第4話 神様は正しい


 平野美菜子は近所でも有名な、俺の自慢の姉だった。

 美人で誰にも優しく、一流大学に通いながら医者になるために勉学に励んでいた。俺とは一○以上も歳は離れていたが、姉さんは俺のことを本当に可愛がってくれた。

 俺もそんな姉さんが大好きで、誰よりも尊敬していて、姉さんの弟だというだけで誇らしかった。俺の憧れだった。


「ねえ、お姉ちゃんはどうしてお医者さんになりたいの?」

 宿題を見てもらっていた夏休みのことだった。俺は姉さんにそう尋ねた。

「人の命を助ける仕事って、とっても素敵だと思わない?」

 姉さんは屈託のない笑顔でそう答えた。

「自分のために頑張るのは誰にでもできるでしょ? でも、人のために何かを頑張るのって、とても難しいと思うの。私はそういうことができる人になりたい」

「でも僕、自分のためになる勉強も全然できないや」

 その冗談は姉さんの笑いのツボに入ったのか、声をだして笑った。


「お姉ちゃんはすごいね。誰かの役に立つために勉強してるなんて」

「あら、私だって自分のために勉強してるんだよ?」

「お給料のため?」

「あはは。ゆーくんは大人だなぁ」

 姉さんはひとしきり笑ったあと、

「ゆーくんはお姉ちゃんのこと好き?」

「うん、大好き!」

「じゃあ、お姉ちゃんがゆーくんに、ありがとう、って言ったら、嬉しい?」

「うん、嬉しいよ!」

「お姉ちゃんもだよ」


 姉さんはそういってゆったりと微笑んだ。

「困ってる人がいて、私なんかの力でその人を助けることができるなら、それは私にとっても幸せなの。その人が感謝してくれたりしたら、もう最高だよね。私はそのために勉強してるの。だから、この勉強だって私のためにやってることなんだよ」

 俺は姉さんが何を言っているのかよくわからなかったが、それでも姉さんはとても立派な人なのだということは分かった。俺の胸に、憧憬の念が満ちていった。

 俺は瞳を輝かせながら、ずいと身を乗り出して姉さんに尋ねた。


「お姉ちゃん。僕もお姉ちゃんみたいになれるかな。お姉ちゃんみたいな立派な人に!」

「ごめーん! お姉ちゃんじゃないです!」

 気がつくと目の前に神がいた。

 見慣れた白い景色。雲の中にいるような白く輝く異空間に、俺と神の二人が立っていた。

 端正な美貌に白い衣をまとい、ご丁寧に頭上には金の輪が浮いている。八年前から変わらない姿で神は俺の夢に現れた。


「いやぁ、いい夢見てるところ本当に申し訳ない! 夢審査です」

 神は申し訳なさそうに両手を合わせて謝った。

「……」

 俺はまだかすかに混乱しながらも、次第に状況を呑みこんだ。


『夢審査』。神はこうして定期的に人々の夢の中に現れては、「あなたの今の人間レベルはいくつです」と報告しにくるのだ。だいたい一カ月に一度くらいのペースで現れる。自分の人間レベルを確認できる唯一の手段であると同時に、神と会話できる唯一の機会でもある。

「じゃあさっそく始めちゃおうねー」

 神はどこからか資料を取り出し、ペラペラとめくりながら目を通していった。


「平野雄一君。前の審査は一月前だったね。あれから君は……うん、プール掃除のボランティアをしましたね。三ポイントあげましょう。他の点数にならなさそうなものは、ゴミの分別を毎日してるのと、駅前で倒してしまった自転車を七つ元通りにしてるね。あ、店員が間違えたお釣りをちょろまかさずにちゃんと申告してたねそういえば。悪いことは……特になし、と」

 毎度のことながら、本当に隅から隅まで監視されている。プライベートなんてものは神には通用しない。改めて空恐ろしい気分だった。


「うーん、微妙だけど……まあいいや、全部もろもろまとめて一ポイントに換算しましょう。今回はプラス四ポイントです。ということで、君の今の人間レベルは、合計三○九ポイント。Fランクだね」

