第3話 金持ちは善人

 翌日の放課後。

 全ての授業を消化した俺はいつもなら解放感に身を任せながら帰宅の準備を進めているところなのだが、今日はただ沈鬱な気分が募るばかりだった。

「さ、今日もビシっと善行を積み重ねようじゃないの。ね、ゆーいちくん?」

 翔子がニヤニヤしながら俺の肩を叩く。


 今日はプール掃除のボランティアをする忌まわしい日だ。

 昨日翔子の口車に乗って迂闊に手を挙げたことを俺はもう何度後悔したか分からない。

「なんでお前はそうノリノリなんだ」

「プール掃除なんてボランティアの中じゃ楽勝な方じゃん。県をまたいで移動する必要もないし、適度に身体動かせるし。これでポイント貰えるなら安いもんだって」

「まだポイント稼ぎ足りないのかよ」

「私の目標はAランクだからね」

「一般人がAランクに到達するなんてまず無理なんじゃなかったか?」

「普通はそうだろうね。でも私は八年で二○○○ポイント貯めたんだよ? あと八○○○ポイントか……死ぬまでになんとか稼ぎたいね」

「気の遠くなる話だな」


 人間レベルをAランクまで高めるには一○○○○ポイント貯める必要がある。

 人間が死ぬまでに貯めるポイントの平均は約三○○○ポイント前後と言われている。普通に生活している人間がこの八年で貯めたポイントの平均はおよそ五○○ポイントほどらしい。

 その計算でいくと、一○○○○ポイントなんてのはおよそ生涯で貯めることのできない数字だ。まあもっとも生涯獲得ポイントの平均値はこの先ぐんぐん上昇していくだろうと予測されているが。

 Aランクに到達するほどに大量のポイントをもらえる人間は、だいたい後世に名を残すような発明をしたりして人類の発展に大きく貢献したような偉人か、他は大金持ちがほとんどだ。


 最もシンプルに、てっとり早く、一発で大量にポイントを稼ぐ方法として、『寄付』以上のものは未だに発見されていない。

 有名芸能人や大富豪達は八年前からこぞって寄付を開始し、Aランクの仲間入りを果たしたと聞く。金持ちは善人というわけだ。

 そういうわけで、翔子は高らかに宣言しているが、八年で二○○○ものポイントを稼ぐのに彼女がどれほどの時間と労力を注ぎ込んだのかは知る由もないが、その翔子を以てしても更に五倍……あと三二年もの歳月が必要なのだ。

