第11話 死は安堵をもたらすのか


 集中治療室に運ばれた和樹を、俺と麻衣と早苗さんは外でじっと待つしかなかった。

 皆表情は暗く、麻衣は両手を組みながらずっと神に祈りを唱えていた。

 一方で俺はただひたすらに罪悪感に煽られていた。あそこで俺が病室を離れなければ……もっと迅速に処置できていれば……何度悔やんでもキリはなかった。

 和樹が集中治療室に運ばれてから三○分後、正哉さんが病院に到着した。連絡を受けてよほど急いで来たのだろう、顔中汗でびしょびしょだった。


「和樹! 早苗、和樹は!?」

 俺たちの姿を確認するや否や正哉さんは早苗さんに駆け寄った。

「今お医者様に治療してもらってます。でも……どうなるかは」

「くそっ……そんな」

 正哉さんはぐったりと椅子にしなだれた。


「前の夢審査から……一月以上経ってるのか。五○ポイント……くそ、五○ポイントだと?」

「きっと大丈夫ですあなた。和樹はあんなに頑張っていたじゃないですか」

 正哉さんと早苗さんは、もう和樹が死んだ後の話をしていた。俺も麻衣も何も口を挟めなかった。和樹に善行よりも遊びを優先させたのはこの俺だ。

 俺の選択は、やはり間違っていたのか?

