第19話 終幕
――救助の為、都兵が木帰町に訪れたのは、それから十日後の事だった。
公民館の窓越しに留人達が見えなくなってからしばらく。二人が久しぶりに外に出たその日の朝、全ての終わりを知らせるように、町に初雪が降った。
風は吹いておらず、この世の全てを覆い隠さんとするかのように、ただ真っ直ぐに雪は地に舞い降り、視界は真っ白に霞んだ。
ジャラリジャラリ
町が一面の雪色に染まった静かな世界の中、そんな鎖の音だけが聞こえている。
遠くから、また別のアスファルトを鳴らす無機質な音が聞こえてくる。
それは、キャタピラを回しながら重型輸送車が近づいて来る音だった。
二人は道の脇に避けて立ち止まり、黙って都兵達を見送った。
目の前を、大きなキャタピラが通り過ぎていく。
車の後ろを、全身を黒い強化服で覆った都兵達が、ゆっくりと歩んでいった。三つの
噂では、中に大容量の蓄電池が入っており、それで強化服を動かしているのだと聞く。見た目の恐ろしさから、世間では鬼兵隊などと呼ばれていたが、本当の鬼を知っているケイは別段何も思わなかった。
鬼は恐ろしくはない。ただ物悲しい顔をしているのだ。
タタタンタタタン
そんな小気味良いリズムで、ライフル銃が鳴り響く音がどこか遠くから聞こえた。どこかに、まだ留人が残っていたのだろう。
目の前の都兵を見送り、再び二人は歩きだす。
ジャラリジャラリ
また、ケイの耳には祖父の鎖の音しか聞こえなくなった。
こうして、ずっと好きな音だけを聞いていられたら良い。
雪は、余計な音も景色も、何だって消してくれるのだ。
冷たい氷の匂いを吸い込み、肺を綺麗な空気で満たす。
町の至る所にあった死体も、綺麗に片付けられて、通りにはもう、腐臭も何もしていなかった。
しかし、雪にも隠しきれないものがあるとでも言いたげに、薄い朱色に染まる雪がそこら中に点在していた。
どれだけ必死に事実を否定した所で、死人も、死人に殺された人も、もう帰っては来ないのだった。
ケイの持つ辛い記憶は、この雪に滲む血のように、やがてゆっくり溶けて、薄くなっていくだろうが、目に見えなくなってもその痕跡だけは残し続けるのだろう。
道の先には、ケイ達が来るのを待っていたらしい二人の都兵の姿が見えた。背の高い三ツ目と低い三ツ目が、こちらをじっと見ているのが分かった。鬼どころか、口元のまんまるが口のように見えて、少し間抜けな顔にすら見える。
一体、どんな風に外の景色が見えているんだろうか、物が良く見えすぎると、疲れてしまわないだろうかとケイは心配になった。
『お待ちしておりました。』
二人の都兵が同時に敬礼をする。ケイ達は軍籍にないので、それにお辞儀で応えた。
『どうぞ、こちらです。』
背の低い方がそう言って、手のひらで軒下を指す。彼等都兵達は皆、事ある事に二人に、とりわけ祖父にうやうやしい態度を示した。それは、留人専門部隊であるという彼等が、その起源とも言える送り人に特段の敬意を払っているからなのだと、生き残った叉鬼の奥田が、ケイに教えてくれていた。
奥田は、叉鬼衆の中で一人生き残ってしまった事を知ると、死にそびれたと言い、彼等に着いていかなかった事を何度も悔やんでいた。気の弱そうな人に見えたから、尚更それはケイには意外だった。
生まれてから死ぬまで、共にあり続ける事を至上の価値観とする。叉鬼とは、そういう生き物らしい。
不器用だけど羨ましい生き方だとケイは思った。
「助けてやれず、すまなかった。」
彼の祖父はそう言って、深く頭を下げた。その先には、壁に寄り掛かるようにしてこちらを見ている叉鬼衆の一人、山本の姿があった。
身体を土嚢付きの紐で抑えられ、やせ細った首を亀のように前へと突き出している山本。
