第2話 偽善は善
「えー、このクラスから二名、ボランティアに参加してもらうことになった」
朝のホームルームが始まると、担任は開口一番にそう言った。
「はい! 俺がやります!」
「私もやりたいです!」
「俺はもうポイント結構あるしいいや」
「俺やっとこうかなぁ、なんかランク下がりそうなんだよな」
クラスメイト達は口々に話しだし、早速ボランティアに立候補している者も何人もいた。まだ何のボランティアかも説明されていないというのにだ。
ボランティアの内容などどうでもいいのだろう。誰の助けになろうと構わないのだ。
生徒達に興味があるのは、それがどれくらいのポイントになって、そのポイントはどれくらい労力に見合っているかだけだ。
ふと横を見ると翔子も手を挙げていた。まだランクを上げ足りないらしい。
「あんたも挙げなよ雄一」
翔子は俺にそう声をかけてきた。
「やらねえよボランティアなんて」
「ほんと馬鹿だね。やる必要なんてないの。手を挙げて『人助けするつもりです』っていう姿勢を見せるだけでもポイント入ることあるんだよ?」
「……神の目は節穴だな」
「あんたよく神様の悪口言えるね。私には恐れ多いわ」
「ようは心の中でどう思ってようが関係ないってことだろ?」
分かり切っていたことだった。
もし本当の意味で善意の心から人を助けたいと思うことが善だとするならば、人を助けたいと思っておらず、助ける気すらないまま、善行をする意思があるフリをするだけなのは偽善だろう。
だが神はその偽善にもポイントを与えている。心の内など斟酌することなく、誰にも平等にだ。
――偽善は善。
この結果から、八年前に結論とされた答えだ。少なくとも、神はそう定めたのだ。
「あのね、私みたいに常日頃から誰かの役に立つのは確かに面倒だよ。なら、こういうところでちょろちょろポイント稼いどくんだって。もったいないよ、こういうところで稼がないの」
「……」
「いいの? FランクだよFランク。あんた地獄に落ちるよ?」
翔子に言いくるめられるような形で、俺は仕方なく右手を挙げた。全部で一八人が立候補した。こういう場合はジャンケンかくじ引きで決めることになっている。
まあ当たる確率は九分の一。九分の八の確率で一ポイントでも貰えるのなら、確かに割のいい賭けかもしれない。
「……」
当たってしまった。ふざけんな。
「ツいてるねぇ雄一」
「黙れ。何がフリだけでいい、だ。騙しやがったな」
「ちょっとやめてくれる? そういうの冗談でも言わないで。悪いことしたって神様に思われたらどうしてくれんのよ」
「うるせえ。お前が二○○○ポイントも善行を重ねたなんて信じられるか。次の夢審査で直訴してやる」
「何が不満なのよ。Fランクから這い上がるチャンスじゃん。しかもプール掃除。楽勝じゃん」
そう、夏に向けてそろそろ学校のプール開きをするということで、プールの掃除がボランティアの内容だった。俺のクラスからは俺と翔子の二人に決まった。
他のクラスからも何名か来るらしいが、集まっても一○人程度だろう。
二五メートルプールを掃除するのに何時間かかるか分かったもんじゃない。
「くそ、こうなったら」
「ドタキャンだけはやめた方がいいよ。言い訳できない悪行だよ」
「たかだか数ポイントだろ。いるかよ」
「あんたその数ポイント稼ぐのがどんだけ大変か! 私が二○○○ポイント貯めるのに何年かかったと……!」
「わかったわかった。やるよやればいいんだろ」
プール掃除は明日だ。もし明日中に終わらなければ明後日も予備日にされている。
こんな面倒なことで二日も時間を取られてたまるか。明日の内にさっさと終わらせてやる。
その日の授業はつつがなく消化されていった。
迎えた六眼目の授業は倫理だった。俺は欠伸を噛み殺しながら適当にノートを取っていた。
「――はい、とりあえずここまでが中間テストの範囲だ。しっかり勉強するように」
倫理の教師は板書を終え、腕時計に視線を落とした。
「半端に時間が余っちまったな。なんか雑談でもするか」
ノリのいいことで人気のその教師が冗談半分でそう言うと、クラスに軽い笑いが起こった。
