口内炎と渦
深水は三十路も半ばを過ぎた今になって、生まれて初めて口内炎の痛みと向き合っている。数日前から上唇の裏に大きな口内炎ができているのだ。
小説を書く人には「あるある」なのだが、どんなアクシデントや不幸でも、「いつか小説に使えるかも」という意識が働いてしまう。
実際に経験しないと書けない文章のために、深水は口内炎の痛みを甘んじて受けている。
もっとも、今まで深水の小説に口内炎という言葉が使われたことはないし、これから使用するかは保証がない。それでも嬉々として脳内に経験してみないと見えなかった側面をメモをするのである。
口内炎にチョコレートが染みるなど、知らなかった。しょっぱいものを食べて痛がるイメージはあったものの、甘いものまで染みるとは想定外だった。
それにしてもどうして口内炎などできてしまったのか。上唇の裏なら噛むこともない。ということは偏食のせい(特にビタミンB群の不足)だろうか。
自分のどこに口内炎の生まれる要素があったのだろう。
なんだか自分の中に音もなく潜んでいて、ひょっこり顔を出して苦しめ、甘いものすら痛みに変えてしまうなんて『妬み』や『未練』に似ている。
そして深水は、口内炎は湯船の栓を抜くとできる『渦』にも似ていると思う。
小学生の頃、なぜ渦ができるのか不思議だった。
お湯が流れるせいか、それとも空気が上がってきているのか。お湯が先か、空気が先か、出ているのか入ってくるのかわからない。
そしていまだにわかっていない。ただ、そこに渦があるという事実を当然のように受け止めているだけだ。
口内炎は自分の中で何かが欠けたから生じたのか。それとも何かが多すぎたから顔を出したのか。
出ていくのか、入ってくるのか、足りないのか、多すぎなのか、ちんぷんかんぷんである。
好物のチョコレートなのに痛みになるという不思議が、謎をますます深めるばかりだ。
しかし、おそらくこの先も、口内炎と渦がどうしてできるかは謎のままにしておくのだろう。調べればすぐわかるけれど、わからないほうが面白いと思うこともあるのだ。
さて、今宵はここらで風呂を出よう。
猫が湯ざめをする前に。
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