 その第一歩が今日のプール掃除というわけだ。


「なあ、プール掃除ってどれくらいポイントもらえるんだ?」

「さあね。個人的には七ポイントくらいは欲しいかな」

「七……?」

 すくねえな。

「もっと低いかも。五ポイントは入るだろうけど」

「てことはなにか? プール掃除を三カ月毎日やっても五○○ポイントいかねえのか?」

「そ。それも、仕事にするんじゃなくて、あくまでボランティアとして活動したらね」

「……二○○○ポイント貯めたんだっけ?」

「見直してくれた?」

「おう、普通に感心した」

「数ポイントも馬鹿にできないでしょ? 分かったらさっさと体操服に着替えてプールに行きましょ」




「全員揃ったか?」

 体育教師はプールサイドに並んだ俺達の数を確認していった。

 それぞれの学年から四人ずつ、合計一二名が集められることになっていた。

 だが体育教師は最後の一人を数え終えたあと首を傾げた。

「一人足りないな。どこの奴だ?」

「あの」

 俺の隣にいた男子生徒が手を挙げた。


「二年四組の柏木です。同じクラスの川瀬さんが遅れてるみたいです」

「なんだ、サボったのか?」

「いえ、多分遅れてるだけだと思いますよ。川瀬さんがボランティアをサボるって……ちょっと考えられないんで」

「あん? なんだそりゃ――――あ、二年の川瀬……あー……よし、じゃあもう始めるか」

 体育教師は何やら一人で勝手に納得して、プール掃除の開始を宣言した。


 まずは全員に箒が渡され、プール内のゴミや砂を取り除く作業にかかった。

 適当にプールの底を掃きながら、俺は近くで掃くフリをしている翔子に話しかけた。

「なあ、さっきの川瀬って誰だ? 有名人なのか?」

「ん? ああ、私もよくは知らないけど、名前は聞いたことあるね。川瀬麻衣ちゃんのことじゃないかな。あんたがいっちばん嫌いなタイプだと思うよ」

「俺が嫌いなやつ?」

「筋金入りの偽善者ってこと」

「偽善者?」

「聞いた話だと、ポイントを貯めることに命かけてるような子なんだって」


 二○○○ポイントも人間レベルを貯め込んだこいつが言うんだ、相当なんだろう。

「この学校でお前よりもポイント稼いでる奴なんていたのか」

「噂だと、三、四○○○ポイントくらい貯めてるって話だよ」

「四○○○!?」

 翔子の口から飛び出した数字に思わず目を剥いてしまう。

 四○○○っていったら、一般人が一生で積み重ねる人間レベル以上じゃねえか。


 人間レベルは生涯で積み重ねた善行の総計だ。ということは自然、長生きしている人間ほどポイントが高くなっていく傾向にある。

 高校生が四○○○ポイントなんて尋常な数字じゃない。

「どんな生活してんだそいつ」

「自由時間は全部善行に費やしてますって言われても驚かないね。しかもその子の凄いところは、効率とか考えずにポイントになりそうなことは手当たり次第やってるんだって。しかも全然手を抜かないの」

「お前はいつも手を抜いてるのか?」

「当たり前じゃん。今だってそうだよ。見てみ」

 そういって翔子は周囲を指さした。


 周囲では生徒達が箒を手にプールの床を掃いている。……が、確かに彼らが手を抜いているのは誰の目からも明らかだった。

 総勢一一名の人間達は、不気味なほどに同じ場所から動かない。

 手だけを動かして箒を揺らしてはいるが、その動きも目に見えて遅い。おそらくこの場にいる誰ひとりとして真面目に清掃に取り組んでいる者はいないだろう。

 昨日翔子が言っていた言葉が思い出される。のだと。

 重要なことはボランティアに取り組むという姿勢を見せたということであり、その態度にまでは神は言及しない。真面目でも不真面目でも、もらえるポイントは大差ないのだ。

 どう見ても、自ら積極的にボランティアに名乗りをあげた者たちの姿とは思えない。

 川瀬麻衣という生徒は、そういう類の人間ではないらしい。


「……いいことなんじゃねえの? 効率とか考えずに善行して手も抜かねえんだだろ? 偽善者ってのは違うんじゃねえのか?」

「一○○○ポイントくらいだったら私もいいと思うけどさ。四○○○はやりすぎでしょ。あんたの言う『いい人』っていうのはつまり、『人間レベルが設定されてなくても善行を積める人』ってことでしょ?」

「まあ、そうだな」

「困ってる人を見かけたらどんなことでも手助けして、休みの日には何かしらのボランティア活動して、自分の生活のほとんどを他人のために使って、人間レベルがなくてもそんな生活を何年も毎日繰り返せる……そんな人いると思う? マザーテレサじゃあるまいし」

