2章 第2話 ふたつの心

 朝、五時半に起きて、洗濯機を回しながら朝食を作る。

 幼稚園には給食があるから弁当はいらない。けれどまだ料理の手際の悪い僕は、一時間以上かけてやっと準備を終わる。風花が起きる時間は七時。幼稚園に出かけるのは八時半くらい。朝食を食べてから支度をするから、食後一時間ほどは時間が欲しい。風花のテンションを上げるのにも、それくらい時間がかかる。その間に洗濯物も干さなくてはならない。月・水・金ならゴミ出しもある。僕の朝の余裕の無さは変わらないけれど……。

 風花は変わってきた。

 幼稚園に行く準備も、全部ではないが自分でもするようになった。

 登園に対してとても前向きになってきたのがよくわかる。

 外へ逃走することもなくなった。

 元気に山村さんご夫婦に挨拶をして車に乗り込み、チャイルドシートによじ登る。

 もちろんいつもじゃない。

 まだ週に一度か二度、どうしても行けない日がある。

 けれど、僕はさほど気にしなくなった。

 子どもはいつだって、揺れながら成長するのだと気付いたからだ。いや、教えてもらった。風花に。

 従順と反抗。自立と依存。

 そして昨日できたことが今日はまったくできないこともある。

 その逆も。

 両極を行ったり来たりしながら、つづら折りの山道を行くように成長の坂をのぼっていく。

 何度も何度も立ち止まりながら。




 ひまわり祭りから数日後の夕方。一本の電話が来た。

 祥子が仕事でファックスを使う都合上、携帯のほかに家にも固定電話がある。

 鳴ったのは固定電話の方で、何かの勧誘か幼稚園の連絡網かどちらだろうと思いながら受話器を取った。祥子が単身赴任をしてからは、この電話に新聞社関係のところから電話が来ることはない。

『あなたが小暮さん? どうしてうちの子がオニなんですか!? おかしいじゃないですか!』

 はい、小暮です。そう出た途端に、えらい剣幕でまくしたてられた。

「え?」

 言葉が耳に入っているのに頭が理解しないというのを、僕はその電話で初めて経験した。

 何を言われているのかまったくわからない。

 そもそも、いったい誰だ。

『ひまわり祭りで、孝太だけオニをさせられたと聞きました! あなたが勝手に孝太をオニにしたんでしょう!? だいたい……』

 ひまわり祭りの、オニ……? ああ、スナイパーのことか?

 そう思い至って、孝太という名前と結びついた。あの子の、親か。

 とんでもなく感情的になっているのだけはわかった。非常識な電話だ、とも。

 孝太はたしか年長組で、連絡網のある同じ学年でもないのにこの番号がわかったのは、わざわざ僕の名前を聞いて電話帳か何かを調べたからだろう。そこまでして僕に抗議がしたかったのかと思うと、こみ上げてくる言葉をそのまま口にはできなかった。どうしてこのひとは、こんなに怒っているのだろう。