 読み上げた神は「うーん」と困ったような顔を浮かべて俺の方を向いた。

「もうちょっとがんばらないと。一応三○○ポイントはキープしてるから天国には行けるけどさ、行ったあと大変だよ? 最低五○○ポイントはないとまともな生活送れないんだから」

「余計なお世話だ」

「このペースだとあと二○○ポイント貯めるのに一○年はかかるよ。君、それまでに死んじゃったらどうするの」

「そうならないことを祈るよ」


「人間いつ死ぬかなんてわからないんだから、稼げるときに稼いどかないと、手遅れになっちゃうからね」

「……」

 人間レベルが変動する期間は死ぬまでだ。不意の事故などで死んでからポイントが足りていないことに気がついても手遅れなのだ。

「一緒にプール掃除した他の奴らも全員三ポイント加算なのか?」

「そうだよ」

「全員?」

「全員だよ。川瀬麻衣さんも三ポイント」

 不意に川瀬の名を挙げられてギクリとする。


「……なんであいつの名前が出るんだよ」

「それが訊きたかったんでしょ?」

 何でもお見通しだよ、とでも言いたげに神はウインクを一つ飛ばした。

「……真面目に頑張った川瀬が他の奴と同じポイントしかもらえないってのはどうなんだ?」

「ごめんねぇ、お役所仕事なの。私も採点基準に則ってるだけだから」

「その基準はどうなってるんだ」

「それ今まで百万回くらい訊かれたけど、教えられないの」

「誰が決めてるんだ」

「基本的に私が決めてまーす。何せ神様ですので」

「それが正しいって誰が保証する」

「神様が保証します」


 ……話にならねえ。こんな適当なやつが人の死後の扱いを任されてるのか?

「さて、夢審査は以上です。特に質問がなければ夢から起こしますね」

「その前に最後に一つだけ教えてくれ」

「教えられることならね」

「何で人間レベルのことを人類に教えた」

 俺の質問に、神は小さく吹き出した。

「雄一くーん……そんなに人間レベルが嫌い?」

「ああ。大嫌いだね」


 神は可笑しそうにくつくつと笑う。

「ここで教えなくても、あと一○年もすれば皆気がつくんじゃないかな」

「おい」

「もう……じゃあヒントね。人間増え過ぎ。死に過ぎ。私とっても困ってます」

「は? どういう……」

「おはよう雄一君。善い一日を」




 気がつくと俺は夢から覚めていた。

 目覚まし時計が鳴る時刻より一○分早い。

「……くそ」

 胸糞の悪い気分で目覚めた俺は、苛立ち任せに舌打ちした。

 あいつは人間ごときに真剣に取り合う気などないのだ。ああやっていつも飄々と人を食ったような態度で、誰からの質問もはぐらかしてきた。

 そんな奴が定めた基準をどうして信用できるんだ。

「俺はお前のことも大嫌いなんだよ」

 今この瞬間も俺のことを監視しているに違いない神に向かってはっきり言ってやった。




「――三ポイント? ほんとに?」

 朝の満員電車内で、翔子は驚きの声をあげた。昨夜の夢審査でプール掃除のボランティアが三ポイントにしかならなかったと話した。翔子は納得いかないようだった。

「全員三ポイントなの?」

「少なくとも俺よりお前の方が高得点なんてことは絶対にないな」

「もうちょっともらえると思ってた。マジかぁ」

「他のボランティアはもっともらえてるのか?」

「うーん、昔は二桁とかもらえてたんだけどね」


「昔……? 時期が関係あるのか?」

「さあね。でもここ何年か、もらえるポイントが少し減ってきてる感じはする。まあ、大人がするより子供が善いことしてるほうが立派、ってことなのかも」

 ……あの神がそんなことを考慮するとは思えないが。翔子に言わせても神がポイントを与える基準は理解できないらしい。

 まさか本当にその場の気分で適当にポイントを言ってるだけじゃないだろうなあいつ。

「これであんたもポイントを貯める難しさがわかったでしょ? ポイントを貯めるようになると下手に悪いことしてポイント下げるなんて馬鹿らしいって思うようにならない?」

「いいや全然?」


 今日も俺は満員電車の窮屈さから逃れるために、誰か席を譲りたそうな人はいないかと周囲を見回したりしているが、今日は生憎と見かけない。もしそれでポイントが下がったって俺は毎日続けるだろう。

