第10話 善と偽善はどう違うのか
翌日の日曜日。俺は昨日に続いてまたしても病院に向かっていた。
いつもは見舞いに行くのは土曜日だけだったのだが、何か落ち着かなくて結局行くことにした。
麻衣にそのことを伝えると、麻衣もついてくると言いだしたので、いつものように駅前で待ち合わせをした。
「――昨日は本当にすみませんでした。母が失礼なことを」
麻衣は電車の中で改めて頭を下げてきた。
「昨日電話で何度も気にするなって言っただろ。誰が悪いってわけでもないさ」
今日の見舞いの品は花にした。ゲームはもうやめた方がいいだろうし、食欲もあまりないということだったので、花を病室に飾ってやろうと思った。
「父は少し遅れるそうなんですけど、母はもうすぐ着くって言ってました。多分私たちと同じ時間くらいに到着すると思います」
「そうか。昨日のことをしっかり謝っておかないとな」
「そ、それこそ気にしないでください。私はお母さんが悪いと思ってます!」
「悪くないさ。和樹のために何かをしてやりたいっていう気持ちはみんな同じだ」
「……はい」
麻衣はそれきり黙りこんでしまった。俺も何か話しかけるようなことはしなかった。代わりに昨日からずっと同じことを考え続けていた。
何が一番和樹のためになるのか。俺はあいつのために何をしてやれるのか。
病院に到着すると同時に麻衣の携帯電話が鳴った。メールを着信したようだった。
「お母さん今ついたらしいです」
「そうか」
もう少し早く来ていれば三人で病室に行くこともできたが、まあいいか。
俺たちはいつもの看護師に挨拶すると、もうすっかり覚えてしまった道を歩いて和樹のいる病室に向かった。
そして和樹の病室が見えてきたそのとき。
「――どういうことなの和樹!」
病室の中から怒鳴り声が聞こえてきた。俺と麻衣は互いに顔を見合わせてしばし硬直した。今の声は明らかに早苗さんのものだった。
慌てて病室に駆けこむと、早苗さんが割り箸の袋を片手に和樹に向かって怒鳴っていた。
「全然進んでないじゃないの! 昨日はいったい何をしていたの!」
「……ごめんなさい」
和樹はベッドの中でしゅんと丸くなっていた。
よく見ると、ベッドの中が微かに光っている。早苗さんもそれに気付いたのか、勢いよくシーツを引っぺがした。すると中から、電源のついた携帯ゲーム機が現れた。
「和樹あなた……まさか昨日ずっとゲームしていたっていうの? お母さんとの約束はどうしたの!」
「ちょ、ちょっと待ってお母さん!」
今にも和樹に掴みかからん勢いの早苗さんを麻衣が咄嗟に抑えつける。俺もそれに続いて、和樹を庇うように早苗さんの前に立った。
「ゲームなんて止めなさい! そんなもの何の役にも立ちません! そんな無駄なことに貴重な時間を費やしたら、あなた本当に取り返しのつかないことになるわよ!」
「落ち着いてよお母さん!」
麻衣に抑えつけられ、早苗さんは、はぁはぁと荒い息を吐いた。その視線はすぐに俺の方を向いた。キッ、とまるで敵を睨むような視線を受けて、俺は思わずたじろいでしまう。
――お前が余計なことをしたから。
そう言われている気がした。いや、言葉に出さないだけで、実際にそう心の中で思っていただろう。そう思わせるほど、早苗さんの眼光は鋭かった。
「……麻衣、ちょっと来なさい」
早苗さんは息を整えて麻衣を病室の外に連れ出した。二人が出ていった病室の中で、俺と和樹の二人だけが残り、気まずい沈黙が流れた。
「……悪かったな、和樹」
「どうしてお兄ちゃんが謝るの?」
「俺がゲームなんて渡したから怒られちまって」
和樹はふるふると首を横に振った。
「僕とっても嬉しかったよ。ゲームも楽しいし。僕がお母さんの言うこと訊かなかったのが悪いんだ」
和樹のその憐れなほどに健気な言葉に、俺は気のきいた台詞の一つもかけてやれなかった。
俺が黙って椅子に座ると、和樹はおもむろに口を開いた。
「僕、もうすぐ死ぬんでしょ?」
ぞくり、と巨大な氷を丸呑みしてしまったような悪寒が腹のあたりに落ちてきた。
「……なに言ってるんだ? 馬鹿なこと言うな」
声を震わせないようにすることがこんなに難しいということを俺は生まれて初めて知った。
だが俺の言葉など全て見透かしたかのように和樹は小さく笑った。
「お父さんやお母さんがあんなに一生懸命僕のためにいろいろしてくれてるのは、僕がもうすぐ死んじゃうから、それまでに僕にいいことを沢山させるためでしょ?」
「違う。あれは確かにお前のためだけど、別に死ぬとかそういうことじゃない」
「ふふ、嘘ついたら神様に怒られるよ?」
構いやしない。今この場で和樹に嘘を吐くことが悪行だと言うのなら、いくらでも減点すればいい。
「最近、ずっと胸が痛いんだ。お医者さんがいろんな薬をくれるけど、全部きかなかった。お父さんやお母さんが僕になにかさせようとしてる顔見てると、分かっちゃった。ああ、僕死ぬんだなって」