 受話器からのきつい声を聞きながら、僕はなにかしただろうかと、ひまわり祭りでの自分を振り返るけれど、これといって思い当たることはない。

 だとすると本当に、僕が孝太をスナイパーにしたことに対するクレームということになるのだろうか。

 孝太は楽しかったと言っていたはずだし、先生方からも何も言われなかった。

 あの場面でした自分の選択に、僕はどうしても非を見つけることができない。

「たしかに、誘ったのは僕ですが……でも、」

『あなた、孝太になにか恨みでもあるんですか!?』

 話を遮って言われた一言に、一瞬声も出ない。

「……は?」

 恨み? 何を言っているのだろう。

『あの子、ひまわり祭りから様子が変なんですよ。あなたが勝手なことをしたから! この件は、先生にもお話させてもらいますから!』

「あの……」

 電話は切られた。

 見知らぬひとにいきなり喧嘩をふっかけられたような気分だった。いや、実際そうだろう。

 なんだったんだ……。

 心臓が妙な具合に大きな音を立てている。

 ヒステリックな声色が耳に残っていて、胸の奥をざわざわとさせた。

 面倒なことにならなければいいが。

「パパ……」

 僕の電話の様子がおかしいと思ったのだろう。珍しく心配そうな顔で風花が僕の脚にくっついてくる。

「大丈夫だよ。なんでもない」

 幼稚園での風花には何事もないようにと祈りながら、そっと頭を撫でた。




 電話の一件は先生から何も言われないまま、夏休みが始まった。

 僕の方からはそのことに触れなかった。

 大事にならないならばそれに越したことはないし、もしもあの電話で孝太のお母さんの気が済んだのならそれでいい。

 たくさんの荷物と一緒に風花がご機嫌で帰ってきた終業式の日、僕は心底ほっとした。

 僕らにとって初めての夏休みは、とても穏やかに過ぎていった。

 先輩ママたちのアドバイスで、僕は風花と自分の起床時間と朝ご飯の時間だけは変えないように気を付けていた。

 いわく、一番大事なのは朝なのよ! なのだそうだ。寝る時間も大事だけれど、まずは朝の時間を崩さなければ、一か月の休みの後もわりあいと早く幼稚園生活に戻すことができるらしい。ようやく登園を嫌がらなくなりつつある風花には、大事なことだと思った。ありがたいアドバイスだ。言われなければあえて気を付けようとは思わなかったかもしれない。まぁ、休みなのだからと思う気持ちも湧いてくる。これまで頑張ったのだからと。

 こういうところは僕のよくない甘さなのかもしれない。 

「パパ、コータくんだよ!」

 その日の午後。

 少し早めに夕食の支度をしていたら、家の前で遊んでいた風花がドアを開けながら、ただいまも言わずに叫んだ。

「え?」

 コータくん? 誰だっけ?

 キッチンからエプロン姿のまま玄関に出ると、孝太が風花の隣に立っている。

「孝太くん!? きみ、どうしたの!?」

 思わず声を上げてしまった途端、それまで穏やかな親しみの色を浮かべていた彼の顔がしゅっと硬くなったのがわかって、はっとした。

 僕のぎょっとした気持ちが、声色に乗ったのに気付いたのだろうと思った。

 しっかりしろと、僕は心の中で自分の頬を叩いて気合を入れる。

 親はずいぶんと怒っていたけれど、ここにこうしている孝太にはまるでそんな気配はない。それどころか、歓迎してほしかったような色をにじませて突っ立っている。

「びっくりしたよ。近所だったの?」

「ふーちゃんあそんでたら、コータくんが歩いてきた」

 そうかぁと、にこりと孝太に笑いかけると、ひまわり祭りで見たむずむずしたような笑みが浮かんだ。

 遊んでいく?

 言おうとして、ふと時計を見る。

 保護者の間の暗黙の了解で、友達の家で遊ぶときは四時には帰宅することになっていて、それは夏休み中も守られている。とくに孝太の家の場合は、そういうことには気を付けた方がいいだろうと思った。あの電話の調子がいつもの様子だとすると、かなり面倒な親と言ってもいいだろう。

 針は三時半を指していた。

 いまから遊ぶには半端で、乗ってきたころには帰さなくてはならない。今日のところはこのまま戻した方が。

「家はどの辺りなの? 送っていくよ」

「……どんぐり公園のとなり」

 すぐ近くの小さな公園の名を言って、少し俯く。

「でも……でも、オレんち、きょうは六時までだれもいない」

「え?」

「しごとだから」

 孝太の目にすっかり冷え切ったものが見えて、僕はあのひまわり祭りで初めてこの目を見つめたときを思い出した。

 寂しい、と、小さな声がしたような気がした。

 いまこのまま帰したら、孝太はどうやって一人きりの時間を潰すのだろう。

 ゲームでもするのだろうか。

 孝太の目の中の冷たいものが、僕の心に手を伸ばしてきたような感じがした。

 その冷たい小さな手を、温めたくなってしまった。

「家の鍵は閉めてきた?」

「……うん」

「そうか、偉いな。なら、時間になったら送っていくから、それまでうちで遊んでいくか?」

「うん!」

 孝太の返事に迷いはなかった。

 まるで外で風花の姿を見たときからそう決めていたように。

 風花の顔も輝いた。

 夏休みの間はどうしても一人遊びの時間が増える。同じ年頃の子どもの友達はご近所ではまだ会ったことがなくて、ここ数日は山村さんの庭で遊ばせてもらっていた。それも楽しそうではあるけれど、やっぱり同世代の子どもと遊ぶのにはかなわない。たまに明日香ちゃんと遊ばせてもらうと、風花はとてもいきいきする。

