第17話 ねこだまし ver.1.15(完結)

ねこだまし

 子供の時に観たあるドキュメンタリー、MJと呼ばれるミュージシャンのライブ映像が今も頭から離れない。

 彼は数万人の観客を一箇所に集め、熱狂させるほどの力を持っていた。もちろん俺はそのパフォーマンスに感動を覚えたが、彼の凄さを物語るのはそのパフォーマンスの「結果」だった。

 ライブ会場の周りには何台も救急車が止まり、倒れた女性を運びこんでいく。熱狂する群衆の中で意識を失った彼女らは周りの親切な人に持ち上げられ、バケツリレーのように数万人の円のはじっこへと運ばれてきたのだ。

 彼女らに何が起こったのか。ドキュメンタリーにはその場面を目撃したという白人の男のインタビュー映像があった。



「彼女たちに何が起こったんです?観客が熱狂するあまり、潰されたという憶測がなされていますが。」

「いいや、彼女は潰されたわけではないよ。だってそれは曲が最高に盛り上がる前、イントロで起こったんだから。」

「ではなんで気絶したんです?」

「たぶんあれじゃないかな。興奮しすぎたんだ。僕が見たのは彼女が感激しすぎて叫んでいるところと、曲が始まった最初の一音の瞬間、スイッチが切れたようにその場に倒れこむところだ。」



 人を失神させるほどのライブパフォーマンス!!!俺もそんなことができるミュージシャンになりたいと強く思った。


 そして俺はとある大学の工学部音響工学科に入った。正直、俺には音楽の天賦の才というものがなかったし、音楽系の専門高校や音楽大学に入ったところで「音で人を失神させる」ことができるようになるとは思えない。ならばあのミュージシャンの音を解析し、確実に人を失神させる音を作り出してやる。

 研究室に配属される学年になって、俺が選んだのは音響工学を医療に応用する研究室だった。そこでは、音楽の癒しの力を精神病に役立てる研究や心音から患者の状態を知ろうという研究などが行われていた。音楽で人の体に影響を与えるというところが、俺の叶えたい夢に合致していたのだ。

 ある日俺は研究室で、教授に質問をした。



「先生、『人を失神させる音』を作ることは可能ですか?」

「『人を失神させる音』?ううむ、低音の爆音で脳幹を揺らせば、あるいは超高音で酔わせるか…。しかし、鼓膜を破るほどの爆音が必要かもしれないな。」

「そうですか…できれば怪我をしないようにしたいのです。」

「どうしたんだい?何か良い研究テーマでも思いついたのかい?」

「ああ、いえ、音楽で人を安全に失神させることができれば、麻酔を使わずに手術を行えたり、そこまでできなくても暴れて手のつけられないような精神患者を鎮静させたり、できるのではないかと思いまして。」



 口から出まかせだったが、教授はニヤリと笑ってこう答えた。



「なるほど、面白い発想だな。では君の研究はそのテーマでやってみなさい。期待しているよ、未来の首席候補さん。」



 究極の音を探す探求の日々が始まった。一流の研究室に揃えられた音の解析機器は俺の夢を後押ししてくれた。解析する音楽は、クラシック、ジャズ、ブルース、ロック、ポップ、演歌、歌謡曲、テクノ、EDM…もちろんあのミュージシャン、MJの楽曲も、全てのジャンルの音楽を解析し、組み合わせて、また解析して…。

 その研究に没頭することで得られた副産物、人が音楽で安心感を得る仕組みや、逆に興奮する仕組みの論文などを書いた。それ以外にもたくさんの論文を、たくさんの学会で発表したが、ついに「音で人を失神させる」ことはできなかった。いつの間にか、俺は博士の資格を持っていた。これ以上、正攻法で研究を重ねても駄目だ。違うアプローチで攻めるんだ。


 ある日の自分の突然の申し出に、教授が驚きの顔で俺を見る。



「君はここまでの功績を残しながら研究者にならないのか?君には私の下で働いてもらいたいと思っている。確かに君を欲しがる企業や病院はたくさんあると思うが…。」

「いえ、研究は続けますよ。でも、今までの方法じゃ駄目なんです。もっと衝撃的で、革新的で、脳が破壊されるような、そんな方法じゃないと、あの音には近づけないんです。」

「『あの音』って君が前に話していた例のミュージシャンの音か?あの事件を調べてみたんだが、あれは憧れの男性ミュージシャンを前に興奮しすぎた女性が過呼吸になっただけじゃないか?」