「お前は死なない」
「ねえ、地獄って怖いところなのかな。怖い鬼がいるって前に友達が言ってたんだ。そこで針を呑まされたり、熱いお風呂に入れられたりするって」
「お前は地獄に落ちない! 今まであんなに一生懸命善いことしてきただろ! 神はろくでもない女だが、したことはちゃんと見てる。お前がどんなにいい子だったかちゃんと覚えてる! お前の頑張ってる姿を見てても地獄に落とすようなら、あんな奴は神じゃねえ!」
知らず俺の声は大きくなっていた。自らの運命を諦めきった和樹の姿はとてもじゃないが見ていられなかった。
「でも僕は、もっと普通に皆とお話ししたかった」
そのとき、和樹の目から一粒の涙が零れるのが見えた。
「お父さんとお母さんは、お見舞いに来てくれてもいっつも僕にお願い事するばっかりで、全然お話ししてくれなかった。お姉ちゃんは僕と遊んでくれたけど、すぐにお母さんに怒られて……だから僕、お兄ちゃんが来てくれてすごく嬉しかった。トランプで遊んだり、面白いお話聞かせてくれたり、ゲームをくれたり、とっても楽しかった。本当にありがとう、お兄ちゃん」
和樹はそう言って、ぽろぽろと涙を流しながら笑った。間近に迫った死に怯えながら、それでも和樹は懸命に笑顔を浮かべようとしていた。
その痛ましい姿を見て――俺は和樹の手を硬く握りしめた。
「――安心しろ、もしお前が死んだら、俺も一緒に地獄に落ちてやるから」
気休めなんかじゃなく、俺は本気でそう口にした。この少年のためなら、それくらい出来ると心から思った。
「お兄ちゃんは天国に行くんでしょ?」
「いや、実は俺も全然ポイントなくてな。Fランクだ。だから俺も地獄に行くだろうよ。だから安心しろ、お前を一人にしない。死んでも俺が一緒にいてやる」
俺はそう言って和樹の頭を優しく撫でた。少しでもこの子が安心できるように。
「……そんなのダメだよ。お兄ちゃんは天国でお姉ちゃんと一緒に暮さなきゃ」
「お前たちは何が何でも俺たちをくっつけたいみたいだな。何度も言ってるが、俺たちはそういう関係じゃないから。何なら麻衣にも訊いてみろ。ちょっと呼んでくる」
俺は椅子から立ち上がって病室を出た。今あの子には人の温もりが必要だ。一人でも多くあいつの傍にいてやってほしい。
麻衣と早苗さんを探して病院内を歩き回る。二人は何か話をするためにどこかに移動したようだが、だとすれば近くの休憩所にいるかもしれない。
そう思って休憩所の近くまで足を運んだそのとき、
「――雄一さんはそんな人じゃないッ!」
曲がり角の向こうから麻衣の怒鳴り声が聞こえてきた。咄嗟に足を止める。
麻衣と早苗さんが言い争っているようだった。今まで聞いたこともないような声で怒鳴る麻衣。本気で怒っているようだった。
「そうとしか考えられないじゃない! お見舞いに来るのだって、あんな高そうなゲーム機をタダで譲ったのだって、全部自分の人間レベルを上げたいからに決まってるわ!」
「違う! 雄一さんは和樹のことを思って!」
「和樹のことを思うならあの子の人間レベルを上げようとするはずじゃない! なのに自分のポイントになるようなことばっかり! 彼は和樹のことを利用しているだけよ! 偽善者よ!」
「――ッ! …………今わかった。お母さんみたいな人がいるから……」
「なに? なんですって?」
「――お母さんみたいな人がいるから、雄一さんは人助けが嫌になったんだ! 人間レベルが嫌になったんだ!」
「あ、待ちなさい麻衣!」
麻衣が向こうへ走り去る足音が響く。早苗さんの苛立ったような嘆息も、いやに俺の耳に残った。
「…………」
俺は曲がり角から顔を出すこともできず、脱力したようにその場に突っ立っていることしかできなかった。ただ、心臓を鷲掴みにされているような鈍い痛みだけがあった。
――偽善者。そう呼ばれてしまった。
他人のことを心から思い、相手のためになることをする。それが真の善だとするならば、俺は確かに偽善者なのかもしれない。
和樹に何をしてやればいいのかすら分かっていない俺のような奴は、本当の意味で人の役に立っていると言えないのかもしれない。
それによって和樹が地獄に落ちて、あのときお前が余計なことをしなければ和樹は天国に行けたかもしれないのに……なんてことを言われたら、俺はきっと何も言い返すことができないだろう。
あいつに残された時間を楽しい思い出で埋めてやりたいなんていうのは、それはあくまで俺の願望だ。俺のためにやっていることだ。
『自分のために他人を助ける』……それは偽善だと、俺は何度も考えてきたはずだ。
俺は自分の偽善に和樹をつき合わせて、結果あいつを地獄に落とすことになるかもしれない。
そう考えれば、俺のやっていることなんて独りよがりな自己満足でしかない。早苗さんが怒るのも無理はない。
「……じゃあ善ってなんなんだ」
そんなものはこの世に存在するのか? 善と偽善は……いったいどう違う?