 仕方なくもう一駅我慢することにする。そこは乗り換えで人の入れ替わりが激しい駅だ。そこまで行けば誰か一人くらい席を立つ者もいるだろう。

 駅に到着し、予想通り激しく人が入り乱れる。俺は空いた席に潜り込む。翔子もその隣に座った。この辺から車内に俺と同じ高校と制服が目立ち始める。


「あ。川瀬さんだ」

 翔子が言った。見ると川瀬麻衣が車内に乗り込んできていた。

「やっほ、川瀬さん。ここもう一人くらいなら座れそうだよ」

 翔子が俺の方へぐいと身体を寄せてスペースを作る。俺もできるだけ身体を逆側に寄せると、確かに女子一人くらいなら座れる程度のスペースが出来た。


「あ、昨日の……じゃあ、お言葉に甘えて」

 川瀬は軽く会釈して翔子の隣に座った。

「昨日は大変だったね」

 翔子が川瀬に話しかける。おそらく昨日初めて顔を合わせた仲だろうが、それにしては馴れ馴れしい。一年の頃初めて翔子に話しかけられたときも、こいつはこんな感じだった。

「はい。お疲れ様でした。……えっと」


 川瀬は俺と翔子を交互に見て口ごもった。そうか、そういえば彼女はまだ俺たちの名前すら知らなかった。

「私は赤坂翔子。こいつは知ってる? 平野雄一」

「よろしく」

「はい。よろしくお願いします。私の名前は……」

「知ってる知ってる。川瀬麻衣さんでしょ? 有名だよあなた。随分ポイント貯め込んでるんだって?」

「い、いえ、そんな……あはは」


 照れているというよりは、どこか叱られているかのように川瀬は愛想笑いを浮かべて視線を逸らした。

「今日雄一から聞いたんだけどさ、昨日のプール掃除、あれ三ポイントにしかならないらしいよ。酷いと思わない?」

「あ……私は、その……あんまりポイントは……」

「え、もうたっぷり貯まってるからいらないって?」

「い、いえ、そういうことでは……!」

「自分よりポイント持ってるからって僻むなよ翔子」

「そんなんじゃないし。ねえねえ川瀬さん、今までいろんなボランティアやってきたんでしょ?」

「まあ……はい」

「割のいいやつ教えてよ。楽でポイントたくさん入るやつ」


 こいつ……初対面のくせにやけに積極的に話しかけるかと思えばそれが目的かよ。

「すみません、私あまりポイントは気にしてないので……よく覚えてないです」

「えー……じゃあさ、近々なにかボランティアする予定とかないの?」

「あ、今日の放課後に老人ホームに伺わせてもらおうかと思ってます」

「「今日?」」

 翔子だけでなく俺も思わず訊き返してしまった。

「昨日プール掃除したばっかりだってのに、まだするの? 頑張り過ぎじゃない?」


 悪いが俺も翔子と同意見だった。適当に流した俺ですら昨日の疲れが少し残ってるんだ、あれだけ熱心に掃除してた川瀬が疲れてないはずがない。その翌日に老人の世話なんて、とてもじゃないがやってられないだろ。

「私がしたいことですから。それに、お年寄りの方と話すのは楽しいですし、勉強になります」

「ふーん。まあいいや。もしいいボランティア見つけたら教えてよ」

「はい、わかりました。平野さんは……」

「俺はいいよ。多分あんた以上に人間レベルに興味ないから」

「こいつは進路希望調査書に『地獄』って書くらしいよ」

「そうそう。ついでにお前を道連れにしてな」

「あはは……」

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