第6話 その生き方はおかしい


 到着した救急車に俺と運転手、そして川瀬に助けられた女性の三人も乗り込み、最寄りの総合病院へと向かった。

 すぐに検査が始まり、俺達三人は待合室で検査が終わるのを待つことになった。

 それから五分もしない内にそれぞれ電話をかけ始めた。

 女性は誰かと待ち合わせをしていたのか、事故により遅れることを報告していた。

 何やら揉めているらしく、女性はしきりに大声を上げていた。


「だから事故に巻き込まれたんだって! なんか警察の人とかも来るらしくて事情聴取みたいなことされるかもって――――だからいつ行けるかなんて分かんないんだってば!」

「はい。はい。そうです。接触事故を……はい。いえ、今検査中で……はい。警察は……あの、もうすぐ来ると……はい。はい」

 運転手の男は会社に連絡を入れているようだった。顔面蒼白とはこのことだと思わせるほど狼狽しきった様子であちらこちらへ電話をかけ続けている。それが一段落したら、男はしばらく頭を抱えて項垂れていた。


 俺は俺で、川瀬から頼まれたことを済ませていた。今日行くはずだった老人ホームのボランティアに川瀬が行けなくなったことを伝えると、先方もそれを二つ返事で了承してくれた。

 それが終わると待合室の椅子に座って検査が終わるのを待っていたが、すぐ傍から聞こえてくる二人の男女の声に、俺は苛立ちが限界に達しつつあった。

 どちらも自分のことばかり気にしている。実際に車にはねられたのは川瀬なのにまるで気にしている様子もない。反吐が出そうだった。


「川瀬さんの関係者の方ですか?」

 そのとき、一人の看護師が声をかけてきた。

 俺は返事をすると急いで椅子から立ち上がった。女性と運転手もこちらへ歩いてきた。

「川瀬はどうなったんですか?」

 知らず俺の声は早口になっていた。運転手の男も固唾を呑んで看護師の言葉を待っていた。

「命に別状はありません。意識も回復しましたし、外傷もそこまで酷くはありませんでした」


 安堵のため息が俺達三人から漏れる。よかった。とりあえず最悪のケースは避けられたようだ。

 俺たちは川瀬の病室まで案内された。中に入ると、頭に包帯を巻いた川瀬がベッドで横になっていた。


「あ、平野さん」

 俺の姿を確認すると、川瀬の顔が、ぱあ、と明るくなった。俺も思わず顔が緩んでしまった。

「大丈夫なのか?」

「はい。脳震盪を起こしたみたいですけど、今は意識もはっきりしてますから」

「気絶するほどの脳震盪ですから、万一のことを考えてしばらく安静にしていただきたいですが、今のところほぼ問題はないと言えるでしょう」

 看護師が補足説明を入れる。


「よくそれだけで済んだな。車にはねられたってのに」

「おそらくぶつかる直前に車はもうほとんど止まっていて、衝撃はさほどなかったんでしょう。外傷も軽い擦り傷ばかりでしたので、単に打ちどころが悪かったようですね」

「それはつまり、大した事故ではなかったということですよね!?」

 運転手が大声で看護師に尋ねる。部屋にいる人間の視線が運転手に集まる。

「まあ……ただ、やはり車との接触事故ですから」

「で、でも大きな外傷はなかったんですよね!」

「ええ、まあ……」

 運転手は心から安堵したように深く息を吐いた。


「いやぁよかった! よかったよ本当に!」

「……」

 よかったよかったと言う割に、運転手は川瀬の方を見ていなかった。


 ……こいつが何に安堵しているのかなど、考えるまでもなく明白だった。


「ねえ、大した事故じゃなかったんならもう帰ってもいい? 私このあと予定あるんだけど」

 女性に至ってはもはや隠そうともしていなかった。

「い、いや待ちたまえ。私がしっかりとブレーキを踏んでいたことを君の口からも警察の人に説明してくれないか」

「はあ? なんで私がそんなことしなくちゃいけないわけ。大した事故じゃなかったんでしょ? なら私が事情聴取とかされる必要ないじゃん」

「それはまあ……いや、しかしだね」


 ガンッ! と、俺が病室の机を殴りつける音が響き渡った。

 全員が驚いたように俺の方を見た。


 さっきから黙って聞いていればどいつもこいつも。いい加減我慢の限界だった。

「おたくらよ、そんなどうでもいいことゴチャゴチャ喋ってる暇あるなら、もっと先に言わなきゃいけないことがあるんじゃねえのか?」

 俺は運転手の許へと歩み寄ると、至近距離から睨みつけた。

「一歩間違えてれば死人が出てた事故だぞ。なのに加害者のお前が真っ先に気にすることが、自分の過失の大きさかよ」

「な、なんだね君はいきなり……」

「そこのあんたも。川瀬はあんたのことを助けてはねられたんだぞ。何も言うことねえのかよ」

