2章 第3話 三日月のうた

 夏休みももうすぐ終わる。

 この一か月ほどの間、孝太は頻繁に我が家に来ていた。

 孝太が踏んだネコが復活するころには、ふたりはまるで兄妹のように仲良くなっていて、風花はそれまで見向きもしなかったヒーロー番組を見るようになった。

「へんっしん!」

 孝太が作った段ボールのベルトを巻かせてもらい、風花がアクションをする。

「きたな、仮面ライダー! きょうがおまえのサイゴだ!」

 孝太は進んで敵役をする。

 ベルトと一緒に作ってきた被り物をかぶって、ライダー風花の前に立ちはだかる。運動神経のいい孝太が演じる敵はとても格好いい。風花のパンチやキックに合わせて派手に倒れてくれて、僕もなんだかショーを見ているみたいで楽しくなる。

「オレ、大きくなったら、スーツアクターになるんだ」

「スーツアクター?」

「仮面ライダーとか、ウルトラマンとか、ああいうのの中に入るひとだよ」

 おやつを食べながら、思い出したように言った孝太に驚いた。

「よく知ってるね」

「うん。オレ、しらべたんだ。あれだったら、オレもヒーローになれるだろ?」

「そうか。孝太くんはライダーやウルトラマンになりたいのか」

「うん。でも悪役でもいい。悪役には、悪役のジジョーっていうのがあるんだ。悲しかったり苦しかったりするんだ。そういうのもヒーローだよ」

 今度は声も出なかった。

 子どもというのは、ときどき大人の心をグラグラ揺さぶるようなことを、さらりと言ってのけたりする。

 どこかのテレビ番組の受け売りかもしれないけれど、たとえそれでも孝太なりの納得があって話してくれている言葉には、僕の中に強く響く力があった。

「すごいこと、言うなぁ」

 呟きは聞こえなかったろう。

「ふーちゃんもコータくんとヒーローやりたい!」

 菓子くずを口の周りにつけたまま風花が言いだし、そのままいつもの大騒ぎが始まって、ごちそうさまは走り出しながら。僕は苦笑しながらもふたりを眺め、頼もしく見える孝太の背中を目で追った。

 そんな日の帰りだった。

 いつものように風花とふたり、孝太を家まで送ったら、カギを開ける前にドアが開いた。

 びっくりしているらしい孝太越しに厳しい顔をした男性が立っているのが見える。

「パパ……」

「入りなさい」

 玄関に立ってこちらを向いたままの男性の脇をすり抜けて、孝太は急いで中へ姿を消す。風花が僕の後ろに隠れた。

 静かな会釈のあと、男性は笑むことなく僕に言った。

「小暮さんですね。孝太がいつもお世話になっているようで。お時間がありましたら、お茶でも飲んでいかれませんか。お子さんは孝太の部屋で一緒に遊んで待っていてくださればいい」

 あまり抑揚のない声だった。

「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて少しだけ」

 風花の頭を撫でながら返事をすると、前に立つひとのフレームレスの眼鏡がぽかりと夕日を反射するのが見えた。




 通された和室。

 床の間を背にした位置、勧められるままに座布団に座る。

 すぐに谷口さんは襖の向こうに消え、やがて盆にグラスをふたつ乗せてきた。

「どうぞ」

 氷がカラリと音を立てる。

 ダンダンと二階から大きな音がして風花の笑い声がした。

 いただきますとグラスに伸ばした手が思わず止まる。

「すみません。大騒ぎしてしまいまして」

「いえ。今日はうちのもいませんし」

「……は?」

 聞き返したのは僕にとって自然なことだったけれど、麦茶をひとくち飲んだ彼は一瞬怪訝な顔をしてから小さく頷いた。

「ああ、小暮さんのお宅は気にしなくてもいいんですね。妻は孝太が騒ぐのをとても嫌がりますから。私も家では、静かに過ごしたいですしね」

 何かを思い出したように、眉間にかすかな皺が寄る。

 大騒ぎしてすみませんと自分で謝っておきながら、谷口さんが子どもが騒ぐのを本当に嫌がっていることに、よくわからない寒さを感じた。

 どこにでもある話だ。

 僕だって風花があまりに騒ぐときには注意するのだし……。

 けれど、僕はまるで自分が叱られているような気持ちになってしまって、二の句が継げずに麦茶に逃げた。

 僕が一軒家を買った理由のひとつには、子どもが騒いでもある程度までは止めなくていいからというのもあった。たぶん自分が小さかった頃の反動だろうと思う。

 静かにしていて。いい子にしていて。

 いつも両親はそう僕に言った。

 もともとはしゃぐタイプの子どもではなかったから、それを実行するのにさして苦労はしなかったけれど、僕はそうするたびに自分が他の子どもとは違っていくような気がして嫌だった。