 泥のように重く濁った時間が流れる。更に三○分が経過して、集中治療室のドアが開き、中から医者が出てきた。全員が一斉に椅子から立ち上がり医者へと駆け寄った。


「先生、和樹は……和樹はどうなったんですか!?」

 正哉さんが真っ先に尋ねた。医者は堅い表情で一度咳払いをした。

「非常に危険な状態です。危篤状態と言ってもいい。度重なる発作で彼の身体は限界に来ています。現在手を尽くしていますが……厳しい状況です」

 絶望が俺達四人の顔に滲み出る。麻衣の瞳から大粒の涙が零れるのが見えた。

「中に入れてください。お願いします……和樹に会わせてください!」


 正哉さんが医者に掴みかかった。医者は拒否することなく俺たちを中へ通した。中では数人の看護師が懸命に和樹を助けようとしていた。

「和樹くーん。聞こえるかな? ご家族の方が来てくれたよ。がんばろうね」

 和樹は酸素マスクを装着し、腕には数本のチューブが刺さっていた。


「和樹!」

 皆が一斉に和樹の横たわっているベッドに殺到する。だが和樹は誰に呼び掛けにも応えず、眠るように呼吸を繰り返すだけだった。

 ふと、一人の看護師が先程の医者の耳元で何かを伝えているのが見えた。

 距離が遠く何も聞きとることは出来なかったが、看護師が沈鬱な表情で首を横に振った様子が見えた時、俺は叫び出しそうになるくらい絶望感を感じた。


「――先生、患者の意識が戻りました!」

 そのとき、一人の看護師が医者に呼び掛けた。和樹はうっすらと瞼を開き皆の姿を確認した。

「和樹!」

 皆が一斉に和樹の名を呼ぶ。和樹は弱々しく唇を振るわせて、必死に何かを伝えようとしていた。


「お父さん……お母さん……僕、ね……今、神様に、会ってきたよ……」

 瞬間、空気が張り詰めた。和樹の言葉の意味を、皆が瞬時に理解した。


 夢審査だ。和樹はいま意識を失っている間に、夢審査で神と会ってきたのだ。

 つまり、和樹の人間レベルは今この瞬間、明確に判明した。

 もし二○○ポイントに到達していなければ、和樹の地獄行きは決定してしまう。


「神様は……なんと言っていた?」

 恐る恐る正哉さんが尋ねる。全員が固唾を呑んで見守る中、和樹は小さく微笑んだ。

「ポイント、足りてるよ……って。ほんとは少し足りてないけど、オマケしてあげるね、って……」

「――――それは、つまり……二○○ポイント足りてるということか? 天国に行けるということなんだな、和樹!?」

 こくり、と和樹は頷いた。そしてそのまま、和樹は視線を俺と麻衣の方へ向けた。

「お兄ちゃん、お姉ちゃん……今まで、ありがとう……お話し、してくれ、て……遊んで、くれて……僕……幸せだった」

「和樹」

 和樹の手を握りしめる麻衣。和樹は安心したように瞳を閉じた。


「和樹……和樹!」

 ピー、と何かが鳴る音が聞こえた。俺も麻衣も、何も言葉が出ないまま愕然としていた。看護師が何やら事務的に時間を確認しているのが見えた。


「ご臨終です」


 麻衣は凍りついたように固まったまま動かなかった。俺も同じだった。何が起こっているのか全く理解できなかった。

 空白の時間が過ぎる。時間が止まったような錯覚すら抱く中、誰かがぽつりと声を洩らすのを聞いた。


「――よかった」


 俺と麻衣が同時に声の方を見る。声の主は早苗さんだった。彼女もまた茫然としたまま、何かを呟いていた。

「よかった……ポイント……足りてるって」

 正哉さんが早苗さんの肩を抱き寄せた。

「……ああ、そうだな……ああ。よかった……。――よかった」

「なにが?」


 和樹の手から両手を離し、麻衣がゆらりと二人の方へ向き直った。

 その表情からも、声からも、何の感情も窺うことはできなかった。まるで幽鬼のように、覇気のない質問を正哉さんに投げかけていた。

「お父さん……和樹……死んだ……死んじゃった」

「ああ。ポイントはギリギリ足りてたって言ってた。今までのことは無駄じゃなかった」

「和樹……死んじゃった……もう、いない……生きてない……」

「安心しなさい。和樹は天国に行けた。きっとまた天国で会える」


 そのとき、無表情だった麻衣の顔に、初めて強い感情が――拭いがたい絶望の感情が浮かび上がった。


〝――よかったわね雄一〟


 麻衣が今何を感じているのか……俺には痛い程わかった。


「――ぁ、あ……うぁ、あ――あああああああああああああああああああああ!!」


 麻衣の中の止まっていた時間が流れだし、その双眸から溢れ出る涙のままに、麻衣は声を上げて泣き叫んだ。

 脇目もふらず駆けだし、集中治療室を飛び出していく麻衣。

「麻衣!」

 早苗さんが呼びとめようとするのを、正哉さんが右手で制止した。

「そっとしておきなさい。弟が死んだんだ。あの子も辛いだろう」

 正哉さんは目尻に涙を浮かべながら、早苗さんをきつく抱きしめた。


「……俺が行きます」

 冷え切った心を抑えつけ、俺も集中治療室を出ようとする。

「待ちたまえ雄一君。すまないが、しばらくあの子を一人にしてやってくれないか」

「……」

 正哉さんの呼び止めに俺は足を止める。爆発しそうな感情を堪えるのに必死だった。


「あいつがどうして泣いたか……分かりますか」

「何故って、和樹が死んだからだ。分かりきったことを訊かないでくれ」

 握りしめた拳が震える。二度と味わいたくないと思っていた怒りが、俺の脳を焼いていく。