 まるで無関係だと言うかのような態度を見せていた女性のことも睨みつける。女性は煩わしそうに視線をそらした。


「……別に助けてとか言ってないし」

「あ?」

「その子だってどうせポイント欲しいから助けただけでしょ?」

「――おいこのクソアマ」

「はいはいお礼言えばいいんでしょ。どうもお疲れ様」

「――平野さん!」


 俺が拳を振り上げたのを見て川瀬が制止の声をあげる。驚いたように身をすくませる女性。その顔面を思い切り殴りつけようとしたとき、誰かに右手をガシ、と掴まれた。

「暴力はやめましょう。ここは病院ですので」

 看護師が俺の右手を力いっぱい握っていた。俺は長く息を吐くと、ゆっくりと右手を下ろした。


「な、なんなの意味分かんない……マジキモイんだけど偽善者」

「君、もういいから帰りなさい。あなたもです」

 看護師が女性と運転手の二人に言う。二人は去り際にブツブツと悪態をついていたが、すぐに部屋から出ていった。そこでようやく看護師は俺の右手を離した。


「……すみませんでした」

「お気持ちは分かりますが、暴力はいけませんよ」

 看護師は厳しい口調で俺を嗜めると、病室から出ていった。


 病室には俺と川瀬の二人だけが残った。気まずい空気の中、川瀬はおろおろとしながら俺に何か声をかけようと言葉を探しているようだった。

「――そんなに人助けがしたいか」

「え……あの……」

「自分を犠牲にしてまで人を助けたいか? 自分が死んでも。誰からも感謝されなくても。何の見返りがなくても。それでも人を助けたいのか?」

「…………はい」

「なんでだ」

「……人の役に立てるのが、嬉しいからです」

 俺は一歩、川瀬が横になっているベッドへと歩み寄って、川瀬を見下ろした。


「俺みたいな奴がこんなこと偉そうに言う資格ないと思うけどさ。――おかしいと思うぞ。普通じゃないと思う。人間の生き方って気がしない。神は褒めるかもしれないけど、俺は自分を蔑ろにしてまで他人を優先するなんて立派だと思わない」

「……おかしいですか?」

「ああ。変だと思うぞ」


 川瀬はシーツをきつく握りしめると、力強い眼差しで俺を見返した。

「私は別に感謝されたくて人助けをしてるわけじゃありません。見返りが欲しいわけでもありません。困ってる人がいたら助けてあげたいって……そう思うのってそんなにおかしいですか?」

 ――おかしくない。


「人助けをするのと利用されるのは違う」

「私にとっては同じです。助けを必要としてる人が助けられる。それだけです」

「お前のは度が過ぎる。なんでそこまで人助けに拘る」

「何か理由が必要なんですか? 何か事情があってそういう性格になってしまったんだって言えば納得してもらえるんですか?」

 ――必要ない。


「参考までに訊くがそういう事情でもあるのか? 何かお前の心を変えるような事件とか。トラウマとか」

「ありません」

「ない? ならお前は元からそうだったのか? お前みたいな、自分の命をポンと投げ捨てて他人を助けるような奴が何の理由もなくどこからともなく生まれ落ちたのか?」

「……いけませんか?」

 ――何がいけない。


「いい悪いはともかく、普通じゃないとは思うな。今お前も言ってたが、何か過去のトラウマのせいでそういう性格になった、とかの方がよっぽど納得できる」

「……私は。自分を特別だなんて思ってません。私みたいな人は沢山います」

 川瀬はいつになく喰い下がってくる。自分の考えを譲る気はないらしい。


「私は……子供の頃からドジで、トロくて……一人じゃ何もできない子でした。今までいろんな人に助けてもらってきました。その度に私は嬉しかったんです。たとえそれが私の為じゃなくて、自分の人間レベルのためだったとしても……嬉しかったんです」

「……」

「だから私も誰かの役に立ちたいんです。私なんかの力で誰かを助けられるなら、それは私にとっても幸せなんです。私みたいな人でも必要とされてるって……だから……」


〝――困ってる人がいて、私なんかの力でその人を助けることができるなら、それは私にとっても幸せなの〟


「……」

 やはり……似ている。

 姉さんに。

 翔子や、川瀬に助けられた女性や、人間レベルに支配されたこの世に生きる大多数の人間には信じられないことだろう。自分を犠牲にしてでも見ず知らずの他人を助けたいと思う人間がいるなどということは。


 でも、俺はそういう人間がいることを知っている。川瀬のような人がいて、姉さんのような人がいて、何の見返りも求めず、誰からも感謝されなくとも、誰かの役に立てることを喜ぶ人間がいるということを知っている。