 大人はみんな僕をほめたけれど、少しもうれしくなかった。

 大騒ぎして叱られている友達を見ながら、それがなぜだかうらやましかった。

 いいんですよ。子どもは騒ぐものですから。

 そんなふうに誰かが言ってくれることを心のどこかで待っていたけれど、とうとうそんな人は少年時代の僕の前には現れなかった。

「早く成長してほしいものですよ」

 呟きは硬い声だった。

 どこか、若いときの僕の父親と、孝太の父親とが重なる。

 仕事をしている背中を見る方が多い父だった。

 僕の中の寂しい子どもが顔を出す。

 谷口さんがそっと眼鏡を押し上げて、静かにこちらを向いた。

「妻が先日、失礼なお電話を差し上げたようで……そのことについてはお詫びいたします。ただ、単刀直入に言わせていただければ、もう孝太のことは放っておいてほしいと思っています」

「……は?」

「うちにはうちのやり方があります。その妨げをしないでいただきたい」

 何を言われているのかわからない。耳に入る言葉が理解できなかった。

「妨げ……ですか」

 ダンダンと二階で音がする。

 笑う声がする。

「孝太はもう赤ん坊ではありません。家族の一員としての責任や役目を果たしていくべきですし、いつまでも親に甘えているものではないでしょう」

「……でも、孝太くんはまだ幼稚園児ですよ」

「来年には小学生になります」

「小学生……ですか」

 彼の言葉を口の中で繰り返す。孝太の冷えた目が浮かぶ。

 ひまわり祭りからの、孝太の姿が浮かぶ。

 ネコを踏んだ孝太の姿が浮かぶ……。

「谷口さんのおっしゃることもたしかにそうなのかもしれませんが、甘やかすことと、甘えさせることは違うのでは……」

「その判断は、各々の家庭によるものでしょう」

「……」

 遮るように放たれた声に、やってしまったと思った。

 怒らせてしまっては意味がない……。



 きらめく音がする。

 風花の笑う声と、孝太の笑う声。

 ダンダンと床を踏み鳴らす音。

 かけがえのない美しい音だと、僕には思える。

 孝太の父親を前に、しんと冷たく沈んだ和室でテーブルを挟み、麦茶のグラスのなかで寂しげに小さくなった氷に目を落としたまま、僕は言葉を探していた。

 別に彼に何かを説こうとしているわけではない。

 ただ、何かを伝えたかった。

 そうしてできることならば、もう二度とあの冷えた目を孝太にさせたくない。

 冷たくさめた目でものを見てほしくない。

 お節介だなんて、わかっている。

 僕にだって。じゅうぶん過ぎるほどに。



 谷口さんの口調はどこまでも静かだった。

「世間は厳しいものです。学校も立派な世間だ。そこへ出て困らないようにしてやるのが親というものだと私は思います」

 淡々と流れていく声。

 せめて罵倒でもされたなら、僕も勢いで言い返せるかもしれないが、言葉はのどに引っかかって出てこない。

 そっと含んだ麦茶が、ひどく苦かった。

「小暮さんのご家庭の事情は存じ上げています。それについてとやかく申し上げるつもりはありません。たしかに母親が不在という穴埋めは必要でしょう。しかしうちにはいらないものです。余計な甘やかしは必要ありません」

 瞬間。

 心の底からカッと何かが熱くのぼってきた。

 穴埋め? 余計な、甘やかし?

 何を言っている。このひとは。

 子供が必要としているものを、必要なときに与えることを、どうして甘やかしと言うのか。それは愛情と呼ぶものだ。足りない愛情があるのなら、それをねだる権利が子どもにないなんて、そんな悲しいことがあってたまるか。

 孝太は、寂しがっている。

 孝太から寂しさを拭い去ることが、余計な甘やかしだというのか。

 膝の上の拳におかしな力が入っている。震えてくるほどに握りこまれたそれは、まるで出てこない言葉の代わりのようだった。

 ……落ち着け。落ち着け。

 辛いのは孝太なんだから。

 大事なのは僕の気持ちじゃない。

 孝太の気持ちだ。

 ならば、僕はどうしたらいいんだろう。

 何を言ったらいいんだろう……。

 すがるように流した目に、ふと、飾られている花が入る。

 いつもお世話になっている、優しい優しい老夫婦の笑みを思い出す。

 子どものいない夫婦は、いつも風花の味方で。

 美しい庭をそだてながら、僕たち親子もはぐくんでくれている。

 気付かれないように深呼吸をした。

「……ある方が言っておられました。植物を育てるときは、水も肥料も剪定も、育てる側がしたいようにしたらいけないそうです。草花がしてほしいようにしてあげるのが手入れなのだそうです。求めていないことをしてやっても草花はうまく育たないけれど、逆に求めているものをちゃんと与えなければ育たない。僕は、育児もそういうものではないかと思っています」

 ふっと呆れたような笑みが眼鏡の向こうに浮かんだが、谷口さんは黙って麦茶を飲んだ。

「その……。手を繋いで欲しがっているなら、僕は繋いであげたいと思います。手を放してほしがっているときには、どんなに心配でも放してあげたいと思います。親が無理やり手を振り払うようなことをしたら、子どもは心に寂しさを抱え続けるだけなのではないでしょうか」

 やっと口にした言葉は、けれどもとても彼の心に届いているようには見えなかった。同じものを見ていてもひとは誰一人まったく同じように感じることなどできないのだから、いくら僕が語ったところでどうにもならないのかもしれない。