 俺は正哉さんへ向き直ると、怒りのままに言った。

「あんた達は何も分かってない!」


 がむしゃらに集中治療室のドアを開け、俺は麻衣を探した。

 真っ先に和樹の病室に立ち寄ったが、麻衣はそこにいなかった。休憩所にもおらず、俺はまさか病院の外に出たのではと不安に駆られる。

「――いや」

 麻衣は誰もいない場所を求めていたはずだ。町の中にそんな場所は多くない。病院内で誰の目にも留まらず、声を出して泣ける場所……。




 屋上の扉を開ける。夏の日差しを受けて白く輝く景色の中、麻衣はそこにいた。

 ベンチに腰をおろし、一人でさめざめと泣いていた。

 俺は黙ったまま麻衣の許へと歩み寄り、彼女の隣に腰かけた。


「雄一さん……私が、おかしいんでしょうか」

 麻衣は泣き晴らして充血した目を隠すこともせず、まっすぐに俺の方を見やった。その姿は、俺に救いを求めているように映った。

「和樹が死んで……私……ちっともよかったなんて思えない……悔しくて、悲しくて……心に穴が開いたみたいで……私……私がおかしいんでしょうか」

 俺は麻衣を引き寄せると、そのまま強く抱きしめた。彼女の頭をかき抱き、彼女の心の傷が消えるのを祈った。


「お前は間違ってない。何も間違ってない。お前は精一杯、あいつの死を悼んでやらないといけない」

 麻衣は俺の胸の中でまた声をあげて泣いた。俺は溢れそうになる涙をぐっと堪えていた。

「私、今なら雄一さんの気持ちが分かります。雄一さんのお姉さんのときも……そうだったんですね?」

「……ああ」

 麻衣の言葉に、俺は正直に頷いた。


 あの日。姉さんが車にはねられそうな人の身代りになって死んだ日。俺は悲しみに暮れて泣き叫んだ。父さんや母さんも泣いていた。

 だが泣きやんだ俺に母さんが言った一言は、

「……よかったね雄一、って……これでお姉ちゃんは天国に行けるねって……母さんはそう言って、笑って……」


 俺は、母さんがなぜ笑っているのか理解できなかった。今思えば俺を慰めるための言葉だったのかもしれない。

 でも俺はそのとき、天国のことや人間レベルのことなんて、微塵も脳裏に過らなかった。ただ姉を失った喪失感に苦しんでいた。


「前にも言ったけど、姉に助けられた人も、車の運転手も……皆人間レベルのことばかり言っていた。俺はそいつらだけがクズなんだと思って……でも父さんや母さんも、真っ先に口にしたのは人間レベルのことだった」

 今まで沢山の善行を積んできた姉は、最後もまた立派に人助けをして死んだ。姉はきっと文句なしで天国に行けるだろう。


 ――だから〝何も悲しむことはないのだ〟と言われているような気がして、俺は絶望した。


 姉さんは自分のために善行を積んだことなど一度もない。いつだって誰かのことを助けたいと言っていたんだ。

 なのに、まるで今までの姉さんの善行は、全てこのためだったかのように聞こえた。姉はまるで〝いつ死んでもいいように〟善行を積んできたかのように聞こえた。

 俺はそれが赦せなかった。姉さんの想いを、人生を、今まで姉さんが生きてきた全てを人間レベルに当て嵌めて解釈しようとする周囲に、耐えがたい怒りを覚えた。


「姉さんはそんな次元で生きてなんかいなかった。姉さんはいつだって〝今〟を生きていた。今を精一杯に生きて、今生きている人を精一杯助ける。それが姉さんの人生だったんだ」

 姉さんはきっと人間レベルがなくたって同じように生き、同じように死んだだろう。俺はそんな姉さんを誇りに思い、そんな姉さんだからこそ、その死を強く悲しんだ。

 俺たちが姉さんにできることは、彼女が生きた証を、その意思を受け入れ、ずっと忘れずにいることだけだったはずだ。


 なのに誰も姉さんの想いを理解しようとしなかった。誰も姉さんの善意を認めようとしなかった。両親ですら、価値観を人間レベルに支配されていた。

 自分が人間レベルに……神に媚びへつらって、顔色を窺うようなくだらない人間だからって、姉さんもそうなのだと勝手に決め付けた。俺にはそれが何よりも赦せなかった。


「和樹は天国に行くために皆の手伝いをしてたんじゃない。あいつは俺たちを安心させたかったんだ。あいつが地獄に落ちることで俺達に悲しんでほしくなかったんだ」

 俺の腕の中で麻衣は小さく頷いた。

「あいつが望んでいたものは天国に行くためのポイントなんかじゃない。あいつはただ……残された時間を、普通の家族として過ごしたかったんだ」

 麻衣は何度も頷いた。何度も何度も、声を枯らして泣きながら、和樹が最後に残した想いを刻みつけていた。


「雄一さん……人間レベルがなかったら……和樹の想いは叶ったんですか?」

「……あいつは最後にお前に礼を言ってたろ。幸せだったって」

「私は何もしてあげられなかった……! あの子に何も……お姉ちゃんなのに!」

「お前はよくやった。誰よりも和樹のことを思ってた。あいつはきっと感謝してる」


 麻衣はまた大きな声をあげて泣いた。麻衣が泣きやむまで、俺はいつまでも彼女の身体を抱きしめ続けていた。

 天を仰ぎみる。遥か頭上に広がる大空に向けて――その彼方にいる神に向けて、俺は何度したか知れない問いかけを繰り返した。


「……なあ、どうしてだ」


 どうして、人間レベルのことを公表する必要があったんだ。

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