「……つまり?」

「川瀬麻衣さんは善行を重ねることよりも、ポイントを貯めることそのものが目的になったタイプの人じゃない? 珍しい話じゃないしね」


 それは言ってしまえば、第二の生すら度外視した価値観。

 例えるならば、金の使い道がないくせに預金口座が着々と増えていくことに満足感を覚える人間。

 確かに、人間レベルが高まることに快感を覚えるというのは理解できなくはない。

 神から「あなたは立派な人間です」と認められるという優越感は、Fランクの俺には知りえないものだ。

 そういう人間のことを翔子は偽善者と呼び、俺の嫌いな人間だと言った。なるほど言い得て妙だ。いったいどんな奴だ。


「――すみません、遅れました!」

 そのとき一人の女生徒がばたばたと慌ただしくプールサイドに飛び込んできた。

「二年四組の川瀬麻衣か?」

「はい。クラスの用事で遅れてしまいました」

 清掃をしていた面々が一斉に彼女の方を向く。

「あ……」

 俺はその女生徒に見覚えがあった。短い黒髪に気弱そうな顔。


 昨日電車で会ったあの女生徒だった。

「あいつが川瀬麻衣……」

 僅かの驚きと、大きな納得を感じた。なるほど日常的に善行を重ねているという噂は本当だったようだ。

「まだ始まったばかりだから気にするな。ほら、箒でプールの底を掃いてくれ」

「はい」

 川瀬は箒を手に取ると、「うんしょ」と危なっかしくプールへと降りた。




 プール掃除を開始してから三○分ほどが経過した。箒がプールの底に擦れる音が響く中、あちこちで生徒同士の談笑の声が混じっていた。

 まるでそちらが本当の作業だと言うかのように生徒たちは極めて不真面目に清掃に取り組んでいた。

 時折思い出したように場所を変えて、話をするついでにその箇所も掃除するような生徒――はまだいい方だ。

 中には完全にその場から動かず、しかも箒も動かさずに昨日のバラエティ番組の話で盛り上がる三年生すらいた。

 翔子もそんな内の一人で、ほどほどに掃除しているフリをしながら事あるごとに俺に話しかけてきて、俺もそれに付き合って立ち話を始め、箒は同じ箇所ばかりを掃き続けた。

 こんな調子では完全下校時間までに到底終わらないのではないかと思われたプール掃除は、しかし少しずつ進展していた。その理由は、


「……よい、しょ……よいしょ……!」

 一人黙々と掃除を続ける川瀬がいたからだ。

 川瀬は掃除を始めてから一度たりとも私語をせず、プールの隅から隅まで丁寧に箒をかけ、集めたゴミや砂を一箇所に集める作業をひたすら繰り返し続けていた。

 あからさまにやる気のない周囲の生徒たちを尻目に、額に大量の汗を浮かばせて少し呼吸を荒くしながら、彼女は実にプールの面積の半分以上を一人で掃除してしまった。


「……」

 そのあまりの熱心ぶりに、俺はサボっていることに少なからず罪悪感を覚え始めていた。

「よーしもういいだろう。じゃあ次はプール磨きいくぞー」

 集めたゴミを全てどかし、今度は男子にデッキブラシが手渡された。翔子は我先にと放水係に立候補した。ここからがプール掃除の本番だ。

「あ、あの……私もプール磨きします」

 洗剤を手渡された川瀬がおずおずと体育教師に言った。


「ん? いや、女子は洗剤を適当に撒いてくれるだけでいいぞ。力仕事は男子に任せろ」

「いえ、私遅れてきましたし、私もさせてください」

「まあ……別に構わないが」

 そう言うと体育教師は川瀬にデッキブラシを手渡した。

「よーしじゃあ放水しまーす」

 翔子が笑いながら一気に放水した。ホースから放たれた水がプール中に撒き散らされ、中にいた俺達に降りかかった。

「ぶっ! おい翔子!」

「だって放水係ですもの、しょうがないでしょ? ほらほら、くらえぇ!」

「やめろてめえ!」


 翔子は面白がって俺に集中的に水をぶつけてきた。体育教師に注意されて渋々放水を止める翔子。俺は水浸しになった髪を払うと、デッキブラシでプールを磨き始めた。

 女子が適当に洗剤を吹いた箇所をゴシゴシとこすっていく。他の男子生徒も同じようなことをしているが、真面目だったのは最初の数分だけで、すぐにダルくなったのかまた話ついでの掃除しかしなくなった。

 そんな中、やはり川瀬は一生懸命プールの底を磨き続けていた。

 男子生徒でもすぐ疲れてやめてしまった作業を、川瀬は二○分以上もずっと休まず続けた。ふぅふぅと辛そうに息を吐きながら掃除をする姿を見て、俺はいたたまれなくなった。


「……このままじゃまたあいつ一人で半分磨くことになっちまうな」

 ……仕方ない、と俺はプール磨きくらいは少し真面目にやることにした。

 まだ五月とはいえそれなりに暑い。照りつける太陽の中での肉体労働は普通に辛かった。

 なんで俺がこんなことしなきゃならないんだ……思わずそう愚痴をこぼしそうになると、視界の端には川瀬が一生懸命プールを磨いている姿が映り込んできて、俺は嘆息しながら作業を続けた。


