第9話 一生は死ぬまでの準備期間なのか


 それからまた一週間は麻衣と一緒にボランティアを続けた。

 和樹のように善行がしたくてもできない人がいる、なんて話を聞かされたからだろうか、なんだか以前よりやる気は増していた気がする。

 土曜日には約束通り和樹のお見舞いに行った。

 前回に病室を見たところトランプなどのゲームは見当たらなかったので、今回はそれを持っていくことにして、和樹と麻衣と俺の三人でいろいろなカードゲームを遊んだ。


 週明けの月曜日、俺は登校中の電車の中で翔子に話しかけた。

 実はかなり前から麻衣に言われていたことだったのだが、翔子もボランティアに誘ってみてはどうか、という話だった。

 翔子もポイントを稼ぎたがっているし、いいボランティアがあれば紹介してくれと麻衣に頼んでいたことを麻衣は気真面目に覚えていたようだ。

 だがその提案は俺が断り続けていた。

 あれだけ偽善を否定していた俺がボランティア活動に精力的に取り組んでいる姿を翔子に見られるのはなんか嫌だった。一学期が終わるまで茶化され続けそうな気がした。


 だが麻衣の強い希望もあって、俺はとうとう翔子を誘う約束をしてしまったのだった。

「いや、私は遠慮しとくよ」

 だが意外にも翔子は誘いを断ってきた。

「あんた達のお熱い仲に水を指すほど私も野暮じゃないよ」

「またそれか。違うっつってんだろ色ボケ女」

 翔子は俺と麻衣が付き合っているものと確信しているのか、もう何を言っても「照れちゃってー」と聞く耳を持たない。


「付き合ってないにしてもさ、あんた変わったよね。あの子のおかげでしょ?」

「……さあな」

「まさかあの雄一がボランティアとはね。ここ三週間はみっちり善行積んでたんだって?」

「お前の事も追い抜いちまうかもな」

「舐めんじゃないよ。三週間ぽっちじゃ一○○ポイントも貯まんないんだから」

 週四日ボランティアしたとして、三週間で一二回。一回およそ五ポイントとして六○ポイント。あとは小さいのを含めても六五ポイントといったところか。


 ……この三週間それなりに頑張ってきたと思うが、それでもその程度だ。和樹が残り五○ポイントで天国に行けると聞いたときは光明を見たような気がしたが、こう考えると先は長い。

「今まで人間レベルなんて、って馬鹿にしてたけど、実際やってみると翔子の凄さが分かるよ」

「……ま、まあね。ちょっとやめてよ急にそういうの」

 翔子は顔を隠すようにそっぽを向いた。


「まあ、麻衣は更にその二倍すごいけどな」

「はいはい嫁自慢乙です」

「誰が嫁だ」

「ほら、奥さん来たよ」

 駅に到着して、麻衣が乗車してきた。ニヤニヤと笑う翔子を軽く小突いて、俺は席を一人分開けた。







「雄一お兄ちゃんは麻衣お姉ちゃんと付き合ってるの?」

 俺のジョーカーを見事に避けてババ抜きに勝利した和樹が唐突にそう言った。

「……和樹、お前もか」

「カレシなの?」

「違うよ。お友達だ」

 俺はカードをシャッフルしながら周囲を確認した。麻衣は今飲みものを買いに行っているから病室には俺と和樹の二人しかいなかった。


「でもお姉ちゃんいっつもお兄ちゃんのこと話してるよ」

「最近はよく一緒にいるからだろ。放課後も一緒にいれば笑い話の一つもある」

「やっぱりカレシなんだ!」

「最近の子供はマセてるな」

 俺は軽く笑いながらカードを配った。


「お姉ちゃん最近すっごく笑うようになったんだ。お兄ちゃんがカレシになったからだね」

「今までは笑ってなかったのか?」

「うん。お姉ちゃんここにくると凄く悲しそうな顔してた。でも最近は凄く楽しそう」

「それは俺のせいじゃないよ」

「じゃあなんで?」

「それは……お前の病気が良くなってきてるから嬉しいんじゃないか?」

 俺はカードを整えながら嘘を吐いた。カードを高く持って、顔が和樹に見えないようにした。


「僕の病気良くなってるの?」

「ああ」

「そっか……僕、てっきり悪くなってるとばっかり思ってた」

「……どうして?」

「だっていつもしんどいし、胸が痛くなるし……僕もうすぐ死んじゃうんだと思ってた」

「……」

 馬鹿なことを言うな、と言ってやれない自分に心底腹が立った。

 動揺を隠すために、手札にあるペアのカードを見つけるのに驚くほどの時間がかかった。

 

「……死ぬのは怖いか?」

 そのくせ、そんな訊かなくていいことを訊いてしまった。

「うん。だって死んだらお父さんとかお母さんとか、お姉ちゃんとかお兄ちゃんに会えなくなるから」

「死んでも天国で会えるさ」

 和樹の手札から一枚抜きとりながら言った。和樹は俺の手札を取ることはせず、静かに首を横に振った。


「僕は死んだら地獄に行くんでしょ? 他の人は皆天国に行くから会えなくなっちゃう」

「なんでだよ。お前も天国に行くんだ」

 俺は動揺を打ち消すように語気を強めた。こんな小さな子供が、自分が地獄へ落ちることを受け入れて、諦めて……そんな姿はとても直視できなかった。

「でも僕、ポイント足りないし」

「なら貯めればいいだけだ」

 いてもたってもいられなくなり、俺は手札を机の上に放り出し椅子から立ち上がった。


「和樹、トランプなんかやめて何かしよう。なにか善いこと……ポイントになることを」

 たった五○ポイントだ。俺みたいなろくでなしが三週間とかからず貯めることができたポイントだ。麻衣の弟にできないはずがない。

 この病室に初めて来た日から、入院中の子供にもできるボランティアをずっと考えていた。だが妙案は全く出てこなかった。献血は医者から止められ、内職を探してもみたがほとんどが正式な仕事としての募集しかしていなかった。

 人の役に立つことをしても、それを仕事としてこなしてしまうと途端にもらえるポイントは少なくなってしまう。相変わらずポイントを与える基準が理解できないが、こうなってしまうともうほとんど手詰まり状態だった。


「僕、トランプしたい」

「トランプは……また今度にしよう。それより今はもっと、なにか……」

 なにか、の後に続く言葉が思いつかない。どうして俺の頭はこう発想力が貧困なんだ。

「ねえ、ババ抜きしたいよお兄ちゃん」

「今はそれよりもポイントを稼ぐことを考えろ」

「どうして? 僕の病気良くなってるんでしょ?」

「――」

 その一言で、俺はもう何も言い返せなくなってしまった。


「ああ……そうだな」

 俺は力が抜けたように椅子に座り直し、机に放ったカードを回収した。和樹は嬉しそうに俺の手札からカードを抜きさり、ペアになったカードを捨てた。

「ごめんなさい遅れました。和樹の好きなジュースが売り切れで」

 麻衣がジュースの缶を三本持って戻ってきた。

「あれ、どうしたんですか雄一さん」

「何がだ」

「いえ、とても暗い顔をしてたので」

「ああ……今ジョーカーを引いちまったからな」

「ず、随分真剣にやってるんですね」

「ねえ、お姉ちゃんは本当にお兄ちゃんのカノジョじゃないの?」

「え、えぇ!? ま、またそんなこと言って和樹――わったた!」

 動揺して缶を落としそうになる麻衣。それを見てケタケタと笑いながら、俺の手札からカードを抜く和樹。


「はい上がり! 僕の勝ち!」

「おい麻衣もババ抜きやろうぜ。こいつ強いわ、勝てねえ」

 もう四連敗した。普通に負けてる……なんでだ。

「お兄ちゃんすぐ顔に出るからよわーい」

「……おい麻衣、はやくやるぞ。お前になら勝てる気がする」

「どういう意味ですかそれ!」






「何度もお見舞いに来てもらって本当にありがとうございます」

 帰路の電車内で麻衣は改めて俺にそう言ってきた。

「見舞いに行きたいってのはもともと俺が言いだしたことだし、気にするな」

「和樹、すっかり雄一さんに懐いてましたね」

「素直でいい子だ。……」


 ……あんな子が地獄に落ちていいはずがない。

 神が許したって俺はそんなこと許さない。

「――俺も考えてみるよ。何かあいつでもできるようなこと。きっとなにかあるはずだ」

「……私は、今日みたいに普通に和樹とお話をしてくれるだけで満足です」

「それは……ポイントにならないことに残された時間を費やせってことか?」

「…………はい」


 麻衣は見ているこっちが苦しくなるほど辛そうにそう吐露した。その言葉を口にするのがどれほど麻衣にとって重かったか、俺にも分かった。

「私、ひどいお姉ちゃんなんでしょうか。弟が地獄に落ちるかどうかの瀬戸際だっていうのに」

「いや、実は俺もお前と同意見だ」

 え、と麻衣は驚いたように俺の方を向いた。


「俺も、正直に言うと和樹に残された時間は、善行とかそういうことに使うんじゃなくて、もっと楽しい思い出にしてやりたい」

「雄一さん……」

「でもあいつが地獄に落ちるのなんてもちろん嫌だ。だから正哉さんがやってることも否定できない。ならせめて俺達だけは、もっと違うことであいつを喜ばせてやりたいって思ってる」

 それが俺の本心だった。


 息子が天国に行けるように尽力する。それは親として当然の考え方だと思う。

 だが、死が間近に迫った息子との貴重な一時の過ごし方として、あんなものは絶対に正常とは言えない。

 俺は……あいつに残された最後の時間は、死後のための準備なんかではなく、もっとありふれた……家族との大切な団欒や、かけがえのない思い出になるようなものであってほしい。

 残された時間の大切さは、ポイントが足りてないという焦燥ではなく、別れを惜しむことで感じてほしい。そうして、


〝――よかったわね雄一〟


 ……そうして、俺はただ、純粋にあいつの死を悼んでやってほしい。

 それが人生を生きるということじゃないのか。人が死ぬということじゃないのか。

 精一杯生きるということは、精一杯ポイントを貯めるという意味ではないはずだ。

 そうでなければ、人の一生とは……まるで死ぬまでの準備期間のようじゃないか。






「子供を喜ばせるコツ? なに、今度は幼稚園のボランティアでもするの?」

 休み時間に翔子に相談すると、翔子は感心半分、からかい半分といった感じで眉を寄せた。

「いや、麻衣の弟が入院中でな。たまに見舞いに行かせてもらってるんだ」

「わお、もう家族ぐるみのお付き合いしてるんだ」

 ほんとにしつこい女だなこいつは。


「お前、そういうボランティアしたことないのか?」

「あるよ。私は孤児院のお手伝いをするアルバイトだったけど。割と悪くなかったよ。思ってたよりポイントも貰えたし」

「ポイントはどうでもいい。どんなことしたんだ?」

「普通に子供と遊んだり、掃除とか料理を手伝ったり……まあ普通だったよ。多分なにも参考にならないと思う」

「そうか……」

 それだって翔子のことだから、ほどほどに流すような感じでこなしていたんだろう。


「あー、そういえば、そのとき一緒にボランティアしてた女の人が、手作りクッキーを持っていってたよ。何気にポイント高いらしいんだよねアレ」

「ほう」

 翔子から興味深い話が出てきた。俺はわずかに身を乗り出して詳しく話してくれと頼んだ。


「ポイント貰えるっていうから詳しく訊いてみたんだけど、クッキー以外にも、おもちゃとかいらなくなった服とかあげてもポイント貰えるんだって」

「ポイントはいいから、子供たちは喜んでたのか?」

「受けは結構よかったよ。子供だから人間レベルのことよく分かってないみたいだったし、純粋に感謝してた気はする」

「なるほど」

 クッキーか。俺には作れそうもないが、これを機に覚えてみるのもいいかもしれない。いらなくなった服は……さすがに子供用のものなんて残ってないか。


 他に俺にあげられるものは……もう遊ばなくなった携帯ゲーム機とかなら喜んでくれるかもしれない。入院中は暇だろうし、なんなら最近流行ってるソフトの一本でも買ってやってもいいかもしれない。

「わかった。ありがとな翔子、参考になったよ。お前がいろんなボランティアしててくれてよかった」

「――べ、別に大したことじゃないし。悩み相談とかでもポイント入ることあるからやってみただけだから」

 その翔子の反応に俺は軽く吹き出してしまった。

 こいつ今までいろんなボランティアしてきたくせに、感謝されるってことに全然慣れてないんだな。






「うわー、パズモンだ!」

 和樹は目を輝かせながらゲームのパッケージを手に取った。今若者の間で空前のヒットを飛ばしている新感覚パズルゲームだ。

「本当にもらっていいの?」

「ああ、そのために買ってきたんだ、貰ってくれないと困る」

「やったぁ! ありがとう!」

 和樹はすぐさまパッケージを開封し携帯ゲーム機の電源を入れた。


「本当にいいんですか、あんな高そうなもの……ゲーム機まで」

「構わねえよ。俺はもう遊ばないし、高いっていっても知れてる。食い物は食ったら終わりだけど、あれなら一人のときでも退屈しないだろうし」

「本当にありがとうございます。お代はいつかお返ししますんで」

「いいって。それより喜んでくれてよかった」

 今の子供の感性なんて俺には分からないから、流行りのものを買ってくるしかなかった。もしもう持っていたり、和樹の好みに合わなかったらどうしようと不安だった。

「やった! 一○コンボ!」


 無邪気にはしゃぐ和樹。どうやら気に入ってくれたようだ。俺はほっと胸を撫で下ろした。

 そのとき、病室のドアを開けて二人の男女が入ってきた。和樹と麻衣の両親、正哉さんと早苗さんだった。

「やあ、また来てくれたんだね雄一君」

「何度もごめんなさいね」

「お邪魔してます。――?」

 二人に挨拶しようと振り返ったとき、早苗さんが両手に持っているものに目がいった。

 大きな袋を二つ持っていた。一瞬ゴミ袋に見えてしまった。というのも、中に入っていたものが大量の割り箸と、その割り箸の袋だったからだ。

「あら?」

 早苗さんは和樹の方を見てピタリと足を止めた。視線は和樹が遊んでいるゲーム機に注がれている。


「あれは……?」

「あ、これ雄一さんが和樹にプレゼントしてくれたんです」

「ほう、本当かい。申し訳ないね雄一君、あんな高そうなものを」

「いえ、お気になさらず」

 嬉しそうに笑う麻衣と正哉さん。一方で、早苗さんは微妙に目を細めていた。


「……どうもお疲れさま」

 穿ち過ぎかもしれないが、どうにも感謝している風ではなかった。別に感謝されたくてやったわけではないが、何か余計なことをしてしまっただろうかと思ってしまった。

「和樹、一旦ゲームはやめてお母さんのお手伝いをしてちょうだい」

 早苗さんは二つの袋を手にベッドに近付いた。

「でも、闇のティガレックスを倒さないと……」

「ティガレックスは逃げません。ほら、ゲームを置いて」

「……はーい」

 和樹は渋々ゲーム機の電源を切って机の上に置いた。


「和樹、今度お母さん内職をしようと思ってるの。だから和樹にそのお手伝いをしてほしいの。やってくれるわね?」

 早苗さんは袋からそれぞれ割り箸と袋を取り出した。

「この割り箸を、この袋に入れるだけ。簡単でしょう? これだけでいいの。できるわね?」

「うん……」

「……」

 内職か。確かにあれくらいなら和樹でも十分できるだろう。無論、金銭がほしいわけじゃない。和樹の人間レベルを上げるためだ。


 だが……こんなものでは本当に気休め程度にしかならないはずだ。しないよりはマシ、くらいだろう。それにすら縋らなければならない状況ということだろうか。それとも、やはり皆もう和樹ができる善行など出尽くしてしまって思いつかないのだろうか。

 和樹は言われた通りに淡々と割り箸を袋に詰め始める。早苗さんは満面の笑みで和樹の頭を撫でた。

「そうそう、いい子ね和樹。偉いわ。きっと神様も褒めてくださるに違いないわ」

「……ねえ、お母さん。折角みんなでお見舞いに来てるんだし、もっと楽しいことしようよ。内職は皆が帰ってからでもできるんだし」


 麻衣はそう言ってトランプに手を伸ばしてカードをシャッフルしだした。

 すると突然、早苗さんはものすごい形相で麻衣の手を掴んで制止した。

「なに言ってるの麻衣。いま和樹が一生懸命お手伝いをしてるところでしょ。邪魔しちゃいけません」

「で、でも……」

「麻衣。あなたお姉ちゃんでしょ?」

 まるで睨みつけるように麻衣を諭す早苗さん。麻衣は数秒の沈黙の後、静かにトランプを机に戻した。


 部屋に静寂が訪れる。和樹が内職をこなす音だけが微かに流れた。

 ……とても子供のお見舞いに来ている風景ではない。が……他人の俺が口出しできる問題でもない。


 早苗さんは早苗さんで真摯に和樹のことを思ってしていることだ。そしてそれは決して間違っている、と糾弾できるようなものではない。和樹の未来がかかっているのだから。

「……あの、よかったら俺も手伝いますよ」

 重苦しい空気に耐えられず俺が申し出る。

「皆でやったほうが早く終わりますし、和樹に全部任せるのもアレなんで」

「あ、じゃ、じゃあ私も!」

 麻衣が俺に続き、袋から割り箸を取り出そうとする。


「やめてちょうだいッ!」


 途端、早苗さんが大声をあげて袋を麻衣から奪い取った。俺と麻衣は突然のことに目を丸くして立ちつくした。和樹も手を止めて驚いたように茫然としていた。

「邪魔しないでって言ってるでしょう! これは和樹がやらなくちゃいけないことなの! 誰かが手伝って、貰えるポイントが下がったらどうしてくれるの!」

「さ、下がりませんよ。手伝ってもらってもポイントは下がりませんし、こなした量も関係ありません」


 それは何度も確認したことだ。だからこそ麻衣は皆に多くの仕事を押し付けられてきたのだから。

「それはボランティアの話でしょう? 和樹は今仕事としてやっているのよ。ボランティアと仕事じゃ善行の基準が違う。ポイントが下がらないなんて保証はないでしょう」

「――ちょっと待ってください、それは……」

「それは変だよお母さん。和樹は今お母さんの〝お手伝い〟をしてるはずでしょ?」

「……ッ」


 早苗さんが唇を噛む。

 和樹が手伝いをしているというのが建前だということくらい、俺にだってわかる。しかし、〝和樹がしなければならない〟なんて、それは一番やっちゃいけないことだ。


 それは明らかな『善意の強要』だ。内職をさせるにしても、それはあくまでも和樹がそれを納得して自ら行わなければ意味がないはずだ。

「そんなこと……私だって分かっています。でも、このままじゃ和樹が……」

 歯を噛みしだく早苗さん。その表情から、やりきれない気持ちがひしひしと伝わってくる。

「大丈夫だよ、お兄ちゃん」

 そのとき、和樹が俺に向かってにっこりと笑った。


「割り箸つくるの楽しいよ。お母さんのお手伝いできるのも嬉しい」

「和樹……」

 そう言って和樹はまた黙々と作業を再開した。

 まだ八歳の少年が病気に苦しみ、長い入院生活に耐え、それでも笑顔を絶やさずに自分のするべきことを受け入れている姿を見て……俺にはもう口を挟む余地などどこにもないのだと悟った。


「雄一君、ちょっと」

 不意に正哉さんが俺の肩に手を置き、呼びかけてきた。

 話があるから外に出よう、ということのようだ。俺は黙って従い、病室の中に声が聞こえない位置まで移動した。


「妻が申し訳ないことを言ってしまった。本当にすまない。君に悪気がないことは妻も分かっているんだ」

「……いえ、俺の方こそ、出過ぎた真似をしてしまいました」

 正哉さんは、ふっと微笑んだあと、すぐに真剣な表情を浮かべた。

「だが分かってほしい。私たちも必死なんだ。なんとかしてあの子を天国に連れていってやりたい。それが親としての最低限の責任だと思っている」

「……分かります」


「息子の身体は、日に日に弱っていっている。最近はあまり食欲もないらしいし、軽い発作も頻繁に起こっていると医者から聞いた。……希望を捨てたくはないが……おそらく息子に残された時間は少ない。これが最後のチャンスなんだ」

 俺は黙って頷くことしかできなかった。早苗さんの言う通り、俺のやっていることはただの迷惑にしかなっていないんじゃないかとすら思えてきた。


「……すみません、今日はもう帰ります」

「……そうか、気をつけて帰ってくれ。よかったらこれに懲りず、またいつでも遊びに来てくれ。和樹もきっとそれを望んでいる」

 俺は頷いて、正哉さんと共に病室に戻った。帰る旨を伝えて、そのまま逃げるように病院を去った。


 帰りしなに俺はずっと考え続けた。

 俺は和樹のために何をしてやれるのか。何をさせるべきなのか。答は出なかった。きっと誰にも正解など分からないのだろう。

 ……いや、神にならそれが分かるのかもしれない。

 だがあいつはきっと教えてはくれないだろう。あいつはただ評価し、選別するだけだ。

 もし和樹が死んだなら、あいつは迷うことなく和樹を地獄に落とすに違いない。

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