「いや逆だ、物陰が多すぎる。どこに連中が潜んでいるか分からんのだ。」


 集落の上に行くほど、塀に囲まれた家が多く留人の数が読み辛い。恐山は、知らぬ間に留人が入り込み、口を開いた食虫植物のようになっていた我が家を思い出した。全てが終わった後、掃除をしなければならないだろう。きっとそれは、大変骨が折れる作業になると思われた。


「だから、もし近寄れなければ、屋根の上から無事を知らせるだけでも良い。」


 故に無理をせず、ゆっくり進んで行こう。そう彼が言葉を続けようとした時である。彼の目の前で、山本が突然一点を見たまま固まったのだった。


 目を細め、何かを見定めようとする表情をした後、黙ってその一点を指差す山本。恐山が指の先を追うと、都道の向こうに、割れたアスファルトを真っ直ぐ歩んでくる人影が見えた。


 田んぼを割るように真っ直ぐ続く都道。そこを軽快な足取りでこちらに向かってくる、ピンク色の開襟シャツにデニムパンツ姿。おそらく女性だろうか。肩まで伸びた長い髪がその顔を隠しており、左右の手にそれぞれ何か大きな物を持っていた。両手の丸いシルエットが、遠目に見るとグローブをはめた拳闘士のようにも見える。


 やけに姿勢の良いその女は、ぐねぐねと不気味な動きをした留人達の間を器用にすいすいと避け、確かな足取りでこの集落の方へと向かって来ていた。恐山は、背の高いその女の姿を見て、何故か心の奥がざらつくような感触を覚えた。


「――逃げるぞ。」


 気づけば考えるより先に、そんな言葉が自身の口から出ていた。


「何を言ってるん……だって……おい……おい……おいッッ!!!」


 熊谷は、いち早くを認めると、狼狽えるように何度も同じ言葉を叫んだ。感情を言語に変換出来ない、といった様子だ。しかし、この光景を形容出来ないでいるのは、皆同じだった。


 ガサガサに乱れている長い髪。


 声をかければ届く距離。


 女は、熊谷の声を聞いたのを合図にするかのように、そこに立ち止まっていた。


 その両手に握られているのは、首から下を無くした、人間の頭部だ。


 髪の毛を雑に掴まれて、舌をだらりと口から覗かせている二つの首。


 握られていた。


 柄谷と松島が。


 二人は頭部のまま留人と化しており、口を小さく開閉させ、まばたきをしていた。それを認めた恐山の身体中が、瞬時に粟立つ。最も忌むべき古い記憶が、彼の中に蘇ってきた。


「――隆ッッ!!!!」


 山本が、まるで落雷のような叫びをあげるのが聞こえた。目を見開き、素早い動きで猟銃を構え、女の眉間に目がけて、迷い無く、撃った。


 ぱすんと小さな発砲音。発射煙だけが銃口から放たれる。


 しかし、女がぐらりと身体を揺らしたせいか、山本が興奮から手元を誤ったのか、弾は狙いを外れた。


 眉間を貫く代わり、女の毛が数本千切れて宙に舞った。


 血でピンク色に染まった開襟シャツ。身体を極端にのけぞらせる姿勢になった女の長い髪の間から、高い鼻が覗いていた。


 山本はボルトを上下させる。


 女は両手の平を開き、手に持った首を地面に落とした。

 

 柄谷と松島が、地面に口づけをするように、うつ伏せになって転がる。首を左右九十度直角に傾ける女。やはり、人間ではない。

 

 恐山は、葬鬼刀の柄に手を掛けた。


 隣で山本が、もう一発、撃った。

 

 ぱすん。


 今度は明確に、留人は弾を避けた。


「――!!」


 恐山の喉は、声を忘れた。若き日の記憶が。父を亡くした、あの日の記憶が波となって彼を襲っていた。死後、人の身体を借りて蘇る、留人であって留人でない存在。


 こいつは、転鬼だ。


 長身の留人は、肩をがくりと落とすと、獲物を狩る動物のように低い姿勢で、全速力で駆けてくる。


 一歩一歩足を踏む度、遠近感が狂う程の勢いで大きくなり、恐山が抜いた刀を避け、身をかがめ、地面を蹴り上げ、そして――


「おいっ、恐山!どうするんだ、どぎょェ」


 その留人は、熊谷の顔面に、膝を叩き込んだ。家具を金槌で叩き壊すような乾いた音を、恐山は間近で聞いた。それは、熊谷の頭蓋が砕かれる音であった。


 その場でブリッジでもするかのように、地面に叩きつけられ、ぐにゃりと力なく身体を横たえる熊谷。


 ひと目見て、既に助かる状態にない事を恐山は察した。


 顔は原型を留めず、血の泡が口から溢れ出ていた。

 

 留人はしゃがみ込み、もう一度跳躍する。狙いは、恐山だ。胴体に飛び込んでくる膝。彼は咄嗟に葬鬼刀の峰に片手を当てて、それを受けた。


 留人の足に食い込む刃。ぐにゃりと曲がった刀身。旧世紀の研ぎ澄まされた技術も、圧倒的な力の前では形無しだ。


 留人は、足から血を流していた。膝を壊したのか、右足が外向きに曲がっている。不思議そうに自身の足を見ている留人の後ろ、山本が腕を振り上げ、力強く下ろした。その直前、留人は身をわずかに反らす。