その目は白く濁っており、目の淵はげっそりと窪んで皮の張った骸骨のように見えた。銀色の補聴器を付けたその頭を、彼の祖父はそっとひと撫でする。
二人の都兵は、彼の祖父の行為に仰天している様子だったが、がちりと山本が宙を噛んだのを見て小さく安堵の溜息を吐いた。
ほぼ全ての留人の処置は昨日までに終わり、町外れで遺体の焼却も終わっていた。都兵達は、都で何が起きたのかを頑なに語ろうとしなかったが、遺族に断りなく遺体を処分する許可を得ている事が、事態の深刻さを無言で表していた。
あらゆる死体が一緒くたに灰にされていく中、この町の送り人の管轄であるという理由を盾に、彼の祖父が強く要望した結果、木帰町民であった者は都兵による処置を免れていたのだった。
「すまん、貸してくれるか。」
祖父が振り向き右手を差し出したので、彼は道具の入った腰袋を探った。公民館を出る前に、これからはお前が持つべきだと言われ、持たされていたものだった。名前も知らぬ道具の中から送り刀を探し出すと、慎重な手つきでそれを祖父へと渡す。
祖父は彼から借りた道具を手にすると、山本の顎の下からそれを差し込んだ。三つの細い刃が山本の中に消え、赤くなって戻ってくる。ケイはじっとそれを見つめていたが、留人が最後に言葉を口にするような事はなかった。母は、やはり特別だったのだろう。
静かになった山本の傍らには、チャックの閉じられた死体袋が一つ並んで居た。それは、転鬼した彼の母に殺されたもう一人の叉鬼、熊谷のものだそうだ。処置の必要がない死に方だったと聞いて、ケイは腹の奥がずんと重くなる気持ちになった。
「ケイ、行くぞ。」
「分かった。」
祖父は近くに居た別の都兵に、彼等叉鬼を公民館の側へと運んでくれるよう依頼してから歩き出した。その後ろを二人の三ツ目が続き、もっと後ろをケイがとぼとぼとついて行く。
都兵には、この町に着いてから何度となく留人の中に変わったものは居なかったかと尋ねられた。薄々、彼の母が転鬼したのではないかと感づいていた様子だったが、ケイも祖父も、そして事情を知る町民の誰にも口を割る者が居なかった為、最後には白旗を上げたようだった。
『ほんのわずかでも良い、何か思い出した事があれば知らせてくれ』
軍人らしくもない真摯な態度を見せる都兵達を前に、少し心は痛んだが、転鬼した留人の身体は貴重なサンプルとして国に奪われ、指の爪すら手元に残らないというのだから仕方がなかった。
彼等が隠匿しようとする、ケイの母、鈴原 清香の葬儀は、あの翌日公民館の裏手で行われていた。
彼女を知る全ての人達が涙を流し、別れを惜しんでくれていた良い葬儀だった。例え死後に転鬼し、仲間の命を奪ったとしても、皆の心の中には、美しく優しい母が確かに生きている。それを知れただけで、ケイにはもう十分だった。
ジャラリジャラリ
鎖の音を先頭にして、彼等は再び町の坂道を下っていく。
途中、ヘルメットを外して休憩している数人の都兵の姿が見えた。
「どこへ行くんだー?」
『恐山氏を現場へ案内しに行く所だ。』
そう言って祖父を案内している二人の都兵は、声だけで分かる程に自慢げであり、それを見送る都兵の方も皆、心底羨ましそうな表情をしていた。どの目にも、少年の見せるような純粋な色が浮かんでおり、まるで、ここに居る誰もが祖父のファンであるかのようだった。一方で送り人がそんな純粋な好意を向けられているのを見るのが初めてだったケイは、少し唖然とした表情を浮かべていた。
そこから少し先、見えてきた町の入口には黄色いバリケードが敷かれており、その手前を何人もの都兵達が忙しそうに行き交っていた。中には、白衣に簡易なガスマスクをした、研究者風の人間の姿も見える。