「風花、家の中で遊ぼうか。孝太くんと一緒に手を洗っておいで。おやつにしよう」

 こっちだよ。

 さして広くもない家の中、洗面所の場所などすぐにわかってしまうのだけれど、風花は得意そうに孝太の手を引く。孝太も神妙な顔をして風花に手を引かれている。

 微笑ましい二人の姿を見送って、麦茶とクッキーを用意した。

「わ、すげ!」

 リビングに入ってきた孝太が、声を上げた。

 なんだろうと思って目線を辿ると、そこにはずらりと例のネコが並んでいる。

「ふーちゃん、つくったんだよ」

 これ、りぼんちゃん。こっちは……。

 端から順に名前を教える風花の指先を、孝太は黙って追っている。

 二十匹のネコたちは飽きられる気配もなく、いまや我が家の家族の一員になってしまっていた。

 掃除機をかけるときのストレスはかなりのものだけれど、毎日大事に世話を続ける風花の姿を見たら、こっそり捨てるなんていうこともできない。

 僕には小さな悩みの種のネコたち。

 見ている孝太は楽しそうだ。

 それまで黙って風花の言うことを聞いていた孝太がふと口を開いた。

「……オレも年少のとき作った」

「いっぱい、つくった?」

「ううん。二つくらい」

「なにいろ?」

「黒いの」

「くろ?」

「黒いネコは、まほうつかいのペットなんだって。すげぇだろ」

「すげぇ!」

 孝太の真似をして風花が言って笑った。

 風花の丸い笑顔を見て、孝太も少し笑った。

「まじょのたっきゅうびん、見たことあるか?」

「ない」

「ジジっていう黒いネコが出てくんだよ。あれ、オレ好きなんだ」

「ネコかってる?」

「かいたいけど、うちダメなんだってさ」

「ふーん」

「ネコ好きなのか?」

「うん。ふーちゃん、ネコ大好き!」

「かわねぇの?」

「かうよ! だからいま、れんしゅうしてるんだよ」

「すげぇな。なんびきいるんだよ」

「にじゅうだよ!」

 すげぇ。孝太はもう一度言いながら、そっとネコのひとつをなでた。

「コータくんのネコ、つれてくる?」

 いいこと思いついたという声色で風花が言った。

 声が途切れた。

 しんと静まり返った、そのあと。

 一瞬だった。

 次の瞬間、風花がまるで怪獣の赤ちゃんみたいな声を上げ、青ざめた孝太がそこにいた。

 そっとなでていたはずのネコが、ぺしゃんこに潰れている。

 孝太が踏んだのだと、すぐにわかった。

 あんなに優しい指でなでていたのに。

 孝太の握りこんだ手は震えているように見えた。

 僕は……僕はどう声をかけたらいいのかわからない。

 風花の泣き声だけがリビングいっぱいに響いて、孝太も身動き一つできないでいる。青い顔はかたくこわばっていた……。



 大人の僕の中には、いまでも小さな子どもがいる。

 寂しさを消化できずに残ってしまったものが、大人になったいまでも小さな子どもになって僕のなかにいる。

 気付かされたのは大学生のときだった。

 一人暮らしが始まって、学校に関する様々なことを自分でスケジュールをたてる。選択をする。そういう、半分だけ大人のような生活が始まってしばらくしてから、僕はおかしな感覚に気付いた。

 僕の中にもうひとりの僕がいて、小さな子どものように怖い怖いと言い出して、冷静な感情をぐらぐらと揺さぶってくる。

 まわりのすべてが僕のことなどどうでもいいと思っているような気がして、取り巻くものが急に恐ろしくなる。

 いつもではないけれど、何かにぶつかったときや悩んだとき、僕はそんな自分のもう一つの心に悩まされた。

 ストレスか何かでおかしくなったのだろうか。そう思い始めたときだった。

「……お前ってさ、ちっさいとき親にぐっちゃぐっちゃにされたことある?」

「は?」

「ほら、こっちはやめろって言ってんのにさ、ぎゅうぎゅう抱きしめてきたりとか、ぐしゃぐしゃなでてきたりとか。そういうの。ああ、それとか、親をぐっちゃぐっちゃにすんのも」