 打撃音に近い、固い音がした。


「ヴヴヴヴヴヴォォォオオオオオオ!!!!」


 一瞬間を空け、風切り音のような絶叫を上げる留人。山本の手には、真っ黒な血に濡れた鉈が握られているのが見えた。


 昨晩、恐山も味わった鉈の一撃。


 真っ直ぐ留人の脳天を狙ったのだろうが、狙いは外れ、左腕を切断していた。


 わずかな皮のみが、腕と肩を繋いでいる。


 留人は信号の伝わらなくなった腕を掴み、引きちぎる。


 別れを惜しむ皮膚がゴムのように伸び、細い糸になって切れた。


 留人は手に持った腕を不要とばかりに投げ捨てる。


 ボトリと粘着質な音と共に、腕は地面に落ちる。


 細い指には、指輪がはめてあるのが見えた。


「こいつは転鬼じゃ!恐山、逃げ」


 言い終わる前に、山本は留人に腕を握られ、力任せに投げ飛ばされた。紙くずのように飛び、恐山の後方に落下する。どうやら留人の死体の上に落ちたようだ。


 脱臼して伸びた腕を咄嗟に押さえている山本が見えた。良かった、まだ生きている。恐山は留人に向き直ると、くの字に曲がって使い物にならない刀を投げ捨て、両手を構えた。馬鹿の一つ覚えのように、彼の腕を掴もうとしてくる留人。


 腰を落としてそれを避け、一つに合わせた両手の掌底を、前へと突き出す。


「喝ッッ!」


 叫ぶ。


 胸骨を折る感触が手の平に伝わる。


 まともにそれを受けた留人は、まるで交通事故にでも遭ったように宙を浮き、何度か回転して無様に着地した。


「――動けるか。」


 恐山は振り返ると、急いで山本の側まで駆け寄り、声をかける。


「き、奇跡的にな。」


 差し出した手を握り、力なく笑む山本。汗がだらだらと額に溢れている。左腕からは骨が突き出ていた。酷い怪我だ。腕を切り落とした彼への、仕返しのつもりだろうか。


「話は後だ、行くぞ。」


 山本をいたわる時間すら惜しかった。あの程度でくたばる事はない。頭を壊さない限り、いずれ起き上がり、執拗に人間を狙ってくるだろう。恐山は、そんな焦りに追われるまま山本を急かした。


 相当な激痛を感じているだろうに、転鬼した留人の恐ろしさを承知しているのか、脂汗を流しつつ、文句も言わずに坂道を登りだす山本。


 武器を無くした恐山が、既に事切れた熊谷の猟銃を拾いに行き、ついで田んぼの方を見ると、道の真ん中に倒れていた留人がゆっくりと起き上がろうとしているのが見えた。


 慌てて恐山は坂道を登り、山本の背に手を当てて歩みを早めた。この怪我では、屋根を伝って進む事も出来まい。まずはあの留人の視野から逃れ、山本を安全な場所へ連れていき手当しなければ。


 背筋が浮くような感覚を覚えながら、坂道を登っていく。この数分間の間に、状況は一変してしまった。恐山は、やっとの思いで無数の手から山本を庇いつつ、足を止める事なく逃げ続けた。


 途中何度も背後を振り返り、通りを見た。転鬼した留人が追って来ていない事を確認する為だ。幸い、一度も彼女はその姿を見せていない。しかし、それが逆に不気味に思えた。常に死神に見張られているような緊張の中、恐山は安全地帯を探す。


 前方に、高いアンテナの立った駐在所が見えた。


 造りが頑丈で、外部と連絡も取れる。


 決まりだ、と恐山は山本を励ました。


「よう頑張った、あと少しや。」


「こんな腕になっちゃあ、叉鬼も引退やな……。」


 痛みに顔を歪めながら、山本はそんな弱音を吐く。進行方向に居た留人を、使い慣れない猟銃で撃つ恐山は、三発目でやっと留人に当てた後、銃を見せつけるように言う。


「ほんならワシが後を継いでやろう。」


 目を合わせて笑みを零す二人。


「見てみぃ、十年早そうだ。」


 顎で後ろを差す山本に言われて振り返ると、恐山の狙いは頭を外れていたらしく、肩口から血を流しながらも、留人はまだ動いていた。もう一度構えてから、鼻から息を漏らして猟銃を降ろすと、恐山は山本から鉈を借りた。外套で刃に付着したあの留人の血を拭い、留人の元に寄ってとどめを刺した。


「鹿はもっと難しいぞ!」


 そんな軽口に返事を返そうと恐山がその場で振り向いた時。


 軒下に立つ笑顔の山本の上空、屋根を足場に、飛びかからんとする転鬼の姿が見えたのだった。


「避けろォ!」


 鉈を手に、駆け寄ろうとする恐山。飛び降りた留人は、ほんの数瞬前の笑顔を浮かべたままの山本の喉笛を噛みちぎっていた。


 飛び散る血に開襟シャツを染め、口から喉の肉を吐き出す留人。山本の一部が、地面に吐き捨てられた。それに続くように、風切り音を喉からさせて、山本は地面に横になる。


 山本の血糊で髪が固まり、留人はその顔の特徴を露わにしていた。


 よく整った目鼻立ち。氷のように透き通る白い肌。顎の半ばまで割れた口元が、真新しい血に濡れていた。腐敗の気配も無く、まるで未だ生きているかのようにさえ見えるその女の顔は、恐山にこの上ない動揺を与えるものであった。


 取り落としそうになる鉈をやっとの思いで握りしめ、恐山は前方へ、目的地としていた駐在所へと歩き出した。


 口を半開きにし、もつれる足を励ましながらやっとの思いで前へ進む。


 その数歩後ろに、女の留人はゆっくりと、まるで随伴でもするかのように付いてきていた。


 

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