「いいえ、倒れたのは女性だけではありません。男性も100人ほど倒れているんです。先生はその全員が同性愛者だと思いますか?」

「話にならんな。馬鹿馬鹿しい。君の研究はすでに何人もの患者を音楽で救ってきたんだ。これからもそうすべきだ。患者の鎮静、麻酔を目的とするならば、『人を失神させる音』以外の方法をとる方が遥かに効率的だろう!君の作る音は患者を安心させるためにあるべきだ。」

「お言葉ですが、先生。私は人のために音を作ってきたのではありません。いつだって自分のため、自分の目的のために音を作ってきたんです。先生が人を救いたいというならば、私の研究を勝手に使うのは構いません。私はそんなことには興味がないのです。私はただ、彼を超えたい。」



 俺は研究室を辞めた。これからはマンションの一室、この6畳半で独りで研究をするのだ。究極の音を作るための準備は整った。あとはそれを実行するだけだ。

 俺は部屋の全てを締め切り、自分が作った音、『聞いた者を重度の鬱状態にさせる音』を再生した。







 いつの間にか、部屋が暗くなっていた。俺は背後に人の視線を感じ、振り向いた。しかし誰もいなかった。誰もいないのに、誰かに見られている気がする。俺は壁に穴が空いているのかと思い、壁を隅々まで調べた。穴はどこにもない。だが確実に人に見られている。俺が慌てて壁を調べるのを、誰かが見ていて、俺を笑っている。


「誰だ!?笑うな!!殺すぞ!!」



 どこの穴から見られているかわからなかったので、俺は全ての穴を塞ぐことにした。黒いガムテープでカーテンの隙間を全て埋めた。換気扇の穴を塞いだ。水道の穴を塞いだ。コンセントの穴を塞いだ。念のため、玄関の覗き窓を内側から塞いだ。ドアの下の隙間を塞いだ。

 俺は少しの達成感を得た後、意識を失った。



 俺は牧場で働いていた。ゾウの乳を絞るのが主な仕事だ。このゾウたちはとても大人しくて、人懐っこい。俺は愛情を持ってこのゾウたちと接していた。


「アンナ、今日はなんだかご機嫌じゃないか。何か良いことでもあったのかい?」

 嬉しさを爆発させるように長い鼻を振るゾウを、落ち着かせるように体を撫でてやる。そして、

「じゃあ、今日の分を頼むよ。」


 俺はそのゾウから乳を絞るため、その下に回った。

 しかし、その瞬間、アンナは俺を蹴り飛ばし、俺はその衝撃で倒れた。骨が何本か折れた音がし、鋭くて継続的な痛みが俺を襲う。


「アン、ナ…」


 もはや別の、獰猛な肉食獣になったようにそのゾウの口は大きく開き、俺を丸呑みにした。

 ゾウの胃酸だろうか。俺の体は、皮膚は、溶けていく。その間ずっと火傷をしたときみたいな痛みがする。熱い。熱い。熱い。熱い!熱い!熱い!


「出せ!!ここから出せ!!」


 地獄のような苦しみの中、俺の視界は暗転した。







 今は真夏、外ではクマゼミがうるさく鳴いているが、ビル内は環境システムによりとても快適だ。毎年夏恒例の社長からの全社放送があった。

 曰く、


「我が社は世界一エコな会社として、昨年よりいっそうエコに努めることにした。人工知能に命令を与えておいたので、その指示に従うこと。世界2位に落ちるのは断固として阻止する!」


 まったく、これを聞くのも何回目だか。これだけ毎年エコ活動を推進しても不満が出ないのは、人工知能のおかげだ。その結果、暑がりの社員は全ていなくなってしまった。その全員が不満なく、辞職をした。それでも誰も気づかないのは、それが非常にゆっくりとなされたためである。さらにビル内の環境が良すぎて、もはや「暑がりである・暑がりじゃない」という話題が全くされなくなったせいもあるだろう。

 さて、次に辞めるのは誰かな。俺は人工知能の頭脳の置いてある部屋で、そのデータベースにアクセスし要注意人物リストを確認した。あと数人で俺の番が回ってくるようだ。俺はこの会社で働いたことに満足し、すでに内定の決まった次の会社にも満足している。この会社での思い出にふけり、感傷に浸っていたところ、人工知能の音声ガイドが言葉を発した。


