第5話 自己犠牲はやめといたほうがいい


 今日の授業が全て終わった。今日は馬鹿らしいプール掃除もない。誰に文句を言われる筋合いもなく堂々と帰宅できる。素晴らしい解放感だ。

「ねえ雄一、カラオケでも行かない?」

「いや、今日は帰ってゴロゴロするって昨日から決めてたから」

「おっさんかよ」

 翔子の誘いを断って、鞄を手に席を立つ。


「あんたも川瀬さん見習ってちょっとは善行したほうがいいよ。私結構マジで心配してるんだからね。あと一○○ポイント下がったら地獄行きだよ? わかってる?」

「母さんといいお前といい神といい、女ってのは皆こうなのか?」

「んま。人の好意を足蹴にするなんて。悪行だね。こりゃあんたまたポイント下がったわ」

「地獄なら誰の説教を聞く必要もないし、悪くないかもな」

 軽口を叩き合って俺たちは別れた。まったく、面倒な世の中になったもんだ。人の役に

立たない人間は本当にろくでなし扱いされる。人の勝手だろ。


 そんなことを考えて校門に向かって歩いていると、見覚えのある顔を見つけた。

「ふぅ……ふぅ……」

 川瀬だった。大きなゴミ袋を両手で持って歩いている。

「……」

 俺は半ば呆れながら彼女に歩み寄った。

「よう。今日も頑張ってるな」

「あ、平野さん。こんにちは」

 川瀬は足を止めて挨拶してきた。


「ゴミ捨て当番か?」

「当番……ではないんですけど、お手伝いさせてもらってます」

「だと思った」

 ほんとに見境なく人助けをしているらしい。

 何より感嘆すべきことは、それらのほとんどを彼女が自主的に手伝っているらしいことだった。これで『ポイントには興味ありません』なんて言っても信じる者はいないだろう。俺だって半信半疑だ。


「――川瀬さーん、じゃあ残りお願いねー」

 ゴミ捨て場から一人の女生徒が出てきて川瀬にそう声をかけた。

「あ、はーい。さようなら」

「お疲れさまー」

 女生徒はそのまま帰っていった。川瀬は、よいしょ、とゴミ袋を持ち直した。

「じゃあ私、これを捨ててこないと」

「――ちょっと待った」

 ゴミ捨て場に向かおうとする川瀬を咄嗟に呼び止めた。


 ――ちょっと引っかかることをあの女生徒は言っていた気がする。

「今のは誰だ?」

「同じクラスの、ゴミ捨て当番の子です」

「他に当番は誰かいるのか?」

「いえ、あの子だけです。でも今週はゴミが多くて、一人だと大変そうだからお手伝いさせてもらったんです」

「『残りはお願いね』って言ってたけど、まだ残りがあるのか?」

「はい。三つほど」

 おい。


「おかしいだろ」

 自分でも気付かない内に声が低くなっていた。

「なんで残りをお前が持っていくんだ。残り三つあるなら、せめて二人で運ぶべきだろ。なんで掃除当番のあいつが先に帰ってるんだ」

「え……いえ、まあ……三つくらいなら一人でも大丈夫なので」

「お前さっき一人で運ぶには量が多いから手伝ったって言ってなかったか」

「だ、大丈夫ですから」

「……」


 ふつふつと怒りが沸いてくる。さっき帰った女生徒にもだが、俺はこの川瀬麻衣という少女に対しても間違いなく怒っていた。

「……〝フリだけでもポイントは入る〟って翔子が言ってたが、ここまで徹底するかね普通」

「わ、私から言ったんです。一つだけでいいですよって」

「んなこた分かってんだよ」

 そうでなければ、自分の当番を川瀬に押し付けていることになる。そんな無意味にポイントを下げるような真似するはずがない。この状況は、川瀬が自分から女生徒に申し出なければ有り得ない。


「言うまでもないと思うけど、さっきの生徒とあんたと、もらえるポイントは同じだぞ」

「はい、分かってます」

「理不尽だと思わないのか?」

「私は……ポイントにはあまり興味がないので」

 川瀬は申し訳なさそうに言った。朝に電車で見たときと同じ、悪いことして叱られている子供のようだった。


 ……くそ。

 俺は内心で舌打ちする。さっき自分で翔子に言ったばかりじゃないか。他人のやることにいちいち口出しするなってのは重々承知してる。別に説教がしたいわけじゃない。俺にそんなことを言う資格がないってことはわかってる。

 それでも、俺は言わずにはいられなかった。


「あんた、いいように利用されてるだけだぞ」

「……」

「さっきの聞いたか? 『お疲れ様』だとよ。微塵も感謝してねえぞ。明日には忘れられちまってるぞ。今日だけじゃねえだろ。昨日もどうせ、他の奴の雑用任されてたんだろ。それでいいのかよ」