麻衣と出会う前……俺は他人の善性を計ることができなかった。誰もが偽善者に見えていた。
でも……俺にそう見えていただけで、本当は心から善意で人助けをしていた人だっていたんじゃないのか?
そんなものはどうやって見分ければいい? 自分の心をどう説明すればいい?
――俺は和樹を助けたい。本当です。嘘じゃありません。
――何故?
――理由はありません。ただ和樹に笑顔になってほしいんです。
――何故?
――大切だからです。和樹がいい子だからです。本当です。
――本当に?
――人間レベルを上げたいからなんじゃないのか?
「……くそ」
俺は力なく廊下に座り込んだ。
実際に自分が誰かを助ける側になって、俺は初めて思い知った。他人の善性を計ることよりも、自分の善性を他人に伝えることの方が、何十倍も難しいんだ。
麻衣はもうずっと何年もこんな気持ちだったのだろう。誰かを助ける度に、何故、何故と訊かれ続ける。
それは麻衣の善意を信じられないからだ。善意を疑ってしまうから、その真意を聞いて納得したいんだ。
でも理由なんてない。ないんだ。俺は和樹を助けたい。麻衣もきっとそうだ。麻衣だって、見知らぬ誰かを助けたい。理由なんてない。ただ助けたい。どうしてそれが理由にならない?
どうして理由が必要なんだ。
どうして人は、人の善意を疑うんだ。
「……いや、俺だって同じだ」
俺だって他人を信じられなかった。麻衣のことも理解できなかった。姉さんのことを知っていたからまだ受け入れられたが、他人には麻衣の考えなんてまるで理解できないだろう。
そんなときに人間レベルなんてものができたもんだから、誰もがそれで納得してしまった。今まで意図が不明だった善行に、単純明快な〝理由〟ができてしまった。
『人間レベルを上げたいから』。こんなに納得のいく理由なんて他には絶対に見つからない。
――じゃあ、人の善意はどうやって計られる?
まさに今のこの状況。俺が和樹を助けたいと思うこの気持ちが善か偽善か……俺自身ですら明確に判断できないものを、どうやって区別すればいい?
結局、全ては結果ありきの話ではないのか。人の気持ちを計れないのなら、その行動の結果から善意を計るしかない。
和樹が天国に行ければ善、行けなければ偽善。
それは凄くシンプルで、分かりやすくて、でも……本質からは最も遠い。
だがもしそれが正解なら……確かに過程は問題ではない。ならば、その過程にある『人の心』にも価値はない。……人の善意を計ることに、何の意味もない。
「なら……」
……神は正しいのか。
人の善意を斟酌せず誰にも平等にポイントを分け与える神は、正しいということなのか。
俺は憂鬱を押し殺しながら病室へ戻った。病室のドアを閉めながら俺は和樹に話しかけた。
「……和樹、なんか麻衣の奴が見つからなくてな、戻ってきた。さっきは何の話だったっけ。えっと、そう、俺と麻衣が付き合ってるとかいう話だったけど、あれは、――和樹?」
一瞬、和樹は寝ているのかと思った。目を閉じてベッドに横になっている。
だがシーツは足で跳ねのけられ、左手が心臓のあたりを握っていた。爪を立てるほどキツく。
和樹の眉は大きくつり上がり、額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
――発作を起こしているのだと気付くのに三秒近くの時間がかかってしまったことは、いくら悔やんでも悔やみきれるものではなかった。
「和樹ッ!」
俺は慌ててベッドに駆け寄ると、和樹の肩をゆすった。
「おい和樹! 和樹! しっかりしろ!」
狼狽しながら和樹に呼び掛ける際、視界の端にナースコールが映った。和樹の右手のすぐ傍にある。きっと自分で押そうとしたのだろう。俺はやにわにナースコールを掴み取ると、壊れても構わないと何度もボタンを連打した。
「――お、兄……ちゃん」
荒い息を吐きながら、和樹はうっすらと目を開いた。
「和樹! 大丈夫か和樹!」
「お兄、ちゃん……僕ね……いま、神様……に」
「喋るな! いま医者が来るから少しだけ我慢しろ。絶対助かるから!」
和樹は辛そうに胸を掻き毟っていた。
病室の外から看護師がバタバタを走ってくる音が聞こえるまで、俺は和樹の手を握り続けていた。
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