「……」

 俺にとっては今日だけの話だが、彼女は今までも、そしてこれからもこんなことを続けていくのだろうか。

 これだけ辛い作業をして数ポイントしか入らない人間レベルのために、今となっては誰かが感謝してくれるわけでもない善行を。


 もし川瀬が翔子の言うようにポイントを貯めたいだけの人間ならば、あんなに一生懸命プールを磨いたりするだろうか。

 Aランクを目指すと言っていた翔子があれだけサボっているのだ。努力や成果はさほどポイントに影響しないのだろう。川瀬ならそんなこと分かり切っているはずだ。

「……わけわかんねえ奴だな」

 俺は川瀬麻衣がどういう奴なのか全く見当がつかず、ほどなく、特に気にすることもしなくなった。




 掃除開始から二時間半かかって、ようやくプール掃除は終わった。もう完全下校時間までほとんど時間が残っていなかった。

 もし時間が過ぎれば明日もプール掃除をする羽目になっていたところだったから、最後の方は他の生徒も少しやる気を出していたようだった。

「あぁっちぃー……」

「お疲れさん。随分頑張ってたじゃん。どしたの?」

「おい翔子、俺に放水してくれ」

「はいよ」


 翔子は俺に向かってホースを突き出して一気に蛇口を捻った。容赦なく顔面に浴びせられる水も、汗だくで火照った身体には気持ちよかった。

「よーし全員お疲れさん! あとはこっちでやっておくから、もう帰ってもいいぞ」

 体育教師がそう言うと生徒たちは一斉に更衣室へ向かって歩き出した。

 俺もそれに続こうとしたとき、ふと川瀬麻衣の姿が目にとまった。


 川瀬は汗でびしょびしょになり、疲れ果てたようにプールサイドに座り込んで呼吸を整えていた。

 見るからに体力のなさそうな少女が、二時間以上誰よりも真面目にプール掃除に取り組んだのだ、クタクタになるのも無理はない。

「……なあ翔子、真面目にがんばってもポイントってオマケしてもらえないのか?」

「されないと思うよ。私も昔そう思って真面目にボランティアやったことあったけど、全然増えなかったし」

「それはあいつも知ってるよな?」

「あいつって、川瀬さんのこと? さあ……あんだけ一生懸命やってたってことは、もしかしたら知らないのかもね。さって帰ろ帰ろ。つっかれたぁー」

 翔子は興味なさそうにそう答えると、さっさとプールから出ていった。

 俺は数秒ほど川瀬のことを見つめていたが、すぐに頭を振って更衣室に向かった。




 ぱぱっと帰り支度を済ませて駅のホームで電車を待つ。

「あー疲れた」

 今日初めてそう口にした。実際に疲れていたし、プール掃除の最中も何度かそう洩らしてしまいそうになったが、俺は意識的にその言葉を呑みこんでいた。

 どう考えても俺よりも疲れているはずの川瀬の近くでそんな言葉を口にするのは憚られた。

 実際そう口にしてプールから出ていった生徒達に向かって「お前が疲れてるわけねえだろうが」と悪態を吐きたい気分になった。特に翔子、てめえだ。


「これで五ポイントだっけか」

 つくづく割に合わないと思う。ボランティアなんて、もう二度とやるか。

 その数分後、電車がホームに到着した。それに乗り込んだとき、ホームの階段を駆け上ってくる人影が見えた。


 川瀬麻衣だった。川瀬はドアが閉まるギリギリでなんとか車内に滑り込むことに成功した。

 そういえば同じ路線を使ってたんだったか。せっかくだし挨拶くらいしておくか。

「はぁ……はぁ……! ――あ」

 川瀬は俺に気付いたのか、ぺこりと一礼した。

「お疲れだな」

「はい。もうヘトヘトです」

 川瀬はそう言って笑みを浮かべた。


「あ、今日はごめんなさい。私、掃除に遅れちゃって……」

 川瀬が申し訳なさそうに言う。何故俺が謝られたのか意味不明だった。

「どう見てもあんたが一番掃除してたろ。文句なんてねえよ」

「いえ、そんなこと……」

 川瀬は手を振って否定した。

「なあ、なんであんなに熱心に掃除してたんだ?」

 俺の質問の意味がよくわからない、というように川瀬は首を傾げた。


「だって、自分からボランティアに参加したんですから、真面目に掃除をするなんて当たり前じゃないですか」

 一瞬、遠回しな嫌味を言われているのかと思ったが、どうもそういう風ではないらしかった。

「……真面目にやってもポイントって別に増えないらしいぜ」