バリケードのすぐ手前には、まるで雨に濡れた紙箱のようにひしゃげてしまった木梨商店が見えた。拡声器の付いた鉄柱は斜めに曲がり、店のガラスは粉々になって床に散らばってしまっていた。
振り返って見ると、ケイが倒したあの小さな物置もそのままになっていた。
確かにここで留人に囲まれた彼は、木梨の最後の姿を見たのだった。
しかし宙にでも浮いたような現実感の無さを、彼はどこまでも拭い切れずにいた。
確かに、木梨の死を実際に目の当たりにした訳ではなかった。
そんな希望にも似た逃避が、そうあって欲しいという願望が、彼にわずかな夢を見せようとしてきているのだろう。
ぼんやりとした表情で立ちすくんでいる彼の耳に、背の高い方の都兵が祖父に話しかける声が聞こえてくる。
『留人は二階で拘束してあります。足場が大変悪いので、どうぞ慎重に……。』
留人。たったその一言。
ケイは、甘い幻想を抱いていた事を思い知る。
数センチ上から自身を見ているような、どこか他人事の意識が、彼の元へと還ってゆく。
風が鳴る音、都兵の無線の声、自身の呼吸、ひりひりとする肌の感触。最初からそこにあったあらゆるものが、窓を開いた彼の元へと一気に流れ込んできた。
五感が情報の洪水に晒される代わり、心の中は水を打ったように静まりかえっていた。
「――ケイ、来れるか。」
そう、尋ねてくるから。
「行く。」
そう、彼は返した。
窓、ドア、陳列棚、その何もかもが横倒しになった木梨商店に足を踏み入れる。二人の都兵には、入口で待っていてもらう事にした。
チャリチャリと割れたガラスを踏む。足元を見ると、ケイがあの日木梨から一度は受け取った味噌が、タッパーに入ったまま転がっていた。どうやら戻ってきた際に置き忘れていたらしい。
踏み固められ、地層のように圧縮された商品達の中からケイは、彼が身に着けていたエプロンを見つけ、拾い上げた。
木梨がいつも座っていた腰掛け椅子を持ち上げると、叩いて広げたエプロンを、静かにかぶせる。
二階へ続く階段は抜け落ちており、代わりにスチール製の梯子が掛けられていた。先にケイが登り、恐山がその後に続いた。
二階は、屋根板がほとんどめくれ、外と変わらない状態になってしまっていた。
「う゛う゛あ。」
二人がその姿を探す前、向こうから場所を知らせるかのように、そんなかすれた声が聞こえた。
祖父が先に、窓際で待つ木梨を見つけた。手振りで呼ばれるままケイがそこに向かうと、仰向けで倒れ、胸から下の原形が無い程に食い荒らされたその姿が見えた。
顔がほとんど無事である為に、その痛々しさは見ていられないものがあった。思わず顔を背けるケイに、祖父は心配顔で尋ねてきた。
「わしが代わろうか。」
「駄目だ、俺がやる。」
それは、ケイ自身が決めた事だった。
木梨の爺ちゃんは、自分が必ず還すのだ。
彼の決意を改めて理解した祖父は、これだけは手伝わせて欲しいと木梨の口に噛みぐつわをはめた。
異形と化してしまった木梨を前にしても、ケイの胸に悲しみはまだ沸いてこなかった。彼が感じていたのは、ただやり場のない怒りの感情だけであった。
死と転化という人間にとって避けようがない運命に対する怒り。
大切な人を守れなかった自身への怒り。
そして、今木梨の中に入っている偽りの魂に対する怒り。
「返せ、僕の大好きだった人達を。」
彼は、首だけを必死に動かす木梨の後頭部に送り刀を当て、頭蓋に向かって突き刺した。固い感触が、ヌルリとした感触に変わると同時、自身の腕の中で木梨の身体を操る何者かが消え失せた事を悟る。
顔を上げた時、暖かい筋が頬を流れているのを感じ、そこで初めて、彼は涙を流していた事を知った。
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