『新しいリストを作成しました。』


 なんだろう、と俺は思ってリストの名前を確認していくと、どうやらただの全社員のリストのようだ。「なんだ、また全社員を見直して暑がり度を再計測してるのか?」と疑問に思っていると突然、下の階からバンッと耳を刺すような大きな音が聞こえた。

 銃声だ。続けて下から叫び声と銃の連射音が聞こえてくる。俺はとっさに鍵をかけ、部屋に閉じこもった。下で何が起きたんだ。そうだ…。

 俺は携帯電話を開き、TVニュースを確認した。


『首都で、テロリストによるビル内立てこもり事件が起こりました!テロ組織の犯行声明によるとテロリストは全部で50人いるとのことで、すでに銃撃による死傷者が出ています。警察の見解では「50人もの人数が当日だけビルに入ったとは考えにくく、監視カメラにはその形跡もない。内部社員の犯行の可能性が高い。」ということですが…。えーここで、テロの専門家と電話が繋がっています。テロ組織は50人ものテロリストを社員として紛れ込ませたということになりますが、そんなことが可能なのでしょうか?』


 くそっ。何が起こっているんだ。この間にも上下両方の階から銃声が鳴り続けている。何故撃つんだ。人質をとらないのか!そしてついに、この部屋のドアがガタガタッと震えた。鍵は銃で壊され、テロリストが雪崩れ込んでくる。この部屋に、隠れる場所はない。


 「見つけたぞ!最後のひとりだ!」

 「撃てっ!」


 その銃弾は俺の胸に当たり、服が瞬く間に赤で覆われる。

 薄れゆく視界の先に、先ほどの人工知能が出力したリストのタイトルが見えた。


『エコ活動阻害要因リスト』


 そして、再び、俺の視界は暗くなった。







 向こうの交差点から黒い車が走ってくる。交通事故予測システムによれば、あの車はこの後暴走し、まさにここへ突っ込んでくるはずだ。そして俺の装備は万全だ。綿を詰め込んだ服に、それを覆う厚い鉄板。はねられた後に、たっぷりと慰謝料を請求してやる。

 そう考えていた俺の目の前に、突然女の子が走ってくる。その女の子は俺と車の間に走ってきた。

「危ない!」

 市民を守るのも俺の仕事だ。また、警察からの表彰状が増えてしまうな。俺は女の子を安全な方へ突き飛ばし、代わりに暴走する車に当たりにいった。装備のおかげで俺は無傷…のはずだった。

「うう…」

 俺の腹に尖った鉄の棒が刺さっている。なんで、ガードレールが俺の腹に刺さっているんだ。俺の着こんだ鉄板の隙間から、針の穴を通すように、くぐり抜け、俺の体を突き抜けている。痛い、痛い、痛い!でも、すぐに痛く無くなってきた。代わりに、死の恐怖が俺を襲う。

 嫌だ!死にたくない!死にたくない!死にたくない死にたくない死にたくない…俺の意識はじんわりとなくなっていった。







 あれ?これは、見知らぬ天井だ。でもそれは友達の家に泊まったときや、修学旅行のときのような、天井ではなかった。しかも目の前にあった。右を見ても、左を見ても一面の天井。なんで俺は天井に張り付いているんだ?

 下を見ると、陸上のトラックと、それを囲む観客が見えた。そうだ、思い出した。俺はロシア人で、高跳びの選手だった。

 自分のことを思い出した瞬間、ゴゥンと天井の中から音がして、俺は天井から真っ逆さまに落ちた。頭が陸上トラックに叩きつけられ、脳しょうが飛び散って俺は死んだ。


 俺は100億人分の死の経験をした。





「うわぁぁぁあああああああ!!!」



 今度は知っている部屋だ。俺の部屋。頭を撫でたが、脳しょうは出ていなかった。

 コンピュータのディスプレイを見ると、次のような文字列が表示されていた。



「『聞いた者を重度の鬱状態にさせる音』の再生を終わりました。現在、『冷静になる音』を再生しています。続いて、『食欲を増進させる音』を再生します。」



 スピーカーから軽快な音楽が流れ、俺はだんだんと物を食べたくなってきた。冷蔵庫にあらかじめ作っておいた料理があるはずだ。俺はそれをガツガツと食べた。そうだ。この後は『この世の幸せを感じる音』が流れるはずだ。