「……私は……」

 川瀬は悲しげに瞳を揺らしたが、すぐに迷いのない顔を俺に向けた。


「私は、自分のしたいことをしているだけです」

「……」


 ……ああ。やっぱり、そうなのか。

 そうして確信した。彼女は……同じなんだ。


――姉さんと。


「……」

 俺は川瀬の持っているゴミ袋を奪い取った。

「あ、え、あの……!」

 急にゴミ袋を取られた川瀬が困惑の声をあげる。

「手伝うよ」

「え?」

「ゴミ捨て」

 川瀬に背を向けて、俺はゴミ捨て場へと歩き出した。


「い、いえ、結構ですから! 気を遣わないでください……!」

「別にあんたのためじゃない」

「え?」

「実は俺、人間レベルが三○○ポイントしかなくてな。ちょうどポイントが欲しいと思ってたんだ。だから手伝うだけだ」

「……」

 川瀬はゆっくりと俺の後ろをついてくる。


「――ありがとうございます、平野さん」


彼女がどんな顔でそう口にしたのか、俺は気恥かしくて確認できなかった。




 川瀬のクラスのゴミを捨て終えて、俺たちは駅まで一緒に帰ることになった。道中で川瀬は度々俺に礼を言ってきた。

「何度も言ってるけど、俺は自分のためにやっただけだから。礼を言われる筋合いないから」

「それでも、私嬉しかったです。だから、ありがとうございます、なんです」

 川瀬はニコニコと笑いながら俺の横に並んで歩いた。

「これからまた老人ホームのボランティアに行くんだったっけ?」

「はい」

「ボランティアって楽しいのか?」

「大変だなって思う時もありますけど、誰かのお役に立てるのは嬉しいですから」

 役に立つ、か。今となっては随分薄れてしまった概念だ。


「どれくらい人間レベル貯めてるんだ?」

 何の気なしにそう訊いていた。

「えっと……」

「ああ、別に言いたくないなら無理に言わなくていいぞ」

 言い淀む川瀬を制止する。他人の人間レベルを尋ねることは年収を訊くのと同じようなものだ。言いたくない人もいるだろう。

「いえ、大丈夫です。……前の夢審査では、四二○○ポイントくらいって言われました」

「四二○○!? Bランク目前か。とんでもねえな」

 マジで四○○○超えてたのか。俺の一四倍は立派な人ってわけだ。


「あいつからも褒められたりするのか?」

「あいつ……? ああ、神様ですか? いえ、まあ……普通です」

「俺は毎回説教されてるよ。最近ずっと人間レベル下がってたから、このままじゃ地獄に落ちるぞって脅されてる」

 麻衣はくすくすと笑った。


「私は前の夢審査で、ランクの高い人は最後の審査でよく足許を掬われるから気をつけなさい、って言われました」

「最後の審査?」

「詳しくは教えてもらえなかったんですけど、そういうのがあるらしいです。あなたは問題ないと思うけど、とも言ってました」

「ふーん」

 ランクの高い人間にだけ実施される審査などあるのだろうか。まあ俺には無縁な話だろう。


「あの、平野さん」

「ん?」

 川瀬は神妙な面持ちで俺を呼び止めた。

「昨日言っていた、『そんな生き方してるときっと後悔する』って……あれはどういう意味ですか?」

「あー……」

 そういえば言わなくてもいいことをつい口走ってしまったんだったか。


「気にしないでくれ。大した意味はない」

「でも……」

 川瀬は何か言いたそうな顔で俯いた。随分気になっているようだ。

 まあ意味深なことを言ってしまったのは俺の方だし、言いっぱなしというのも悪いか。

「あんたにはもう言っても遅かったみたいだけど、要は今日みたいなことになるぞ、って言いたかったんだ」

「今日みたいなこと?」

「いいように利用されて、感謝されるわけでもなく。損するだけだぞって」

「あ……」

 川瀬からすると本当に今更な忠告だったのだろう。微妙に気まずい沈黙が流れる。


「平野さんは人間レベル否定派なんですよね」

「まあな」

「それはやっぱり、善いことをする人のことを、その……偽善者だって感じるからですか?」

「……というよりも、人間レベルのせいで変わっていく人々の意識が嫌いだ」

「意識……?」

 俺の言っていることが川瀬にはよく分からないようだった。

「善いことをした奴は、その分報わるべきだって思う。それは人間レベルとか死後の世界とか、そういう見返りじゃなくてもっと純粋な……感謝の気持ち、とかさ。クサいか?」

「いいえ」

 川瀬は真剣な表情で返答した。


「でも今の世の中って真逆だろ? 自分のために善行して、相手もそれを感謝しない。人間レベルのせいで人々の意識が変わっちまった。そういうのは変だと思う。歪だと思う」

「……」

「なにより、そういう奴らのせいで割を食ってる人がいるってのが一番嫌だ」

「誰のことですか?」

「誰って、あんただよ」

 え? と川瀬はきょとんと目を丸くした。


「自分のためだけに善行をするやつが増えたせいで、あんたみたいに純粋に人助けしたいって思ってる人まで同類に見られるだろ? そういうのがなんかやるせないっていうか、不憫だなって感じる」