「はい。そうみたいですね」

 川瀬は何の感情も見せずにただ肯定した。当たり前の質問に当たり前に答えただけ、ということなのだろう。


 俺はオブラートに包まずにハッキリ言ってやった。

「真面目に掃除したあんたと、サボってた俺と、同じポイントが入るんだぞ。いいのか?」

「私は……」

 川瀬は困ったように視線を泳がせたあと、

「私はあんまり……人間レベルに興味がないので……」

「……」

 俺はしばし黙考して、一つの可能性に思い至る。


「なあ、なんで今日掃除に遅れたんだ?」

「えっとそれは……今日掃除当番だった子が風邪で休んでて、私が代わりにしてたんです」

「掃除ってのは一人でするのか?」

「いえ、三人です」

「ならあんたの他に二人いたんだろ? なんで遅れたんだ」

「それは……私がドジでノロマだから……」

 川瀬は本当に申し訳なさそうに目を伏せた。

「……」

 今までよく分からなかった川瀬麻衣という人物像が、おぼろげながら俺にも見えるようになってきた。


 例えば。掃除当番を他人に無理矢理押し付けるのは悪行だ。

 神はしっかりとそいつの人間レベルを減点するだろう。だから普通はそんなことはもう誰もしない。


 だがどうか?


 自分から強要したわけではなく、ただ同じ当番の生徒が勝手に自分の分まで文句一つ言わずにやってくれたなら。

 それを黙って見ていることは……その生徒に掃除を任せて自分がサボることは、悪行とは言えない。

 今日のプール掃除などまさにそうだ。もし川瀬一人が掃除することを皆で彼女に強要したならば、それはイジメだ。

 だが川瀬が勝手に頑張ることを止める理由はない。誰に責められることもなく、掃除を川瀬一人に押し付けることができる。


 神はそれを悪とするどころか、川瀬にも俺達にも平等にポイントを与えてくれる。

 つまり川瀬麻衣とは、三人分の掃除を一人でこなしたり、皆でするはずのプール掃除を一人で半分やってしまったり、なのに文句一つ言わず、そんなことを毎日続けられるような人間なのだ。


 そういう人間は、今の時代ではと呼ばれ、いいように利用されたりするのだ。


〝――よかったわね雄一〟


 不意に、昔誰かに言われた言葉が脳裏をよぎった。


〝――これできっと、お姉ちゃんは天国に行けるわね〟


「…………あんた、かなりポイントを貯め込んでるって聞いたんだけど」

 俺は知らず胸の内にくすぶり始めていた怒りを押し殺しながら尋ねた。

「もし人間レベルがなくても、この先同じことができるか?」

「はい」

 川瀬は笑顔で即答した。

「じゃあ人間レベルのことどう思ってる?」

「いい制度だと思います。人間レベルがあるから、皆が人にやさしくなれてるんだと思います。とっても嬉しいです」

「そうか」


 ――俺はそのとき、きっと彼女に憐れみの目を向けていたに違いない。


「俺は人間レベルが嫌いだ」

「? どうしてですか?」

「……」

 そのとき、俺は今まで誰に話すこともしなかった思いの丈を全て吐き出してしまいたい気分になった。

 が、結局言っても仕方のないことだと改めた。


「……俺は知ってるんだ。世の中にはあんたみたいな人がいるってことを。でも、その度に俺は……悔しくて」

「……?」

「あんた、そんな生き方してたらいつかきっと後悔するぜ」

「? ど、どういう意味ですか?」

「……いや……むしろあんたみたいな人にこそ、人間レベルは必要なのかもな」

「??」


 川瀬はとうとう混乱がピークに達したようで、目をクルクルと回していた。

 俺は自嘲気味に小さく笑うと、「忘れてくれ」と一言言って電車を降りた。まだ俺の降りる駅じゃなかったが、俺はこれ以上川瀬と一緒にいたくなかった。

 彼女と一緒にいると、思い出さないようにしていた過去を掘り起こされそうな気がして、怖くなった。


 家に帰ってシャワーを浴びた俺は、適当に在り合わせで夕飯を作って食べた。そのままベッドに横になると、かなり疲れていたのかすぐに眠りに落ちた。

 その最中も、俺の脳裏にはずっと川瀬麻衣という少女のことが残り続けていた。


 正確には、彼女とよく似ていた、一人の女性のことが。

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