 『人を失神させる音』、その究極の音を作るために、俺はこの、音の自動再生プログラムを作った。『聞いた者を重度の鬱状態にさせる音』と『この世の幸せを感じる音』、『食欲を増進させる音』、『8時間、安眠できる音』、これらの音を交互に聞くことで、良い健康状態を維持しながら、自分の脳に負荷をかけるのである。

 この方法は禅の修行からヒントを得た。彼ら僧の「悟り」は厳しい修行の中で自分を追い詰めることから得たものだ。俺はそれを一種の鬱状態ではないかと考えた。つまり、人間は鬱状態を乗り越えた瞬間に素晴らしいアイデアを得るのだ。彼らの「悟り」は決してまやかしや幻想ではなく、彼らの僧としての教養、経験により、鬱状態から回復する瞬間に彼らの脳が導き出した「アイデア」であるのだ。

 俺はそれを人為的に行おうと考えた。俺は音響工学の隅から隅まで勉強し、頭に叩き込んできた。あとはそれから「アイデア」、いや「悟り」を得るだけだ。確かに、先程までは苦しかったが、今はもう『幸せを感じる音』に包まれ、精神は安定している。

 この過程を繰り返し、必ず究極の音にたどりついてやる。





 自宅のベッドの上で起きた。腕には点滴が打たれている。そして、全身が固定されている。


「Why you gotta be so rude!!?」


 はぁ?

 自分の発した言葉に自分で驚く。ああ、そうか、俺はアメリカ人だった。そして俺の主治医がこう言った。全て英語だったが、自分がアメリカ人だと自覚した瞬間から、何となく意味がわかるようになった。


「君はこれから死ぬんだ。君のような偉大なアーティストというのは、得てして死んでからの方が金になるんだよ。曲の権利やその他諸々がね…」


 その医者は懐から注射器を取り出して、俺の腕に打った。俺はこれから死ぬのか!まだまだ作りたい曲があったのに!皮肉なことに、死ぬとわかってから、死の恐怖に追い詰められることによって、膨大なメロディが俺の頭の中から生まれ、神経を駆け巡った。


 そして、俺は1000億人分の死を経験した。





「『聞いた者を重度の鬱状態にさせる音』の再生を終わりました。現在、『冷静になる音』を再生しています。これで全ての音の再生を終わりました。」



 アタマガボーットスル。「冷静になる音」を聞いているはずなのに、急にひどい吐き気を覚え、その場に吐いた。あー、本当に、生きているだけで幸せというものだ。しかし、俺はそれを得た。『人を失神させる音』をどうやって作るか、を。


 俺はコンピュータに向かい、楽曲作成のソフトウェアを起動した。




 1ヶ月後、俺はライブハウスのステージの上に立っていた。他のバンドを目当てに来た30人ほどの観客たちに、俺は奇異の目で見られた。



「あの人、一人だけで、しかもベース一本だけだよ。」

「マイクもないし、一体どんな演奏をするのか気になるな。」

「いやいや、どうせ最近のサブカルチャーを気取った、珍しいことをやればいいと思ってる輩だろう。」

「最初の音を聞いてダメだったら、トイレ休憩に行くかな。」


 俺は耳栓をしてから、地声で観客に語りかけた。



「えー、ではよろしくお願いします。」



 俺がベースの弦を弾くと、観客が一斉に倒れた。ライブハウスの照明と音声担当の方を見ると、そいつも倒れていた。俺が1000億人の死を経験して作り上げた音は、観客の脳を揺らし、意識を失わせた。特別製のねこだましと言ったところか。あとは彼らが目を覚ますまで30分、さっき買った本でも読んで置こう。