「あー、そうだなぁ。――あ、そうそう。お前らも知っての通り、いま倫理の授業ってのが滅茶苦茶やりにくくなっててな。教科書も根本的に見直されることになりそうだ」
俺もその話は聞いていた。倫理の授業、というよりも、宗教関連の話が今ややこしくなっているらしい。
「まあ仕方ないよな。今までいろんな宗教があっていろんな神様を信じてたけど、いきなり本物の神様が現れちまったわけだしな。八年前から今まで宗教関連はずっと揉めてて、未だに全然落ち着きそうにない」
「えーじゃあさあ、やっぱ受験とかに影響するんすか?」
「かもなー。もし神様ってのが夢に出てくるあの人だけしかいないなら、今まで信じられてきた宗教の考え方って全部間違いってわけだろ? 間違った知識や事実を生徒に教えていいのか、ってずっと言われてきてるな」
「じゃあ宗教ってもうすぐなくなるんすか?」
「それは分からん。でもなぁ、宗教ってのはつまり考え方の話で、事実かどうかってのは俺はそこまで重要じゃないと思うんだけどな。だからごちゃごちゃ言ってる連中はちょっと気にし過ぎだろって思うわ。なんでそんなことで教科書や授業範囲を変更されなきゃならんのだ」
そこでまた笑いが起こった。
実際に、未だに夢に出てくるあの女性は神ではない、と断言する宗派も多く存在する。
この辺は本当にデリケートな部分なのだろう。もともと無宗教の俺には何ら関係のない話だ。
「神様が初めて現れたのが八年前だから……そうか、お前らまだ一○歳にもなってなかったのか。そんくらい若けりゃ案外すんなり神様も信じられたのか? 俺なんて二十歳過ぎだったから、そりゃあもう戸惑ったぞ。いきなり『どうもどうも、神でーす』つって夢にえらい美人が現れたときは、俺はどんだけ欲求不満なんだと思ったね」
クラスが爆笑に包まれた。女子生徒も「やだー」と言いながらもクスクス笑っていた。
「でもあの神様マジで美人だよな」
「うぇーい、お前年上好みなのかよ」
「は? ち、ちげえよ俺の好みじゃねえよあんなの!」
からかわれた男子生徒がそう言うと、一瞬の空白の後、クラス中の男子が騒ぎだした。
「あちゃー、お前今のは大減点だな」
「なっ!」
「終わったなお前」
「神様に向かって『あんなの』はねえわ」
「違うって! そういう意味じゃねえって!」
次々と茶化される男子生徒はしどろもどろになりながら慌てて訂正する。
周りの生徒は面白がって更にその男子生徒をはやし立て、教室が賑やかな笑い声に包まれる。
「今度デートに誘ってみればいいんじゃね? 好みの男のタイプ訊いといてやるよ」
「いらねえよそんなもん。てかあの人こっちの質問には全然答えてくれねえじゃん」
「あーそれは確かにな」
「今までいろんな人がいろんな質問してきたらしいけど、全然答えてくれないらしいな」
教師が興味深そうに話しだした。
「死後の世界のこととか、天国ってどういうところなのかとか、まだほとんど明かされてないらしい。教えちゃいけない決まりなのかもしれんけど、こっちからすると気になるよな」
「ね。ちょっとくらい教えてくれてもいいですよね」
「――自信がないんじゃねえの?」
俺がそう呟くと、ぴた、と教室の喧騒が止む。周りの生徒が俺の方を向いて、怪訝な表情を浮かべた。
「自信がない、ってどういう意味だ平野」
目を丸くしていた教師が仕切りなおすように訪ねてきた。
「あいつも、自分の審査が絶対に正しいかどうかなんて自信もってねえんじゃねえすか? 全部嘘っぱちかもしれねえ。天国での待遇だの、善悪の基準だの、適当に作ってんのかも。だから言えないんじゃないっすかね」
俺の言葉に、皆は押し黙った。反論できない、という風ではない。ただ単に、自分も同じ意見だと思われたくないから目線を逸らしているように見える。
当然、この会話も偉大なる神様には筒抜けなのだろう。みんな神を恐れて、誰も俺に同意しようとはしなかった。
「あー、平野……でもな、俺達が今生きてる社会だって、絶対に正しい基準なんてものはない。単にそういう決まりになってるだけだ」
