バイオリンを弾くとできる痣にステイタスを感じる

 今宵の深水は風呂で鼻歌を歌っている。

 曲目はアル・ボウリーが1932年にヒットさせた『Love Is The Sweetest Thing』のようだ。彼女がこの曲を歌うということは、機嫌がいいのである。おそらくバイオリンの師匠と久々に電話したからだろう。

 さきほどから深水は、湯船の中で恩師との思い出を手繰り寄せている。


 20年以上の付き合いになる恩師は、彼女が初めて尊敬した人物である。

 とてもポジティヴな性格をしていて、カラッとした雰囲気をまとっていた。せっかちで人の話をあまり聞かないのが玉に瑕ではあったが、人を肯定し、認め、伸ばす才能のある女性だった。トヨタのハイエースを乗り回し、バイオリンケースを抱えて常に忙しそうにしていたものだ。


 身長は低く、太っているというほどでもないが逞しい体つきをしていて、ホビットを思わせる外見だった。

 それでも足元はいつも華奢なパンプスだったのが女性らしいこだわりを感じて好ましかった。バイオリンを習い始めた高校生の深水には、舞台の上でもないのに履くパンプスが女心の象徴に思えた。

 恩師はそのためにひどい外反母趾だった。ヒールのあるパンプスでバイオリン片手に走り回っていた恩師の歪んだ足は、働く女の勲章のように思えたものだ。

 

 そこまで思い出すと、深水は思わず左の首に手を伸ばした。耳の付け根より少し下だ。

 恩師にはそこに大きなあざがあった。というのも、バイオリンを弾くとそこに痣ができることが多いのである。持ち方にもよるし、当て布をするかしないかでも違うだろうが、練習時間が長いと出来やすい。

 恩師だけではなく、教室仲間にも痣がある人は多かった。しかも、それは練習に練習を重ねる努力家や演奏の上手な人ばかりだった。


 バイオリンを弾くとできる痣は、深水にとって憧れの的だった。なにせ、バイオリンからのキスマークであり、努力と実力の証である。嫌がる人もいるであろう痣に、深水はバイオリン弾きのステイタスを感じたものだった。


 何時間も練習すると、深水にも痣はできた。しかし、鏡に向かって喜んだのもつかの間、練習しない日が続くとあっけなく消え失せる。

 あれは毎日の練習を何年も続けてきた人たちの勲章なのだ。まるで毎日パンプスで走り回り、譜面台の前に立ち続けた恩師の外反母趾のように。


 恩師のもとを離れてはや三年。痣のことなど、すっかり忘れていた。


 愛器は弦を緩められ、ケースの中で眠っている。イタリア生まれの眠り姫が目覚めるのはいつのことだろうか。アパートという賃貸事情がある限り難しいかもしれないが、いつかまた痣のある首筋にうっとりする日がくるかもしれない。


 ある人には憂鬱なものも、ある人には憧れになる。人間もおかしな生き物だ。考え方次第で存在価値すら変えてしまうなんて。

 もっとも、風呂につかる深水の脳内で同じように風呂につかっている私もおかしな生き物なのかもしれない。だが、それでいいのだ。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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