 30分後、観客たちが目を覚ました。

 俺は最後の一言を言う。



「終わりです。ありがとうございました。」



 さっきまで寝ていたはずの観客はまるでさっきまで、彼らのお気に入りのロックバンドがそこで歌っていたかのように熱狂し、大歓声を上げ、拍手を俺に送った。

 それもそのはずだ。彼らが目を覚ましたとき、この世の最上の幸せを感じるような音を俺は作った。耳栓を取ると、彼らの感嘆の声の詳細が聞こえて来る。



「何が起こったんだ?俺はなんだ…音楽にノリ過ぎて気を失っていたのか?思い出せないが、最高の30分だったことは間違いない!」

「夢…じゃないよな?だってここにいる全員がそう言ってるんだから。」

「彼はどんな魔法を使ったんだ!?」


 この大歓声の中だと、ちょっと退場しづらいが…


「あー、本当にこれで終わりです。ではまた。」



 俺の初ライブ、もとい「実験」は成功に終わった。ライブハウスの店長には


「なんか…言葉では言い表せられないけど…とにかくすごかったよ!またやってくれ!」


 と言われた。あんた何もわからないどころか、気絶してたじゃないか。



『全く何が起こったのかわからないが、とにかく最高だった。』



 聴衆が口々にそう言い、誰も俺のパフォーマンスの内容について覚えていない。というのが話題となり、口コミでどんどん観客は増えていった。しかし、最初こそ『人を失神させる音』を使っていたが、俺はだんだんと使う頻度を下げていった。代わりに、『幸福の音』や『興奮の音』を混ぜ込んだ曲を作り、演奏した。それは、


「『人を失神させる音』なんて危ないじゃないか!」


 という声が出るのを防ぐための隠れ蓑であり、決してその音を使うのが卑怯だ、などと考えたわけではない。むしろ、これは例のミュージシャンを超えるための、バネに力をためるための準備期間というやつだった。俺が狙うのは世界だ。


 ついに、俺は1万人の前で『人を失神させる音』を披露する機会を得た。音楽の祭典、夏の野外フェスだ。

 この模様は自国はもちろん、世界中に生配信される。70億人を驚きの感情に叩き込む時が来た。俺はあのミュージシャン、MJを超えるのだ。



「『音のマジシャン』なんて、俺は言われてきたが、『なんで?』と思う奴もたくさんいると思う。だって、売れ始めてからは初期の頃とは違って、普通の曲を作ってきたからだ。でも、それは今日この時のための、この瞬間のためだけにとっておいたんだ。この音を聞いたら、君たちはとてつもない高揚感と、幸福感に包まれるだろう。そしてその理由もわからない。『高度に発達した科学は魔法と区別がつかない』んだ。では耳をかっぽじってよく聞け!これが究極の音だ!」



 俺はベースギターの弦を思いっきり弾いた。


 そして、人類は衰退の道を歩み始めた。





 俺はただ、MJを超えたかっただけなのに…。

 1万人の観衆に対して『ねこだまし』はとても良く効いた。アンプで増幅されたそれは、観衆の脳幹を揺らし、1万人を気絶させた。そして、その中では、百人単位の将棋倒しがあちこちで発生した。しかも、その群集は30分は目覚めないのだ。

 死傷者が出た。まだ、怪我をしているだけのものはいい。彼らは起きた時、幸福感に包まれ、怪我をしたことも忘れてしまう。しかし、そこで親しい者を失った人たちは、その絶望と『ねこだまし』による理由のない幸福感に挟まれて、発狂した。自分の中にある正反対の矛盾に脳が耐えきれなかったのだ。耐えきれない人々は、自分を守るため、幸福の方に身を委ねることにした。

 それだけでは終わらなかった。電波に乗り、世界中に配信されたそれは、聞いた者の意識を失わせた。携帯端末で音を聞いた者はそれがどこであろうと、その場で倒れた。料理中の主婦が気を失えば、ガスコンロから火事になった。それをBGMに車を運転していたものは高速道路で時速100kmの事故を起こした。世界中が混乱に陥った。

 最初は誰にも原因がわからなかった。ただ、それは野外ライブ会場で起きた。ということだけわかっていた。その映像と音声データはすぐにテレビやインターネット上に流された。そして、それを見たものは30分気絶した。そして彼らは幸福に包まれる。

 幸福に支配された者たちは、こぞってそれを他人に聴かせたがった。そして、自らもそれを何回も聞いて、何度も幸福を味わった。依存症だ。俺が作った『ねこだまし』は電子ドラッグと呼ばれた。精神的な依存がある以外は全くもって健康的なものであったが。中には食べることよりも、『ねこだまし』を聞くことを優先させて餓死するものも現れた。この一連の事件で家族や友人を失ったものたちも、最終的には『ねこだまし』に頼るようになった。

 人類は衣食住をしなくても幸福の中で死ぬことができるようになった。そうなると、あとは、人類は衰退するしかない。誰もが簡単に、幸福を手に入れ、無気力になった。人類の生産性がゼロになるのも時間の問題だった。


 そして、俺は、家族を失った。


 俺のライブは見ないようにと言っていた。危険だから見るなよと、親には繰り返し念を押していたのだ。しかし、それは息子の冗談だと受け取ったのか、母親は料理中に息子の勇姿を見ようとテレビをつけていたらしい。らしい、というのは俺の実家はすっかり燃えて跡形もなくなっていたからだ。もっとちゃんと言っておけば、いや、言ったとしても結果は同じだった。なにしろ、接している隣の家も同じ理由で丸焦げだったのだから。