 それが、俺が人間レベルを嫌う理由の一つだ。

 人間レベルのせいで人の好意が貶められているように感じて、どうしても支持する気になれない。善行も、他人を助けているわけではなく、まるで自分で自分自身を助けているような気になって、ただただ虚しく感じてしまう。


「いい人なんですね、平野さんは」

「は? いや、俺は悪い奴だよ。人間レベル三○○ポイントのクズだよ」

「ポイントなんて関係ありません」

 川瀬は語調を強くして俺の目をじっと見据えた。

「今まで人間レベルを否定している人たちは、みんな善行を行うのが面倒で、でも地獄に落ちるのも嫌で、だから人間レベルそのものを嫌っている人たちばかりだと思ってました。でも平野さんは自分のためじゃなく、他人のために怒ってる。他人のことを心配してる。――平野さんはいい人です」

「……そう思うなら、次の夢審査で神に言ってやってくれ」

 あまり褒められるのに慣れていない俺は照れ臭くなって、川瀬を少し置き去りにして歩き出した。


 駅が見えてきた。いつもなら俺と川瀬は同じ路線を使うから途中の駅まで一緒に帰るはずだが、今日は川瀬はボランティアに行くため、違う路線を使う。川瀬と帰るのは駅までだ。

 それまでに、どうしても川瀬に言っておきたいことがあった。

「なあ」

「はい?」

 駅前の横断歩道で立ち止まる。目の前の次々と走り抜けていく自動車たち。

「人助けも結構だが、あまり度が過ぎたことはするなよ」

「度が過ぎたこと……ですか?」

 信号が青に変わり、信号待ちをしていた人々が横断歩道を渡りだす。

「人助けばっかりして感覚を麻痺させるなってことだ。自己犠牲の精神と、自分を蔑ろにすることは違う。もっと自分を大切にして、間違っても――」

 間違っても、自分の命を軽んじるような人助けの仕方はするな。


 ――そう言おうとした矢先だった。


 信号が青になっているにも関わらず速度の落ちない自動車。横断歩道を渡ろうとする人の群れ。携帯を見ながら歩いている女性。咄嗟に割れる人垣。横断歩道の真ん中で一人取り残される女性。急ブレーキをかける自動車。全てがスローモーションに見えた。道路に飛び出し、女性を突き飛ばす川瀬の姿すらも。


〝――お姉ちゃん!〟


 誰かの声が聞こえた。飛び散った血液が見えた。その匂いを感じた。


〝――お姉ちゃん! お姉ちゃん!〟


 俺はこの光景を見たことがあった。

 俺の人生で最悪の日。偽善を憎んだ日。大切な人を失った日。その再現が、目の前に広がっていた。


〝――よかったわね、雄一〟


 誰かの声が聞こえた。


〝――これで、お姉ちゃんは天国に――〟




「川瀬ッ!」

 そこかしこで悲鳴があがった。突き飛ばされた女性は混乱しながらも徐々に状況を呑みこみはじめ、次第に顔を青くしながら怯え出した。

 運転手が自動車から降りてきた。スーツ姿の中年男性だった。彼も顔を真っ青にしながらこちらへ駆け寄ってきた。

「川瀬! おい、川瀬!」

 川瀬は横断歩道に倒れ込んでいた。目立った外傷はあまりなくほとんど出血はしていないが、頭を打ったのか意識は混濁しているようだった。目を瞑ったまま時折低く唸り声を洩らしていた。


「ち、違うんだ。か、会社のプロジェクトが上手くいってなくて、ちょっと考え事をしてただけで……」

「救急車!」

 訳の分からないことをブツブツ喋っている運転手の男に怒鳴りつける。

「救急車を呼べ! 早く!」

「あ、ああ……救急車……そうだな」

 男はわたわたと鞄から携帯電話を取り出した。


「おい川瀬! 大丈夫か、しっかりしろ!」

「ぅ……ひ、平野……さん」

 川瀬は弱々しく目を開いた。

「わ、私の……鞄に……」

「鞄? 鞄がどうかしたのか。っていうか喋るな。もうすぐ救急車が来るから……!」

「老人、ホームの……ボランティアのチラシ、が……」

「は? なんだ。何の話だ」

「今日、行けそうにないって……連絡……ごめんな、さい……って……」

 な……。

「――何言ってんだ馬鹿かお前! 状況分かってんのか! 自分の心配してろ!」

「平野さんに……皆に……迷惑、かけ……ごめ、なさ……」


 川瀬はそこでぱたりと口を閉じた。ゾッとした俺は慌てて口許に耳を当てる。呼吸はしているから、気絶しただけだろう。僅かな安堵と、そしてすぐに煮えるような怒りが沸き上がってきた。

 何も出来ない無力な自分に対して。人間レベルに対して。神に対して。


 そして、どこまでも自分を二の次に考える、この川瀬麻衣という少女に対して。

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