 ましてや、子育てに正解などない。

 もしかしたら、孝太に必要なのは谷口家のやり方なのかもしれない。

 僕は……間違っているんだろうか……。

「小暮さんのご両親はどうだったんですか? ……いや、プライベートなことをうかがって失礼だったらお許しください」

 ふと思いついたように、谷口さんが言って眼鏡を押し上げた。

「僕の、ですか?」

「ええ。あなたの経歴を小耳にはさみました。いまのご家庭の事情を考えても、よほど理解のあるご両親なのだろうと思います。そのような教育方針だったのですか?」

 言葉に詰まる。

 彼は何を聞きたいのだろう。他人の家庭に余計な口出しをする僕を、暗に両親を含めて非難しているのだろうか。

 わずかに残った麦茶を飲み干すことで、少しばかりの時間を作りながら、僕は心を決めた。自分が正しいのか間違っているのかなどわからないけれど、少なくともこの半年ほどの間、風花に教えてもらってきたことには間違いはないのだから。

「……答えになるかどうかわかりませんが……。大学時代の友人が言っていました。人間は人生のどこかで、存分に抱きしめられて撫でられて、全身で愛されるべきだと。受け入れてもらい、どんな自分でも好きでいてもらえるんだと確かめることができて、やっと人間はひとりで立てるようになるのだと。彼は、僕にはそういう時間が足りなかったのではないかと言いました。

 実際、両親はとても忙しい人たちで、僕は早くから自立を求められました。けれども僕自身もそれが正しいのだと思っていました。子どもというのは、親のすべてを受け入れて、たとえそれで悲しい思いをしても、それでも親を信じてしまうものではないかと思います。僕は、たぶんそういう子どもだったし、寂しいと言えない子どもだったと思います」

「……ご自分の心の問題を、孝太に重ねたわけですか」

「え?」

「そういうことではないのですか?」

 やはりわかってもらうことなどできないのだ、という気持ちと、どうしてわかってもらえないのだろう、という気持ちがせめぎ合う。

 言い方が悪かったのだろうか。じゃあ、どう言ったらいいんだ。

 空になったグラスが汗だけを残していて虚しい。

 孝太と風花の笑い声だけが真実のように思える。

「……孝太くんに自分を重ねたことなどありません。孝太くんは僕の子ども時代よりもずっと強くて賢いですから」

「……」

「お願いします。僕のことはともかく、風花と遊ぶことを許してあげてもらえませんか。せっかく友達になれたのに、大人の考えで引き離すのはかわいそうです。そうでなくとも、孝太くんが大きくなっていけば、そのうち風花では遊び相手にならなくなるでしょう。それまでのあいだでいいんです」

 お願いしますともう一度頭を下げると、

「……ずいぶんと、変わった方だ」

 谷口さんは小さく言った。

 そうしてもう一つ何かを言おうとして、そのまま口を噤む。

 沈黙が下りた。




 帰り道。

 風花は、はしゃいでいた。

 孝太の部屋にあったおもちゃのこと、ちょっとだけ読んでもらった絵本のこと。

 それはそれは楽しそうに、次々に話をする。

「コータくんじょうずに絵本よんでた!」

 興奮気味に、自分も文字を読めるようになりたいと言った。

「こんどはふーちゃんが、コータくんによんであげる」

 そうだねと微笑むと、僕を見上げていた風花が、あ!と声をあげた。

「パパ、つきだよ!」

 指さす方を見上げれば、薄青い空に白い月が見える。

 弓を描く月。

「三日月だね」

「パパしってる?」

「ん?」


 みかづき みかづき おそらでひかる

 みかづき みかづき まるくなくても

 みかづき みかづき かなしくないよ

 みかづき みかづき わらったおくち


 ぴょんぴょん跳ねながらうたう歌。

 そういえば幼稚園でそんな曲が流れていた。

 三日月のうた。

「ふーちゃん、このうたすき!」

「いい歌だね」

「うん!」

 何度も何度も繰り返して歌いながら、風花は楽しそうに跳ね続ける。

 月のウサギみたいだね。

 そう言ったら、風花の目がもっときらきら輝いた。

「ふーちゃん、うさぎさんもすき!」

 風花の歌を聞きながら、僕は三日月を見上げる。

 でも、僕には、その三日月は泣くのをこらえた口に見えた。

 悲しい、悲しい、三日月。

 僕は久しぶりにため息をついた。

 余計なことを言ってしまった。

 自分が正しいと思うことだって、それが他の家庭にとっても正しいというわけではないことくらい、よくわかっていたはずなのに。

 谷口さんが孝太が風花と遊ぶことを許してくれたことが救いだ。

「孝太には家のルールはちゃんと守らせます。そのうえでなら、孝太の好きにさせましょう。またお世話になりますが、よろしくお願いいたします」

 長い沈黙の後でそう言われたときは、心底安堵した。

「パパ、こんどコータくんきたら、いっしょにうたう!」

「……そうだね」

 その「今度」がどうか早くきますように。

 僕は青白い三日月に、心から祈った。

 

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空色エプロンたまご焼き 新樫 樹 @arakashi-itsuki

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