第1話 その考え方は古い


 二○一六年五月中旬。

 俺はいつものように目覚まし時計に叩き起こされた。

 眠気眼のまま一階へ降りると、母さんが朝食を作っていた。

「おはよう雄一」

「おはよ」

 母さんから朝食を受け取ると、俺は椅子に座って目玉焼きの黄身を割った。


「雄一、もう少し早く起きなさい。あんたももう高校二年生なんだからしっかりしないと」

「遅刻したことなんてないだろ」

「遅刻なんて! ダメよ、絶対に。!」

「……」

 俺は黙って朝食を食べ始めた。

 ふとテレビを見ると、朝のニュースが報じられていた。


『昨日、俳優のジョージ・アンダーソン氏が、カンボジアへ二○○万ドルの寄付を行ったことが発表されました』

 テレビには有名なハリウッドスターが映し出されていた。

 彼はにこやかな笑顔でマイクを握り、カメラの方を向いて話しだした。

『よくテレビなどで、綺麗な水も呑めず、飢餓や病気に苦しんでいる子供たちの姿を見かけるんですが、僕はああいうのを見てしまうともうダメなんです。いてもたってもいられなくなって、つい寄付しちゃうんです。もし今回のお金で多くの人たちが救われたのなら、僕は彼らにお礼を言いたいですね。彼らの笑顔で、僕の心も救われたんですから』