「皆で決めたルールです。だから皆で守る。皆で納得して、支持する。でも人間レベルは誰が定めたんですか? あいつが勝手に決めたルールじゃないですか。それが正しいのかなんて誰にも分からない。そもそも、その基準すら話そうとしない。……納得できるか」
「平野、仮にも神様をあいつ呼ばわりはよくないぞ? うん。――おっともうこんな時間じゃないか。よし、今日の授業はここまで。日直」
急いで話を切り上げた教師に釣られて、日直が号令する。どっと喧騒に包まれる教室の中、翔子が肩をすくめて俺を見やる。
「あんたって本当に人間レベル嫌いなんだね」
「ああ、嫌いだね。神も信用してない」
「こりゃ重症だわ」
「お前はせいぜいカミサマに媚びを売ってろ」
「言われなくてもそうしてるよ。で、私は天国で快適に過ごして、あんたは底辺で生きていくのよ。その時になって後悔しても知んないから」
それきり翔子は何を言っても無駄だと判断したのか、俺に話しかけようとはしなかった。
「……」
このままじゃ天国でいい暮らしができない。
そんなことは翔子に言われるまでもなく、今まで散々言われ続けてきたことだ。
今朝だって母さんに似たようなことを言われたばかりだ。夢審査ですら、神が直々に説教してくる始末なのだ。
「……ちっ」
どいつもこいつも、死んだ後の話ばかりしやがる。
帰宅中、帰りの電車を待ちながら俺はずっと考えていた。
八年前、俺は八歳だった。それぞれ人間レベルがあった時代となかった時代をちょうど半分ずつ過ごしてきたことになる。
だが自意識に目覚めて、自分で物事を考えるようになってから過ごした歳月は、明らかに前者の方が長い。
人間レベルが設定される前はどういう社会だったのか、俺はおぼろげにしか覚えていない。
だからその時代が今に比べてもっと素晴らしい時代だった、などとは決して断言できないし、多くの人間が言うように、おそらくはそうではないのだろう。
でも俺は、今の時代は決して好きではない。正常だとも思わない。どこかが間違っているような気もする。具体的にどこだと訊かれると答えられない。
――そういう説明をすると、大抵の者は俺のことを鼻で笑う。
『どうせ人間レベルを上げるのが面倒だからそんな文句を言ってるんだろう?』
『ろくに人の役にも立てないくせに偉そうなことばかり言うな』
実際にそう言われたこともある。俺はそれに反論できなくて、ほどなく誰にも言うことはなくなった。
だから周囲からすれば俺は単なる怠け者で、他人のために何かをするわけでもないくせに、他人のために何かをする人間を非難するだけのクズに見えるのだろう。あながち間違っているとも思わない。
でも、俺はどうしても偽善を許せなかった。認められなかった。
翔子みたいに自分の人間レベルを自慢しているような奴を、一度だって立派だと感じたことはない。
「何が人間レベルだ……ふざけやがって」
嘆息しながら電車に乗り込む。
車内はほどほどに混んでおり、席は全て埋まっていた。俺はわずかに肩を落としながら吊革に掴まった。
「――いえいえ、結構ですから」
不意にそんな声が聞こえてきた。声のした方を向くと、杖をついた老婆に向かって、一人の女生徒が席を譲ろうとしていた。
「そう仰らず、どうぞ座ってください」
「いえいえ、お気持ちだけで十分です」
……ほんと……飽きねえ奴らだ。
毎日毎日、見せかけだけの善意を押し付け合って。くだらねえ。
「あの制服……うちの生徒か」
翔子はすぐにやめたと言っていたが、電車で席を譲るのは未だに根強く流行っているようだ。
俺は白けた表情を浮かべて、つかつかと女生徒の方へ歩いていった。
「おばあちゃん、杖ついてるじゃないですか。足腰弱いんでしょう? 無理せず座ってください」
「うーん……そうねえ……」
「あの」
二人のすぐ傍まで接近した俺は女生徒に声をかけた。
「座らないんだったら、俺に譲ってもらえます?」
「え?」
女生徒と老婆はきょとんとした表情で俺を見上げた。
どうせお互いに善意を押し付け合って、結局どちらも座らないのだ。なら俺がその席を譲ってもらっても問題ないだろう。
女生徒は突然のことに戸惑っている様子だった。
……まあいい。返事なんて聞くまでもない。俺がさっさと席に座ろうとしたそのとき、