 俺は、自分がしでかした街の惨状を見てから、都内一のタワーマンションの自分の部屋、その独りでは大きすぎる部屋に帰り、泣いた。俺には『ねこだまし』の幸せの音は効かなかった。改良して、そういう風に作ったからだ。自分のための『ねこだまし』を作ろうかと考えたが、俺のような罪人が幸せを感じてもいいのだろうかと思った。自分のエゴのために、人類のすべてを無にした俺に、友人を殺した俺に、家族を殺した俺に、幸せを感じる権利があるわけがない。自分で鬱状態になっているのは自覚できた。しかし、こんな奴、どんな状態だって生きていていいわけがない。試しに、『冷静になれる音』を再生した。それでも、俺の気持ちは変わらなかった。

 俺は部屋の外に出て、その80階から下を見下ろした。音が聞こえなくなったので、一気に視界が歪む。この苦しみから早く逃れたい。

 俺は飛んだ。そして、この死で少しでも罪を償えるように、願って、地面をしっかりと見据えながら…







「うわぁぁぁあああああああ!!!」



 俺は起きた。これは知っている天井だ。これは、タワーマンションの広々とした部屋なんかではなく、研究室時代の、あの6畳半だ。


「『聞いた者を重度の鬱状態にさせる音』の再生を終わりました。現在、『冷静になる音』を再生しています。これで全ての音の再生を終わりました。」


 強制的に冷静にさせられた脳が、ある結論を導き出す。俺は泣いた。『冷静になる音』を聞いているはずなのに、子供のように泣きじゃくっていた。そして、震える手で携帯端末を取り出し、電話番号を打つ。


 プルルル、プルルル、プルルル、ガチャッ…


『あら、あんた、どうしたの?珍しいわね。』


 よく知っている声、母親の声だった。



「うう…母さん…良かった…良かった…」

『どうしたの?あんたらしくもない。あ、わかった。寂しくなったんでしょ。』

「ううっ…ぐすっ…茶化…すなよ…ううっ…ぐすっ…。」

『本当に大丈夫?』

「や、もう少しこのままでいさせて……繋がってるだけでいいから。」

『うん、わかった。』


 どれくらいの時間が経っただろうか。時々、母の息遣いが聞こえてくるだけで、俺は安心した。これも一つの『安心する音』の形なのかな。…ああ、駄目だな…長年の研究の癖が出てしまう。今はただ、この安心感を味わっていたい。


「…ありがとう、もう大丈夫。」

『うん。研究ばっかしてないで、また近いうちに戻って来なさいね。』

「うん、わかったよ。じゃ、また。」

『バイバイ。』


 …ガチャッ


 俺は目をつぶって、しっかりと自分を落ち着かせてから、再び、電話番号を打ち込んだ。


 プルルル、プルルル、プルルル、プルルル、プルルル、ガチャッ…


『君!1週間何をやってたんだね?あれから全く連絡もつかないで、もう少し話してくれてもいいじゃないか!』

「先生…すみませんでした。私の音は、人を安心させるために使うことにします…」

『おお…!そうだろう!そうだろう!実はまだ君の籍は残してある。すぐに戻って来なさい。大丈夫だ。私が付いているから。』

「ありがとうございます…先生…」

『ところで、君の言っていた究極の音は見つかりそうかね?』

「あの、その件はまた後日に…」

『わかった。とにかく君が戻って来てくれて嬉しいよ。そろそろ講義の時間だ。失礼する。』

「ありがとうございます。失礼いたします。」


 …ガチャッ


 究極の音、『ねこだまし』の音の配合は俺の頭の中に入っている。それは1000億人の死を体験し、MJの死を体験し、そして家族との死別と自分自身の死を体験した成果だった。しかし、成果はそれだけではなかった。この音が世に出るにはまだ早すぎると知れたこと、それが一番重要なことだ。

 今はまだ、その時期ではない。そしてこの技術を知ってしまった以上、俺には責任がある。他の誰かがこれを開発してしまう前に、『ねこだまし』の危険性の周知、そして電子ドラッグに関する法整備、インターネット上での拡散防止策の考案…やることはたくさんある。



 これからは、たくさん人を救おうじゃないか。

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