「立派ねえ」

 食器を片づけた母さんがエプロンで手を拭きながら椅子に座った。


「この人、前もどこかに寄付してたわね。本当、立派だわ」

「さぞかしポイントも貯まってるだろうな」

「ええ。彼はきっと天国に行けるわ」

 うっすらと笑みを浮かべる母さんを横目に、俺は白けた表情で朝食を進めた。

「雄一、あんたももうちょっとこの人を見習わないと」

 ……また始まった。

「俺のお財布からは二○○万ドルなんてとても寄付できないね」

「またそういう屁理屈言って。あんたいま人間レベルどれくらいなのよ」

「母さんには関係ないだろ」

「関係ないことないわよ。言ってみなさい」

 喰い下がる母さんに辟易しながら、俺は箸をおいた。


「三○○ちょいくらいだったかな」

「三○○!? あんた……どうすんのそんなことで!」

「この調子ならギリギリ天国に行けるって言ってたから大丈夫だよ」

「行ったあとどうするの! お隣の直樹君なんて一五○○ポイント貯めたって言ってたわよ!?」

「うるせえな。直樹は天国で官僚でも目指すんだろ。俺が知るかよ」

「雄一!」

「ごちそうさん」


 朝食をほとんど噛まずにかき込むと俺は鞄を手に取りさっさと玄関に向かった。

「待ちなさい雄一!」

「心配しなくても今日も一日いい子でいるさ」

 後ろから聞こえてくる母さんの怒声を聞き流して靴を履く。

 この一悶着も見慣れた日常だ。今更気にしていても仕方ない。


「――あんた、そんなことじゃお姉ちゃんに会えないわよ!?」


「――ッ!」

 ドアノブに手をかけたところで俺の動きがピタリと止まり、そこから一気に激情が喉元へと込み上げてくる。

 怒りのままに母さんを睨みつけた俺は、しかし何を言うこともできず、そのまま逃げるように家を飛び出した。




 駅に向かって歩く最中も、さっきの母さんの言葉が脳裏から離れなかった。

 最後にあの言葉を言われたのは二年ほど前だったか。俺は受験生で、親は毎日のように俺に勉強を強要した。

 いい高校に行け。いい大学に行け。……そして。それがお前の幸せに繋がると。

 俺はそれでも勉強を渋って、そんなときに母さんから言われたのがあの言葉だ。俺は激怒して、それきり母さんがそのことについて触れることはなくなった。


「今更、何が姉さんだ。ふざけやがって」

 俺は悪態をつきながら駅に到着し、ホームで電車を待った。

 朝のラッシュでごった返す人の中、不意に肩を叩かれる。

「やっほ、おはよう雄一」

 腰まで伸ばした茶髪に、短く折ったスカート。高校生にしては少し派手な化粧。

 いつもこの時間にこの場所で会うクラスメイト、赤坂翔子だった。

 見た目はいまどきの女子高生ギャルだが、成績は決して悪くなく、真面目な優等生で通っていた。一年のときも俺は翔子と同じクラスだった。


「おう、おはよ」

「どしたの。朝から元気ないじゃん」

「別に。お前はまた随分機嫌がいいな」

「えー、分かっちゃう? 実はね―」

 ニヤニヤと笑いながら翔子はもったいぶる。が、何を言いたいのかは察しがついた。

 こいつがこんな顔をするときは決まって同じ話題だ。


「私、昨日の夢審査で、ついに人間レベルが二○○○ポイント超えましたー」

「そりゃおめでとさん」

「ついにCランクだよCランク。苦節八年……あー長かったぁ」

「よくやるよほんと」

 俺は嘆息しながら肩をすくめた。

「一○○○ポイント超えてる奴だって珍しいってのに、お前普段どんな生活してんだよ」

「いやー私ってほんといい子だから。毎日こつこつポイント貯めてるわけ」

「はいはい」


 その時ホームに電車が来た。吐き出される人の波をやり過ごし、俺たちは電車へと乗り込んだ。

 もう一年以上この通学を続けているが、やはりラッシュ時の満員電車には慣れることはない。

 四方から圧迫される息苦しさを煩わしく思いながら、学校の最寄り駅までの三○分間が早く過ぎることを祈る時間が始まった。

「それにしてもさ、あんたマジでやばくない?」

 不意に翔子が言った。


「何がだよ」

「あんた人間レベル四○○もないんでしょ?」

「今は三○○を切りかけてるよ」

「うっそマジで! また下がったの? どんな悪いことしたの」

「何もしてねえよ」

「じゃあよっぽど人の役に立たなかったんだね。何もしてなくても下がるんだよねあれ。てか三○○……Fランクか。あんたあの世じゃホームレスだね」

「いいんじゃねえの。自由気ままで」

「現世でもやばいって。せめて八○○までは上げとかないと、就職活動で苦労するらしいよ」

「みんな水増しして言ってるだろ」

 聞き分けのない子供を相手にするように翔子は呆れ顔を浮かべた。


「――いえいえ、結構ですから」

 そのとき、近くでそんな声が聞こえた。

 見てみると、つり革につかまった妊婦が左手を振って何かの申し出を断っていた。

