眉毛でも鼻でも人生は変わる

 風呂場の鏡に映った深水の顔はしかめっ面だった。

 私が住んでいるのは深水の脳内なので、心の声が館内放送のように聞こえてきた。


「眉毛、ぼさぼさだわ。手入れしなきゃ」


 そして深水は『眉毛』という言葉から、すぐに高校時代の知人を連想した。


 彼はとても性格が良く、濃い眉毛が特徴の子だった。

 卒業して数ヶ月後、大学生となった彼と偶然に再会したとき、深水は驚いた。彼の眉毛はすっかり手入れされ、顔の印象がシャープになっていたのである。そのせいか大学で急にもて始めたらしい。彼は嬉々としてこう繰り返した。


「眉毛で人生は変わるよ」


 しかし、深水は彼とはまったく正反対の想いでその言葉を聞いた。なぜなら深水は垢抜けない眉毛の彼のほうが好きだったのだ。その瞬間、彼への興味を失い、つながりが完全に断たれた。


 幸の薄そうな眉や、化粧で不自然なほど眉頭が濃いものはさすがに気になるけれど、深水にとって眉はさほどこだわるところではない。ありのままの眉をした男性はむしろ好きなのだ。


 では、どこにこだわるか。


 それは、鼻だ。


 とはいっても問題は形状や大きさではない。重要なのは『匂い』なのだ。何事も匂いで判断することが多い。食べ物の好き嫌いも匂いが決め手である。魚が苦手なのも匂いのせいだ。脳内に住むとはいえ、曲がりなりにも猫として生まれた私としては、もう少し魚を嗅いで欲しいところである。

 靴屋の匂いは深水を上機嫌にさせる。果ては習い事も匂いで決まることがある。バイオリンと書道が長続きしたのは、松ヤニの匂いと墨の匂いが好きだったことが原因の一つである。


 十代の頃、恋愛に奔放なアルバイト仲間がいた。浮気性の男は嫌いな深水なのだが、いつも彼の服から良い匂いがしていたのでその人だけは嫌いではなかった。濃い香りの柔軟剤が流行する何十年も前から、彼は柔軟剤で人の心を掴んでいたのだ。不誠実なくせに彼がもてていたのは柔軟剤のおかげでもあるだろうと今でも信じている。


 犬より猫が好きな理由の一つは匂いである。見ているぶんには犬も好きだが、匂いが苦手なのだ。だから、脳内に住まうのも猫なのだ。


 もし、彼女の鼻の基準が少しでも違っていたら、もしくは匂いにこだわりがなければ、人生は変わっていたに違いない。眉毛で人生が変わるなら、鼻でも変わるのである。道しるべが眉毛にしろ鼻にしろ、些細な分かれ道が積み重なって、しまいには人生が変わるのだから人間はわからない生き物だ。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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