ブラームスの雨が降る
世の猫は雨が嫌いだろうが、深水の脳内に住む私は例外である。
深水は子どもの頃、雨に打たれるのが好きだった。
小学校からの帰り道には、わざと傘をささずに濡れて帰ったものだ。肌にあたる雨の感触を楽しんでいるうち、髪の奥まで雨水が入り込んで地肌を伝ってくる。体温でぬくもった雨水が頭皮を滑る感触はぞくりとして気持ち悪いのに面白かった。深水の前世は蛙かもしれない。
そして、雨のときしか見れない光景が心を震わせた。
葉の上で輝く雫は宝石のようだった。なんの変哲もない空き地からは、誘われるようにカタツムリが這い出てきて、一気に魅力的なスポットに変わる。いつも遊んでいた川を橋から見下ろしては、普段の穏やかな流れと打って変わって荒ぶる川面に自然の畏怖を垣間見た。時々、立ち止まっては目を凝らして天から降る雨粒を見上げると、なんと不思議な現象だろうと感嘆したものだ。
さらに、雨に濡れると開放感があった。
傘をさして靴も汚さずに帰ったほうが利口な子どもといえる。しかし、あえて頭の先からつま先までずぶ濡れになり、わざと水たまりを歩いて帰る。『雨には傘をさすものだ』という常識の束縛から解き放たれる快感を味わっていたのである。
おそらく、その頃から意味を見出せない校則やしきたりに疑問を抱えていたせいだと思う。自分で納得しない限り、従いたくない。けれど大人たちはただ従うように仕向けるばかりだ。そういった不条理や窮屈さから解き放たれたい衝動が、わざと雨に濡れるという行動にあらわれた気がする。
ずぶ濡れになって帰るたび、母は文句を一切口にせず、ただ「おかえり」と言った。雨に打たれた深水の顔が、よほど晴れやかだったのかもしれない。
ところが、自分でも気づかないうちに、いつしか雨は厄介者になった。
雨に濡れれば化粧もとれる。服が湿って気持ち悪い。そんなことが優先され、雨に打たれる開放感など忘れ去られていた。雨に濡れるたび、顔つきまで湿っぽくなっていた。
しかし、どんなに雨が嫌いになっても、雨の曲は好きなままだった。
童謡『雨』は母の子守唄だった。『雨に唄えば』『雨にぬれても』にうっとりし、ショパンの『雨だれ』やブラームスのヴァイオリンソナタ第1番『雨の歌』を好んで聴いた。桑田佳祐の曲で一番好きなのは雨が出てくる『東京』で、マドンナを好きになったきっかけは『Rain』という曲だった。
そんな曲たちは、雨を厭うようになってしまった深水に「雨はいいものだと忘れないで」と、念を注ぎ続けてくれた気がする。
雨の気持ちが沁みいり、奥底から溢れたのだろうか。彼女はかつて雨が好きだったことを思い出した。
雨に濡れた世界は色を変え、空気を変え、匂いを変え、そして心を変える。心が変われば、人も変わり、生き様も変わる。
心が乾いてくると、深水は雨を心に浴びる。ゆっくりと瞬きしながら、雨の曲が降るのを待つ。子どもに戻ったような、それでいて大人になった顔で、雨が心に沁みていくのを見届けるのだ。
あぁ、ブラームスの『雨の歌』が響いてきた。
さて、今宵はここらで風呂を出よう。
猫が湯ざめをする前に。
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