 その前には、一人の女性が電車のシートから腰を浮かして手招きをしていた。

「……ちっ」

 俺は忌々しげに舌打ちする。もう見飽きた光景だった。


「いえいえそう仰らずに。どうぞお掛けになってください」

「いえいえ結構です。お構いなく。お気持ちだけで十分ですので」

「いえいえそのお腹のお子さんのためにも」

「いえいえ本当にお構いなく」

 どうぞどうぞと互いに引かず、結局どちらも座らないまま次の駅に行く。いつものことだった。よく見ると、そんな光景は少し向こうの方の席でも起こっていた。

 ひゅ~、と翔子は小さく口笛を吹いた。

「朝から頑張ってるねぇ」

「お前もあんなことやってるのか?」

「たまにね。の。ま、あんなんじゃ上がっても一ポイントだし、私はすぐ辞めちゃったけど。あーでも、妊婦さんが相手ならちょっとオマケつくかもね」

「くだらねえ」

「あんたもやれば? Fランク君」


「――偽善じゃねえか、あんなの」

 吐き捨てるように言った俺の言葉に、翔子は僅かに眉を寄せた。

。八年前に結論出たでしょ? あの女の人だってポイント欲しいだけだろうけど、でも妊婦さんに席を譲るっていう事実は変わんないじゃん。『やらない善よりやる偽善』だよ」

「俺はその言葉が大嫌いだ」

 ぐい、と人込みをかいくぐり、俺は未だにどうぞどうぞと茶番を繰り返している二人の許へと向かった。


「あの」

 急に声をかけらてて、二人の女性は俺の方を向いた。

「座らないんなら、譲ってもらっていいですか?」

 俺の言葉に二人はしばしぽかんとした後、

「ど、どうぞどうぞ」

「さ、座ってちょうだい」

 にこにこと愛想笑いを浮かべながら俺に席を譲った。俺は礼を言うこともなくドカッと席に座り、満員電車の窮屈さから解放された満足感を味わった。

 少し向こうの方で翔子が呆れ顔でやれやれと首を振っていた。彼女だけでなく、周囲の乗客も似たような表情を俺に向けてくるが、俺は努めて気にしないことにした。


 ――偽善。

 俺は今、ついそう口にしてしまった。

 それに対して翔子は、たとえそれが偽善であったとしても、善い行いをしたということには変わりないと言った。『偽善は善』だと言った。

 だが実際はどうだ。もし今の女性が本当に妊婦のことを心配して席を譲ろうと思っていたのならば、横から図々しく名乗りを挙げた俺になど席を譲るはずがないのだ。

 しかし女性は笑顔で俺に席を譲ってくれた。妊婦もそれに対して文句一つ言わなかった。


 結局のところ、女性は妊婦のことなど何ら気にかけていなかった。誰かに席を譲るという行為にしか興味がなかったのだ。

 それは断じて他人のためではない。あくまで自分のためだ。自分の人間レベルを高めるためだけの行為だ。席を譲る相手が妊婦か高校生かなど、全く問題にしていなかったのだ。

 ――これを偽善と言わずなんと言うのか。

 くだらない。あまりにも馬鹿馬鹿しい行為だ。

 そう考える俺をよそに、翔子は呆れ顔のまま無言で俺に語りかけてきた。


〝――あんた、今のでまたポイント下がったかもね〟

 



 勉強して立派な大人になれ。俺はよく親にそう言われ続けてきた。

 俺はそれらの言葉が、何十年も前から親が子供に言い聞かせてきた言葉だと知っていた。ごく一般的な、どこの家庭でも見かける光景に違いない。

 だがその言葉に込められた意味合いは、おそらく八年前のあの日から大きく変化したのだろう。


 立派な人。いい人。

 曖昧で抽象的だったこれらの言葉には、今や明確な定義がある。

 ――すなわち『人間レベルの高い人』という意味だ。


 今まで人は様々な基準を作り個人を評価してきた。

 それは学歴であったり、職種であったり、肩書きや経歴、社会や企業への貢献度を表すために給与や賞が贈られたりしている。

 社会――つまり人が人を評価する基準。今まではそれだけがおおよそ社会的に人の価値を決めるものとされていた。


 だがそこに新たな判断基準が提示された。

 人間レベルとは、つまるところ神が人を評価する基準だ。

 そしてそれは、人々にとって決して無視できるようなものではなかった。

 死後の世界がどのようなものか、具体的に聞き出せたことは決して多くない。現在まで多くの人々が夢の中で神に問いただしたようだったが、神は飄々とはぐらかし続けた。

 それでも多くの者が推測を重ね、ある程度死後の世界は明かされてきた。


 曰く、天国と地獄も今の世の中と同じように社会が構成されており、死んだ人間がそこで生活を営んでいる。

 人間レベルはポイント制で、生前に蓄えたポイントが高ければ高い程、死後の世界での待遇が良くなるらしい。

 『第二の生』という言葉をこの八年でよく耳にするようになった。つまり人は死後もう一度天国で生まれ変わるわけだが、その際にどういう風に生まれるかは人間レベルを基準にされている。