 騒がしい昼時のカフェテリアで、突然言ってきたのは風変わりな友人だった。

 俺は世界一のガッコのセンセーになる、と本気だか冗談だかわからないようなことを言っている教育学部の同学年。経済学部の僕は彼とはサークルで出会った。

 ときどきわけのわからないことを突然ふってくるから、たいていのひとは彼を避けていたけれど、僕はなんとなく彼のことを気に入っていた。

「さぁ。どうだろう。うちは両親とも忙しかったし、早くから大人と同じ扱いをされていたからなぁ」

 言われて記憶をざっと探るけれど、親との記憶よりもひとりの記憶の方が多かった。放任主義、というやつだろうか。それでも、仕事をしている両親の姿は尊敬できるし、ひとりでいることにも早くから慣れていたような気がするけれど。

 ふーん。

 聞いておいて気のない返事をするのも彼の得意技で、僕はさほど気にも留めずにカレーを食べていた。

「なぁ、こんど抱きしめてやるよ」

 ぶっと吹きそうになったカレーを飲み込んで、水の入ったコップを掴む。

「……なんだよ、それ」

「愛情表現」

「いらないよ。そんなの」

 いったいなにを言い出すのやら。ふふっとこみ上げてきたままに微笑むと、彼は意外にも真剣な顔をしていた。

「誰もいないとこだったら、いいだろ」

「だから、なんだよ。それ」

 自分の前にあるカレーの皿をつつきながら彼は、うーんと妙な声を上げる。

 どきっとした。

 言いたいことをまとめるときの癖だ。

 僕は、その変な声のあとに出てくる言葉が好きだった。

 この奇妙な友人は、まるでどこかの槍の名手のように核心を突きさすことがあるからだ。だいたいの場合それは相手を怒らせてしまって、少なからず僕はフォローをすることになるのだけれど、心の中ではいつも彼に喝采を送っていた。

 まさか自分相手に槍が繰り出される日が来るとは思わなかったけれど……。

「ええとさ………。人間ってさ、人生のどっかで、ぐっちゃぐっちゃに抱きしめられてなでられて……そうやって全身で、お前が好きだって言われなきゃいけねぇんだと思うんだよなぁ。子どものときにそういうのを親からしてもらえたら、一番いいんだろうけど……そうでなくても、デカくなってからだって遅くねぇし、相手が誰でもいいと俺は思う。んでさ、相手にすっげぇわがまま言って、受け入れてもらって、どんな自分でも好きでいてもらえるんだって、確かめなきゃなんない。それができて、やっと人間はひとりで立てるようになるんじゃねぇのかな」