 そこには何か特別な事情なんてものはない。全ては川瀬の言う通りなんだ。仰々しい理由も、過去も、一切必要ない。人が人を助けるのに、理由なんてない。


 ……それこそ、正真正銘の善意なんだ。


 そして……そういう善意を持った人間がどういう末路を辿るのか、俺は知っていた。だから俺はどうしても、彼女に言わなければならなかった。

「……お前がはねられる直前に俺が言おうとしてたこと、覚えてるか?」

「え……えっと……すみません、咄嗟の事であまり……」

「自分の命を軽んじるような人助けの仕方はやめろ、って言おうとしたんだ」

 川瀬は黙って俯いた。


「連中は、多分あんたが死んでてもあんな感じだったと思うぞ。罪悪感も感謝も感じず、気にすることは自分の人間レベルだけだ。助ける価値のないクズだ」

「……全員が今の人達みたいな方というわけでは」

「いや、あんなのはこの先ゴロゴロ出てくる。神が人間を監視し続ける限り、絶対にあの手の連中は増え続ける」

「どうして言い切れるんですか?」

「……」

 俺は川瀬の顔をじっと見据えて、呟くような声で言った。


「四年前、俺の姉さんが死んだ」


「え……」

「あんたと同じように、車にはねられそうな人を助けて、代わりに死んだ。そのときも……こんな感じだった。まだ人間レベルが広まって四年しか経ってなかったのにだ」

「……」

「姉さんも、人の役に立つことを生き甲斐とするような人だった。自分の利益なんて考えず、困ってる人がいれば無条件で助けてやりたいっていつも言ってた。で、その言葉の通りに人を助けて死んだ。……あんただって、一歩間違えれば今日そうなっていた」

「……」

「だから……お前ももうちょっと、自分を大切にしてくれ。あんたみたいな人が他人にいいように使われて食い物にされるところなんて、俺はもう見たくないんだ」

「それが、平野さんが人間レベルを嫌う理由ですか?」

「それだけじゃないけどな。でもまあ、姉さんの死が人間レベルを憎むようになった原因の一つなのは確かだな」

「……平野さんは、誰かの役に立ちたいって思ったことないですか?」

「……さあ。よく分からねえな」


 俺はただ、善意が曲解して伝わったり、腹の内を勘ぐられたり、そういう風に人の好意が貶められることが許せないだけなのかもしれない。

 人間レベルさえなければ人は善意を認識するようになるのかと言われれば……今となっては想像できない。人の心を覗けない以上そんなことは有り得ないんだと諭されたら、俺は納得するしかない。


 ただ、もし人の心の中を覗けて、その人が本当に心からの善意で人助けをしているのかどうかを判断できる者がいるとすれば、それは〝あいつ〟しか……神しかいないはずだ。


 だから尚更、神は人の善意を測るべきなんだ。それを数値化して、ポイントとして明確に示すべきなんだ。偽善と善と区別すべきなんだ。

 そうすることで初めて、善意は救われるのではないのか。

なのにあいつは、人の感情など一切斟酌しない。まるでそんなものに価値などないのだと断ずるかのように平等に扱っている。俺はそれがなによりも気に食わなかった。


「もし人助けをして、相手がちゃんと感謝してくれる世の中になれば……平野さんは進んで人助けをしてもいいって思えますか?」

「……かもな」

 川瀬が何を確認したがっているのかよく分からなかった。

「じゃあ……」

 川瀬はそこで何かを思いついたのか、ニコリと笑って言った。


「――平野さん、私の人助けのお手伝いをしてくれませんか」


「……は?」

 川瀬はさも名案だと言わんばかりにフフン、と笑っているが、彼女が何を言っているのか全く理解できなかった。

「私、やっぱり人助けがしたいんです。それはこの先もきっと変わりません。だから、平野さんはそのお手伝いをしてください」

「待て待て、〝だから〟の使い方がおかしい。なんで俺がお前を手伝わなきゃならないんだ」

「『手伝わなきゃならない』んじゃないんです。〝平野さんが自分で手伝うんです〟。私は、平野さんは自分のために善行を積む人じゃないって知ってます。だから平野さんが私のお手伝いをしてくれたら、〝私は平野さんに心から感謝できます〟」

「……っ」

「それに、もし私が平野さんの言うように、自分を蔑ろにして誰かを助けようとしたら、そのときは止めてください。そしたら……」

 そしたら、俺はもうこんな想いを味わうことはない、ということか。


「……なんか随分お前に都合のいい提案だな」

「平野さんは善行に見返りを求めないんですよね」

 ……ほーう。こいつはなかなか……思っていたよりも面白い性格してるようだ。


「私、平野さんは優しい人だって思ってます。他人のことを本気で心配して、他人のために本気で怒れる人だって。そんな人が、偽善者だと思われるから人助けできないなんて、可哀想です。平野さんには、ちゃんと感謝してくれる人がいるんだって……その優しさを分かってあげられる人がいるんだって知ってほしいんです」

「……」


 川瀬は曇りのない瞳でそう言った。

 偽善と笑われても善行を止めない川瀬と、偽善と笑われる善行に意味はないと断言する俺。相反する考え方をもった俺達。

俺が川瀬に付き合うことで、川瀬の考えを理解する。一方で俺に川瀬のいき過ぎた人助けを止める機会を与えることで、川瀬も俺の考えを尊重する。そうして川瀬は俺に歩み寄ろうとしているのだ。どちらもが納得できる答えを模索するために。

それを、俺の方から突っぱねるなんて真似ができるはずもない。


「……まあ、たまにならいいけど」

 俺がそう言うと川瀬は、ぱぁ、と明るい表情を浮かべた。

「じゃあ、これからよろしくお願いします平野さん」

 屈託のない笑顔を浮かべる川瀬に、俺は何とも言えない苦笑を返すことしかできなかった。

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