 現世でも人は生まれながらに違っている。

 才能の違い。容姿の違い。環境の違い。全て優劣がついており、どれも生きていく上で重要な要素だ。

 神はそれらを第二の生で優遇してくれるらしい。つよくてニューゲームできるということだ。だから皆必死になってポイントを稼ごうと日々善行を重ねている。


 逆に悪行を重ねると人間レベルは下がり、死後どんな酷い扱いが待っているか分かったものではない。

 度が過ぎれば地獄に行くことになり、神はことさらこの地獄がどのようなものか話すのを嫌った。


 善い行いをしなさい。悪い行いをしてはいけません。

 言ってしまえばただそれだけだ。当然のことだ。何百年も前から当たり前のようにあった倫理観だ。

 そこに明確なポイントが提示され、自らへの見返りがあるのだと約束されるだけで、社会はこれほどまでに変化するのかと驚くほど、今の世の中は変わった。

 ……俺は。

 そんな全てに嫌気が差していた。




「どうしてそう捻くれてんのかねあんたは」

 学校の下駄箱で翔子が俺の肩を鞄で小突きながら言った。

「席を譲ってもらうことのどこが捻くれてんだよ」

「あんたが内心どう思おうとさ、傍から見ればあんたは妊婦さんを差し置いて席を奪った酷い奴だよ。ありゃポイント下がっても文句言えないね」

「俺はお前らの偽善ごっこに付き合ってられねえだけだ」

「またそれ? 偽善偽善。じゃああんたはその偽善者よりもいいことしてるわけ?」

 足早に教室へ向かおうとしていた俺の足が止まる。

 翔子の言葉は正確に俺の痛いところをついていた。

「……」


「ちょっと町を見てみれば分かるじゃん。綺麗でしょ? ゴミ一つ落ちてない。なんで?」

「ゴミを捨てるような奴がいないからな」

「それにもしゴミが落ちてたら、皆喜んで拾うしね」

「自分の人間レベルのためだ」

「その結果町はいつも綺麗。町の皆が自主的に清掃に取り組んでる。素晴らしいことじゃん。何が不満なわけ?」

「……」

「良い世の中になったじゃん。みんなの意識が変わったんだよ」

「……お前はよ」

 翔子の言葉に反論できず、俺はやっとの思いで質問を返すのが精一杯だった。


「もし人に親切にしてもらったら、ありがとうって感じるか?」


「…………もう古いよ、あんたの考え方」

 翔子は質問には答えずに、俺を置いて教室に向かっていった。

「……」

 これが嫌なんだ俺は。

 この翔子のような考え方。風潮。人の心の在り方が。


 確かに翔子の言う通り、世の中は良くなった。それは俺だって認める。

 人は悪いことをしなくなり、善いことを進んでするようになった。

 犯罪は減り、戦争はもっと減り、イジメもなくなり、皆が他人を傷つけないように生きようと努力するようになった。

 バレなければ悪事じゃないなんて話はもう通用しない。

 神は大いなる瞳で俺たちを見ている。常に監視している。神の目からは逃れられない。誰もが神を恐れてる。

 良い世の中だ。きっと、凄く良い世の中になったんだと思う。


 でもその代わりに。

 ――この世界から、感謝という概念は消え去った。


 もちろん表面上は、助けてくれた人にはお礼を言う。でも心の中ではどう思っているか。

 ――この人は自分の人間レベルを上げたいから私を助けた。

 これはもう意識的に払拭できないほどに浸透してしまった考え方だ。もはや当たり前になりつつある風潮だ。


 そして人は……心から何かに感謝するということができなくなってしまった。

 ――今、もし道端に落ちているゴミを拾っている青年がいたら、それを見た人たちは彼を立派だと感じるだろうか。町を綺麗にしてくれた彼に感謝するだろうか。

 俺はそう思えなくなってしまった。そして多くの人がそうなのだと確信している。


 なぜなら、こんな言葉が広まってしまったからだ。

 誰かに助けてもらったとき。誰かにお礼を言うとき。「ありがとう」「どうも」そんな言葉と同じくらいの頻度で、ごく自然に、当たり前のように使われる言葉。


 ――お疲れ様。


 人はお礼を言うときに、こんな言葉を使うようになっていた。

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