「――だ、だめですっ」
女生徒が俺を制止した。
「はっ?」
「あ、あの、私は……このお婆さんが立っているのが辛そうだから、座らせてあげたいって……だから、その……あ、あなたはその、健康そうですし、だから……こ、この席はお婆さんに譲ってあげてください」
そう言って女生徒はぺこりと頭を下げてきた。俺は彼女の言っていることが理解できず、しばらく茫然としてしまった。
「あ、いや、まあ……」
「そう? じゃあ、甘えさせてもらおうかしら」
老婆はそう言って、遠慮がちに席に座った。その女生徒は老婆が座る際に腰を支えまでして、最後には笑顔を浮かべた。
「どうもお疲れ様、お嬢さん」
老婆はそう言うとにっこりと笑った。女生徒もそれに笑顔を返した。
「……」
その傍らで、俺はどうしたものか分からなくなり、こっそりとその場から離れた。
なにか、とてつもなく恥ずかしいことをしてしまったような気がした。
まさか断られるなんて思ってもみなかった。
席を譲るだけなら、俺でも老婆でも大差なかったはずだ。
そして大抵の場合、互いに遠慮して二駅もどちらも座らないまま、ということも珍しくない。それは席を譲る側も承知しているはずだ。
だから席を譲ろうとしても遠慮するような手合いには、譲る側も面倒くさく思っているはずだし、そんなところに「席を譲ってください」なんて申し出てきた者がいれば、嬉々としてそいつに席を譲る。
普通はそうなるはずなのだ。現に、今のように断られたことなど、ここ数年で一度もなかった。
「……あのぉ」
ふと気がつくと、先程の女子生徒が傍に来ていた。
さっきは特に気にしていなかったため気付かなかったが、黒いショートヘアに目元を隠した、いかにも気弱そうな少女だった。
見るからに真っ向から誰かに突っかかっていけるタイプじゃない。
……そんな子がああして俺を突っぱねたことが、やはりどうしても不可解だった。
「なに?」
「あの、さっきはすみませんでした」
そう言って女子生徒は頭を下げた。俺は何を謝られているのか分からずしばし困惑し、さっきの席の件の話だと察した。
「ああ、いや、別にいいよ。そんなに座りたかったわけでもないし」
「あの、もしどこかお身体が悪いようでしたら、私、凄く失礼なことを……」
「いや、健康だから安心してくれ」
俺は適当に身体を動かして、どこも異常がないことを示した。女生徒は安心したように息を吐いた。
「あのさ」
俺は何の気なしに彼女に話しかけていた。
「あんた、よくこんなことしてんのか?」
「え、席を譲ることですか?」
俺が頷くと、女生徒は少し考えてから口を開いた。
「たまに……ですね。目の前に足腰の弱そうなお年寄りの方や、妊婦の方や、とても疲れてそうな方がいれば、席を譲っています」
「どれくらい続けてる?」
「えっと……よく覚えてませんけど、けっこう昔から、ですね」
「……それは……」
――それは人間レベルのために?
言いかけて、俺は頭を振ってその続きを呑みこんだ。
そんなくだらない質問をして何になるんだ。馬鹿馬鹿しい。
「いや、いいよ。気にしないでくれ」
「……?」
首を傾げる女生徒。そのときちょうど電車がホームに到着した。
「あ、じゃあ私はここで」
「ああ、お疲れさん」
女生徒は電車を降り、最後に一度小さくお辞儀をした。ドアが閉まり電車が動き出して、彼女の姿はすぐに俺の視界から消えていった。
「……」
人々がまるで奪い合うように善行を進んで行うようになって、善行ができる機会というのは減ってしまった。
そんな中で、電車で人に席を譲るというのは、毎日チャンスがある上に大した労力ではないという理由から、未だに根強く行う者が多い。
だがその分ポイントを貯める効率は非常に悪いらしく、翔子などはすぐにやめてしまったと言っていた。
そんなことを、今の女生徒は長いこと続けているらしい。よほどポイントに困っているのか、あるいは翔子のようにポイントを貯めまくりたい性質なのだろう。
「……ほんと、お疲れさんだぜ」
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