井の中から出た蛙
活動範囲の限られた子どもの世界は小さいかもしれないが、それゆえに世界は広い。小さなものが大きく見え、境界線の向こうは果てしなくロマンに溢れている。
深水の義理の甥は小学生である。ここでは仮に『恭輔』と呼んでおこう。
恭輔が小学校低学年の頃、クラスの女の子とデートをしたらしいと聞きつけ、夫がからかい半分で「どこに行ってきたの?」とたずねた。すると、彼は照れながらこう答えた。
「海に行って、チューしたんだ」
恭輔が住んでいるのは群馬県館林市である。海なし県である。夫はチューしたことよりも海まで出かけたことに驚いた。ところが、よくよく聞いてみると、彼が『海』だと思っていたのは『沼』だったのである。館林市には
大きい沼が海に見えたのか、『海』の定義を間違えて覚えたのかはわからないが、それから数年もたつと自分の間違いに気づいた甥はその話が出るたびに照れくさそうにしている。チューに照れているのか、沼を海と言ったことを恥じているのかはわからないが。
深水が小学生の頃、決められた帰宅路ではない道を帰るのは校則違反だった。
しかし、彼女はたった一度だけ、友人と帰宅路から外れたバイパス沿いの近道を通って帰ったことがある。そばを走り抜ける車から見えないようにランドセルで顔を隠しながら歩いて行ったのだ。
それは子どもの深水にとって大きな冒険だった。そしてあれだけ顔を隠したのだから、誰にもバレないだろうと思いつつ、罪悪感とスリルで心臓がドキドキした。
ところが、その日の夜、帰って来た父に「お前、今日バイパスを歩いていただろ。ダメだよ、ちゃんと帰宅路から帰らないと」と叱られたのだ。
深水は心底驚いた。誰にもバレないと思っていたのに、他ならぬ父親にその日のうちにバレるとは。
父がバイパスを走っていたのは偶然にしても、普段は小学生など通らない道をランドセルでわざわざ顔を隠しながら歩いていれば、怪しさ満点である。それが自分の娘であるなら、服や背格好からすぐにわかるのも道理だ。
大人からどう見えているのか、子どもにはわからない。
その代わり、子どもの目の付け所を大人たちはいつしか忘れてしまう。「あぁ、そこを見ていたのか」「そういう風にとらえるのか」と、深水も育児中にハッとすることが多々ある。
子どもと大人、それぞれの視点はあれど、井の中の蛙かどうかは決して年齢では括れない。
井の中から出た蛙は何を恥じ、何に感嘆し、何を目指していくのだろう。
さて、今宵はここらで風呂を出よう。
猫が湯ざめをする前に。
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