 だから、俺がその相手になってやるよ。

 だってお前、自分じゃ気付いてないみたいだけどさ、ときどき、ちっこい子どもが泣いてるみたいに見えるときがあるからさ。



 ひどい泣き声がする。

 心の中の子どもが泣いている。

 目の前で泣いているのは風花だけなのに、僕には孝太も泣いているように見えた。寂しい寂しいと。

 孝太も、ぐちゃぐちゃに抱きしめられずにいた子どもだろうか。

 親を、ぐちゃぐちゃにしなかった、良い子だったのだろうか。

 風花が泣いている。

 大事なネコを潰されて。友達になったと思った子に潰されて……。

 胸が苦しかった。

 きっと。

 きっと二匹の黒猫は、もういないのだろう。

 とうの昔に捨てられたのだろう。

 そのとき。孝太は、泣けただろうか。

 風花のように、泣けたのだろうか……。

「大丈夫だ。パパ病院で直してあげるよ」

 そっとふたりに近づいて両方の頭をなでた。

 孝太がぴくりと強張る。

「なおるの?」

 ひくっとしゃくりあげながら風花がたずねた。

「しばらく入院すればね」

 潰れたネコを隣の部屋に持って行って、風花からは見えないところに置く。

「さ、おやつにしよう」

 戻って来てそう言うと、孝太は目を見開いた。

「まずはクールダウンしよう」

 風花はずずっと鼻をすすって腕で顔を拭う。

「クッキー!」

 ネコさえ直ればそれでいいというふうに、まっしぐらにテーブルにつく風花を、孝太はそっと目で追っていた。

「孝太くんもまずは食べよう」

 微笑んだ僕の顔を、小さな瞳がじっと見つめる。

 確かめるように見つめている。

 僕はあの友人のように、なれるだろうか。

 誰にも言えずに抱えていたふたつの心を、そっとひとつに結んでくれた、世界一のガッコのセンセーのタマゴ。彼のように……。

「おいで」

 何も言わずに孝太はテーブルに来て、そのまま黙々とクッキーを食べて麦茶を飲んだ。

「美味しかった?」

 頷く頭は小さい。

 一緒に砂まみれになった、ひまわり祭りでのことを思い出す。

 あれから彼はおかしいのだと母親は言っていた。

 あのとき。

 僕が孝太を抱きしめて、ゲンコツを重ねたことが、なにか変化を与えることになったのだろうか。

 そんな単純なもんじゃねぇよと、遠い記憶の中の友人に笑われるかな。

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな声だった。

「ネコ……ごめんなさい」

 はっと胸をつかれて言葉が出ない間に、風花の明るい声がした。

「いいよ! なおるから、いいよ! あと、ごめんっていったらもういいんだよ! ね、パパ!」

「そうだね」

 戸惑う孝太をよそに、風花はすっかり元気になって孝太と遊んだ。

 祥子によく似てきたなぁと感じる瞬間だ。

 強さなのか、単に幼さのせいなのかは、まだわからない。



「心の傷ってさ、癒せ治せっていうけどさ、俺は傷のままでもいい傷もあるって思う。だいたい、心に傷のひとつもないようなやつを、俺は信じないしな」

「……そうかもしれないな」

「俺は、お前の抱えてるもん、大事にしたほうがいいと思う。苦しいかもしれないけど。でも、そしたらお前なら、世界一になれるんじゃねぇかな」

「なんの?」

「父親」

 僕は、ふはって笑ったけれど、やっぱり彼は真剣な顔のままだった。

「学校の先生なんかやめて、カウンセラーにでもなればいいのに。きっといい先生になれるよ」

「馬鹿だな。そんなもんクソの役にも立つか。ほんとに苦しんでるやつは、カウンセラーになんか何も言えねぇんだよ。だから、俺がなりたいのは、世界一のガッコのセンセーだ」

 そのときの笑顔を、僕はよく覚えている。

 お日様のような笑顔って言うけれど、まさにそんなふうだった。

 こんな笑顔を向けられた子どもは幸せだろう。そう思った。

 どうしているだろう。

 いまでも、世界一の学校の先生を目指して頑張っているのだろうか。

 会ってみたいと、思った。

 僕は父親にはなったけれど、世界一など程遠い。

 けれど、僕は自分の中の小さな子どもを知っていて、うずくまるその子どもをなでてやれる自分も持っている。

 そんな僕の心は、風花ととも過ごす中で少しずつ新しく耕されているような感じがしている。

 僕の中の子どもが、ただ寂しいだけの子どもじゃなくなって、誰かの心の傷に気付くためのセンサーに変わってきているような気がする。誰かの傷を一緒に痛がることのできるセンサーに。

 知らずに受けた傷。知らずに与えている傷。

 それをなくすることなどできないけれど。

 それでも、ひとの苦しみは、苦しいだけでは終わらないのだと、僕はなんとなくわかってきている。

「愛情不足なんか、あとからいくらでも足していけんだよ。ほら、こうやって」

 不意うちで抱きしめてきた厳つい腕は、意外にも温かくて優しかった。

 あのとき、不覚にも目に涙が溜まってしまったことは永遠に秘密だ。




「またあそぼうね!」

「……うん」

「ぜったい、あそぼうね!」

「うん……」

「ほんとに、ほんとだよ!」

「うん」

 僕と風花で孝太を家まで送る道中、前を歩くふたりは手を繋いでいて、そんな短い会話がずっと続いていた。

 何度も、何度も。

 寂しかったら、寂しいって言っていいんだよ。悲しかったら、悲しいって泣いていいんだよ。

 本当はそう言いたかったけれど、言う代わりに孝太をきゅっと抱きしめた。

「いつでもおいで」

「うん」

 孝太は器用にカギを開けて、そのまますらりと家の中に消えた。

「すっごーい!」

 急に、風花が目をきらきらさせる。

「うん?」

「コータくん、カギあけた!」

「ああ、そうか。風花も開けてみるか?」

 途端にぱぁっと輝いた小さな丸い顔。

 ポケットから出したキーホルダーを渡すと、きゃぁっと声を上げて子犬のように走りだす。

 のんびりと後を歩きながら仰いだ空は、夏のむせかえるような匂いであふれている。大きく息を吸い込みながら僕は、さて潰れたネコをどんなふうに直そうかなと、久々に職人魂が燃えるのを感じていた。

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