第11話 電気ドーピング ver.1.10(完結)

電気ドーピング


 祖国が7年前、政府主導で組織ぐるみのドーピングを行った。そして全面的にオリンピックへの出場を停止されるという事件が起こってから、エゴールは辛酸を舐め続けてきた。彼は薬など全く使っていないのに、ことあるごとにドーピング疑惑をかけられてきたのだ。それを使っていないことを証明するために、ずいぶんと時間を使ってしまった。検査、検査、検査に次ぐ検査。その結果、彼は十分な練習時間を取れず、成績もかんばしくない。スポーツ省の援助を受けている他のトップ選手たちは、あらゆる手でドーピング検査を回避してきている。彼らのような人脈も金も、エゴールにはなかった。次のオリンピックに出るためには来月の世界選手権で一発逆転の3位以上を取らなければならない。そしてまた、選手権に出るための検査、検査、検査…。

 ドーピング検査の合間、わずかな時間を見つけて走り高跳びの練習をしていた彼の元に、ある人物が訪ねてきた。その山登りのような装備に身を包んだ人物はニコライ医師と名乗り、いやに気さくに話しかけてきた。彼の少ない練習時間を奪いながら。


「いやー、この国は寒いね。長年住んでいてもやっぱり寒い。君は風邪をひかずによろしくやっているかねエゴール君。」

「何なんだあなたは。俺は貴重な練習時間を無駄にしたくない。帰ってくれ。」

「まぁまぁそう言うな。君に秘策を持ってきたのだよ。」


 エゴールはすぐにピンときた。この時期に練習を訪ねてやってくる医者と言えば、


「さては薬物ドーピングだな。悪いが帰ってくれ。俺はやるつもりはないよ。」

「うむ。惜しいが少し違うな。そうではない。」

「とにかく出て行ってくれ。」

「そうではない。君が私にお願いする立場なのだよ。」


 明確な拒否をしてもそこをどかない老人に、エゴールは苛立ち、ついに手を出してしまった。度重なるドーピング検査と、なかなか伸びない記録のため、鬱憤が溜まっていたせいでもあった。彼が日々鍛えた肩と腕の筋肉は合理的に作動し、老人の頬を捉えた。しかし彼の拳がその頬に触れる前に、老人の手が彼の腕を掴んで固定した。そう、防がれたと言うより、「固定された」のだ。


「くそっ。なんだこれは。くそっ。」


 エゴールがその手を振りほどこうとしても、全く老人は動かない。老人だとは思えない凄まじい怪力。いや、これはまさに化物のそれだ。


「スポーツマンシップはどこへ行ったのかね?君はイノセントマンと呼ばれるほど反則嫌いだったはずだが。」


 確かに彼はそう呼ばれていたが、それはドーピング等、すぐにバレる嘘をつくのが嫌なだけで、世間の作った勝手なイメージというやつだった。必死に手を振りほどこうとする彼の腕を掴みながらニコライ医師は話し続けた。


「ここで帰らしたところでまたすぐに来るぞ。すでにコーチに許可を取ってあるからな。」

「そうだ!おい!助けてくれ!!」


 エゴールの叫びも虚しく、気弱なコーチはただ体育館の入り口の前でビクビクと視線を泳がせるだけだった。まるで「はじめてのまんびき」をする中学生みたいだ。ついに腕が痛くなってきた。さっきはカッとなって殴りかかってしまったが、冷静になって気づいた。このままでは怪我をしてしまう。


「わかった!わかったからとりあえず手を離せ!」


 彼は解放された後、その場で手をブラブラさせ、痺れを取る。

 老人は彼に詰め寄り、耳元で囁く。これではほとんど脅迫である。


「君のおかげで2週間は筋肉痛だな。さて、これから手術を受けてもらう。なぁに、麻酔で眠ったら次に起きるときには私と同じ怪力だ。」


 彼にそれを拒否する権利はなかった。




 麻袋に頭を突っ込まれ、何も見えないまま(どうやら車で)運ばれること2時間。袋を取られた時には彼は縛られ、手術台に乗せられていた。外科手術の準備を終えたニコライ医師が手術の説明をする。


「筋肉に電気を流すと痙攣する。誰もが静電気でバチッとなったことはあると思うが、あれが継続的に流れた時の筋肉の動きは人間の限界を軽く凌駕してしまう。もし、電気を狙った筋肉に流すことで、人間の体を操ったらどうなるだろう。と私は考え、自分の脳に電気回路を埋め込むことにした。

 その結果、私の肉体は簡単に限界を超えることができる。つまり、いつでも好きなときに馬鹿力を出すことができるようになったのだ。多少、反動はあるがね。さきほどの私の力を直で感じているからわかるだろうが、こんな老人でもあのような怪力を出せる。となれば身体能力の最も高い年齢の者がこれを使うとどうなるだろうか。私はワクワクしている。

 さて、話が長くなってしまったな。インフォームドコンセントと言ってな。医者にはこれから行う手術の詳細を患者に伝える義務があるのだよ。では早速始めよう。…おっと、これを言うのを忘れていた。電気回路と神経を繋ぐのは少々難しくてな。この手術の成功率は5%だ。」


 彼は猿ぐつわをされていたため、インフォームドコンセントの権利を行使することはできなかった。




 彼が目を覚ました時にはもう、同じ麻袋に頭を入れられ、同じように運ばれていた。隣からニコライ医師の声が聞こえる。


「おめでとう。手術は成功したよ。君は強運だ。日頃の行いが良いからだろうか。君も、私も。」


 それから年寄りの笑い声が聞こえた。「気の利いた小粋なジョークだろ?」とでも思っているのだろうか。自分の肩に怪力老人の手がバンバン当たっても、エゴールは全く笑えなかった。むしろ、痛い。




 麻袋の暗闇が目の前から無くなったときには、いつもの練習場だった。


「さて、さっそく試してみようかエゴール君。君の力を見せてくれ。」


 エゴールはそうだなと思い、さっそく憎たらしい老人に飛びかかった。


「よくもこんな体にしてくれたな!俺の夢は消えた。世界記録を取り、地位と名誉と金を手に入れるはずだった!これでは検査をクリアできない!」


 老人は首を掴まれていたが、その強靭な筋肉のおかげで普通に喋ることができた。


「いやいや、君は検査をクリアできる。保証するよ。これは『薬物』ドーピングではないんだ。薬物試験でどうやって回路を見つけると言うんだね?」

「レントゲン写真もあるんだ!すぐにバレる!」

「大丈夫だ。君に埋め込んだのは最新のモノで、脊髄に巧妙に隠してある。心配なら人間ドックにでもなんでも行ってみるがいいさ。」


 ここで、彼は老人の首を掴む右手にジリジリと痛みを感じ始めてきた。この前と立場は逆ではあるが同じ状況だ。このままでは怪我をしてしまう。彼のプロ意識が彼の頭を冷やし、右手を緩ませた。ここでこのマッドサイエンティストを殺しても何もならないのだ。ならば、利用してやる。


「おいクソジジイ。回路の使い方を教えろ。」

「そう来なくてはな。」


 彼は顔を洗い、頭を冷やしたあと競技用のユニフォームに着替えた。そして、彼の最高到達点である2m20cmに棒を設置した。


「まずは思いっきり跳んでみろ。」


 あの老人の怪力は本物だった。自分の肌で感じたことを信じるしかない。彼はいつも通りの走りで、いつも通りのフォームで、しかし跳躍の瞬間だけ意識的に力んで、跳んだ。両足にビリっとした感覚が走った。そして、跳躍の瞬間だけ羽根が羽ばたいたように体がふわりと浮き上がった。放物線の頂点にきたとき、感覚ではっきり理解した。自分と棒との間には50cmの空間があることを。


「記録は2m71cmか。初めてにしてはまずまずだな。」


 計測器の記録を見て、ニコライ医師が頷いた。そしてエゴールは今まで到達したことのなかった高さに快感を覚えていた。これだから高跳びはやめられない。


「いや、次はもっと高く跳ぶ。」


 彼は2m75cmの高さに棒を設置したが、それをニコライ医師は引き止めた。


「違う。そうじゃない。君はこれから『高く跳びすぎない』練習をしなければならない。」

「何故だ。せっかく誰にも超えられない記録を打ち立てることができるのに。」

「先ほどの記録で十分すぎるほど高さは出ている。君は疑われないように謙虚に跳ばなければならない。」


 彼は不満だったが、ここは話を合わせておくことにした。彼はこのヤブ医者を上手く利用しなければならない。


「わかった。言う通りにするよ。使い方を詳しく聞こう。」


 それからの彼の躍進は凄まじかった。公開練習ではぐんぐん記録を伸ばし、国内の選手権で2m35cmを跳び優勝した。難なくオリンピックの出場権を得た彼は祖国の期待を一身に背負い、金メダル、いや世界記録を目指した。マスコミは彼を讃えた。『公開ドーピング検査でその潔癖さを証明したイノセントマンが我が祖国の汚名を返上する日が来た!』。





 世界中のトップアスリートが集うロサンゼルスオリンピックが始まった。開幕式、選手団の中でエゴールは興奮を覚えていた。観客に手を振りながら、他の選手に話しかけ談笑する。


「今回の開幕式もすごいな。上を見ろよ。」


 その開幕式では最新の技術を使った演劇・音楽・舞踊などが上演された。前回の開幕式の拡張現実も素晴らしかったが、あれは言ってしまえば虚構である。空中で様々な演技をしていても、所詮虚構であった。


「空中で本物の人間が踊っている。あれはどうなっているんだ?」

「これ、リニアモーターカーの技術の応用らしいぜ。詳しいことは知らんが。」

「あれが未来か…」


 彼はその踊り子たちの高さを見てこう思った。「あの高さに自分の足で到達できたら、どんな景色が見えるのだろう」。しかし彼はそれを見るためにしっかりと準備をしてきたのである。あと少しであれに届く。確かに、練習時間のほとんどは「高く跳びすぎない」ための練習をしてきた彼であったが、ニコライ医師の目を盗んで高さの限界に挑んできたのだ。決勝では思いっきり跳んでやる。ニコライ医師と彼の祖国のライバルであるこの国の奴らに、絶対に超えられない記録を見せつけてやるのだ。彼はそう決意した。まずは「高く跳びすぎない」ように予選を突破しなければ…




 …そして彼はついに、決勝の舞台、オリンピックドームのグラウンドに立っていた。ニコライ医師はこう言っていた。


「世界記録を3cm超えるだけで良い。それで十分だろう。では幸運を祈る。」


 そんなもの、知るものか。まずは観客に俺がもっと跳べることを見せつける。そして、その高さからの景色を見るのだ。今まで一番高いところを跳んだ奴よりも高い景色を。


 意識を集中させてから、ゆっくりと走りだす。だんだんと速度を上げて、自然な曲線を描きながら超えるべき棒の下へ、自分が最も得意とする間合いに入って、今だ!


 エゴールは神経を意識し、脊髄に埋め込まれた回路の電源をオンにし、足を踏み抜いた。その瞬間、彼は気持ちいい浮遊感を感じ、そこに到達できるという確信を得た。まるで、磁石に吸い寄せられるように天井へ向かっていく。1m、1m50、2m、2m10、20、30、50…よし、これで観客は理解しただろう。怪物がここにいるということを。さて、地面に降りて次の跳躍の準備をしようかな。

 しかし彼の想定とは裏腹に記録は伸び続けた。…80、少し力を入れすぎたかな…3m!?これはおかしいぞ!…4m、6m、10m!…ぐんