第8話 その善行は誰のためか


 土曜日。俺は待ち合わせしていた駅で麻衣と合流した。

「わっ、そんなにたくさん果物を……気を遣わせてしまって申し訳ないです」

 俺が持ってきた果物の詰め合わせを見て麻衣はぺこりと頭を下げた。

「気にしないでくれ。花にしようかとも思ったんだけど、男の子なら食い物のほうがいいかと思って」

 トランプとかもいいかも知れないと思ったが、もしもう持っていたら意味がないし、食い物が一番いいだろうと考えた。


 麻衣の弟、和樹君が入院している病院は待ち合わせの駅から一時間近くも離れた場所にあった。確かに放課後に通えるような距離ではなかった。

「お父さんとお母さんももう病院についたらしいです」

 麻衣はメールを確認しながら言った。移動中の電車内でいろいろと和樹の話を聞いた。麻衣の両親は最近ではほとんど毎日病院に通っているらしい。

 ここ一年は一度も病院から外に出ていないらしく、無論学校にも通えていない。いろいろと辛い思いをしているだろう。

 俺が話し相手になることで少しでも孤独が紛れるなら、休日が一日潰れるくらいなんてことないか。




 病院に到着すると、麻衣はもう顔見知りになった看護師と一言二言会話をして、病室まで俺を案内してくれた。

 ドアをノックすると中から「どうぞ」と声が聞こえてきた。

「来たよー和樹」

「お邪魔します」

 麻衣に続いて俺が入室する。中にはベッドで横になった少年と、その両親らしき人物がいた。


「紹介するね。メールでも言ったけど、同じ学校の友達の平野雄一さん」

「はじめまして」

 俺が軽く会釈すると麻衣の両親は笑顔で出迎えてくれた。

「よく来てくれたね。私は父の正哉。こっちが妻の早苗だ」

 人の良さそうな正哉さんが握手を求めてきたのでそれに応じる。するとベッドの傍らで座っていた早苗さんも俺の方へ歩み寄ってきた。


「先日は娘の事故でお世話になったようで……本当にありがとうございます」

「いえ、大したことしてませんよ」

 むしろ病室で暴れそうになって迷惑かけたくらいだし。

「お姉ちゃんのカレシなんだよね?」

 和樹が楽しそうに笑う。麻衣は顔を赤くして和樹にチョップした。

「だから何度も言ってるでしょ、違うってば」

「昔から友達の少なかった麻衣にもとうとう彼氏ができたか。雄一さん、娘のことよろしくお願いしますね」

「はは……」

「お父さんっ!」

 病室が和やかな笑いに包まれる。皆いい人たちのようでよかった。


「あ、これつまらないものですが」

 そう言って俺は持ってきた果物を机に置いた。

「まあ、わざわざお疲れ様。じゃあ早速みんなで食べましょうか」

「ああ、そうしよう。和樹は何が食べたい?」

「リンゴ!」

「よし、じゃあリンゴから食べようか」


 正哉さんはそう言ってバスケットからリンゴを二つほど取り出すと、リンゴと一緒に果物ナイフを和樹に手渡した。

「和樹、すまないがリンゴを切り分けてくれないか?」

「うん」

 和樹は当然のように果物ナイフを手に取り、リンゴにゆっくりと刃を沈めていく。


「――――――――ん?」

 あまりに自然な流れで進んだので呆気に取られてしまったが……なんか……ん?


「――――い、いや! 俺がやりますよこれくらい! っていうか――」

 一瞬の空白の後にようやく違和感の謎に気づけた俺は咄嗟に和樹の果物ナイフに手を伸ばしていた。

 なんだ。まだ八歳の、それも病気の子供に果物を切らせるってどういうことだ。なにやってんだこの人達は。


「いやいやまあまあまあ。お気になさらず雄一君。――和樹、やってくれるね?」

「うん、いいよ」

 正哉さんが俺を制止する。和樹は気にせずリンゴを切り分け始めた。

「え、いや、でも……」

 麻衣の方を見ると、麻衣はなにやらいたたまれないような表情で視線を逸らしていた。


「そうだ雄一君、是非娘との関係を詳しく教えてくれないか。いやぁ父親として興味が尽きないものでね。おっとここでは娘に睨まれて話どころではないな。少し場所を変えようか雄一君」

 正哉さんは白々しい芝居がかった口調で俺を強引に病室の外へと連れ出した。俺は唖然としたまま正哉さんの後ろをついていった。

 病室から少し離れた、おそらく会話が病室の中へと聞こえないくらいの場所に到着すると、正哉さんは俺の方へと向き直った。


「あの……」

「すまなかったね、急に連れ出したりして。……まあ、初めて見ると驚くかもしれないね、さっきのようなことは」

「いえ……まあ……」

 正哉さんは重苦しい空気を放ちながらゆっくりと口を開いた。

「あれはね、あの子のためなんだ」

「どういう意味ですか?」

「くれぐれも和樹には内密にしてほしいんだが……実は息子の余命はもう多くは残されていないらしいんだ」


「……」

「いつ発作が来て亡くなっても不思議ではないと医者からも言われた」

「……なら尚更安静にしていないとだめなんじゃないですか? リンゴを切るくらい俺にやらせてください」

「……和樹はまだ八歳なんだ。これがどういう意味か分かるかね?」

 正哉さんがなにを言っているのか理解できず、俺はしばし頭を捻る。

 八歳の男の子。その子に残された余命は残り少ない。それはつまりどういうことか。


「――あ」

 その時、俺の脳裏に一つの可能性が閃く。

「……まさか、人間レベル」

「そう、和樹の人間レベルはまだ二○○ポイントに到達していない。二○○ポイント以下の者は地獄に落とされる」

「ちょ、ちょっと待ってください。だってそれは仕方ないじゃないですか。まだ子供なんですよ。善行なんて積めるわけがない」

「私も神にそう言った。だが神は……決まりだから、と」

 ……あの女。


 煮えるような怒りが俺の胸を支配していく。

「私はなんとしても息子を地獄になんて落としたくはない。だから死ぬまでに無理矢理にでも善行を積ませて、ポイントを稼がせてあげたいんだ」

「……」


 リンゴを切り分ける、なんてのは序の口なのだろう。きっと正哉さんは……いや、早苗さんも麻衣も、皆必死で何か和樹に〝させてあげられる〟善行はないかと探し回っているに違いない。

 だが……ない。病室から出られない病気の子供にできる人助けなど、そうそう見つからないだろう。それはここ数日、町を散策しながら俺が導き出した回答だ。

人々が善行を進んでするようになってからは、自分からボランティアに参加でもしない限りは善行を積む機会などはなかなかないのだ。ましてや病室の中で出来る善行など。


「雄一君、君も何か困ってることがあったら遠慮せずに教えてくれ。――いや、遠慮なんて話じゃない。是非教えてくれ。頼む」

「……わかりました」

 と言われても、パッと思いつくようなものはない。

 同年代の友人になら、例えば宿題を頼むとか、悩み事を相談するとかできそうだが、八歳の男の子に何を頼めばいいのか……。


 いや……そもそもそんなものが人間レベルの加点対象になるのか? 前の夢審査では、点数にならなさそうな小さな善行は、全てひっくるめて一ポイントにしかならなかった。

 いま和樹が何ポイント持っているのかは知らないが、二○○ポイントとなると……。


 それに、『善行をさせてあげてくれ』なんて、それはまさに俺が一番嫌う、する側とされる側の力関係が逆転した歪な善行の典型例じゃないか。

 そんなことをあの子にさせるなんて……いや、もうそんなことを言っている場合ではないのかもしれない。


「……折角お見舞いに来てもらったのに、こんな暗い話をしてしまってすまないね。病室に戻ろうか」

 俺は黙って頷いて病室に戻った。既に和樹はリンゴを切り分け終えており、美味しそうにリンゴを頬張っていた。


「おお、凄いじゃないか和樹! こんなに綺麗にリンゴを切り分けて」

 正哉さんは多少オーバー気味に喜びの声をあげると、リンゴを口に運んだ。

「美味い! やっぱり和樹が切ってくれたと思うと美味しさも全然違うな!」

「ほんと!?」

「ええ、とっても美味しいわ和樹。雄一さんも、どうもありがとう」

「いえ……」

 ぎこちない愛想笑いを浮かべて視線を逸らすと、麻衣が気まずそうに俯いている様子が目に映った。


「そうだ和樹、父さん今度会社で新商品を出すことになったんだが、商品のキャッチフレーズが決まらなくてとっても困ってるんだ。助けてくれないか」

「きゃっちふれーず……って何?」

「そうだな、その商品を一言で表すというか……例えばリンゴだと、『甘くておいしい!』とかそういうのだ」

「でも僕、あんまりよく分からないし……」

「大丈夫よ和樹。こういうのはね、子供の方がいいのを思いついたりするんだから」

「そうだぞ、なんでもいいから、適当に言ってみてくれ」

「えーそうだなぁ……じゃあ、『とってもワクワク、楽しくて面白い!』とか!」

「おお、いいじゃないかそれ! それにしよう!」

「ええ、本当に。すごくいいわねそれ」

「やっぱり和樹はセンスがあるな。いやぁ、本当に〝助かったよ〟」

「ねえ和樹、私新しい服を買おうと思ってるの。でも迷ってて。この雑誌の、これとこれなんだけど……どっちがいいと思う?」

「うーん、こっち!」

「ああ、和樹の言う通り、こっちのほうがいいよ早苗」

「あらそう? じゃあこっちを買うわ。ありがとう和樹、助かったわ」

「そういえばな和樹、実はもう一つ困ってることがあって」

「……すみません、ちょっとトイレ」

 見ていられなくなり、俺は逃げるように病室から出た。




 休憩所でコーヒーカップを片手に少し気持ちを落ち着ける。知らず、掌で額を覆っていた。

 そこへ、コツコツと足音が聞こえてきた。麻衣だった。俺が病室を出るのを見て追いかけてきたようだ。

「……すみません雄一さん。恥ずかしいところ見せちゃって」

「別に恥ずかしくねえよ。二人とも必死なんだろ。気持ちはわかるよ」

「ありがとうございます。私、雄一さんに呆れられちゃったかと思いました」

「呆れたりするか。……ただ」

 ただ……憐れだとは思った。痛ましい光景だと。


「私いろんなボランティアしてるじゃないですか。だからよく両親に、和樹でもできるボランティアはないのかって訊かれてて」

「……なかなかないよな」

 麻衣は悲しげに、はい、と頷いた。

「訊いちゃ悪いかもしれないけど、和樹は今どれくらいポイントを持ってるんだ? それと……あー……」

「……余命はわかりません。発作自体は明日来てもおかしくないって言われました。でも、上手くいけば一年もつかもしれないって」

「そうか……」

 最長一年……それが和樹に残されたタイムリミットということか。


「和樹の人間レベルは一五○ポイントくらいだって言ってました」

「一五○! なんだ、なら……いや、悪い」

 思わず口が滑りそうになったのを抑える。だが、残り五○ポイントなら、上手くいけば望みはある。なるほど二人が必死になるわけだ。


「なにかあの子にしてあげられる……ううん、させてあげられることがあればいいんですけど」

「寄付はどうだ? 和樹に小遣いでもなんでもいいからあげて、それを寄付させれば」

 麻衣は複雑そうな面持ちでうっすらと笑った。

「それはもうやりました。でも和樹のポイントは上がらなかったんです」

「どうして」

「神様は『善意の強要はだめだよ』って言ってました。寄付した分のポイントは、和樹にお金を渡したお父さんのものになっていました。お父さんは喰ってかかったらしいですけど、『ズルは認めません』って言われたそうです」

「あいつ……普段は結果が全てみたいなこと言ってるくせに」

 どうしてそういう時だけ意地の悪い判定を下すんだあいつは。性根がねじ曲がってるにも程がある。


「私……人の役に立てるのが嬉しいから人助けをしている、って言ったじゃないですか」

「ああ」

「それはもちろん本当なんですけど、でももしかしたら、和樹に引け目を感じているのかもしれません」

 麻衣の言いたいことは分かる。

 ポイントが足りなくて善行がしたいのにできない、そういう弟が身近にいる。なのにいつでも善行ができる自分がそれをしないのは、和樹に申し訳ないと感じているということだろう。


「和樹が入院したのは一年くらい前なんだろ? それまでにもお前はたくさん善行を積んできたんだ。弟がどうってのは後付けだ。引け目を感じる必要なんてねえよ」

「……ありがとうございます」

「戻ろう。折角お見舞いに来たんだ。いろいろ話もしたいしな」

 俺は呑みかけのコーヒーをゴミ箱に放り込むと、麻衣を連れて病室に戻った。




 その日は和樹と色んな話をした。

 ありふれた世間話が主だった。麻衣は学校でどんな奴だとか、この二週間で参加してきたボランティア活動での麻衣の活躍や失敗、笑い話などをすると、和樹は楽しそうに聞いてくれた。

 麻衣も負けじと俺の話をしだしたが、結局麻衣が話す俺の話は、俺がボランティアを手伝ってくれて助かるだとか、雄一さんは皮肉屋だけど本当は優しいだとか、そういうことばかりだった。俺は何度も歯が浮きそうになった。もしかするとそれが麻衣なりの仕返しのつもりだったのかもしれない。


 和樹は素直でよく笑い、子供にしては達観していてどこか大人びた雰囲気すら感じた。本当にいい子だった。

 面会時間ギリギリまで俺は和樹との話に花を咲かせ、帰り際にまた来週くると伝えた。

 川瀬夫妻からは夕飯をご馳走させてほしいと言われたが、俺はやんわりと断った。そんな大層なことをしたつもりもない。

 最後に一度だけ、正哉さんは『例の事』をくれぐれも和樹には秘密にするように念押しした。


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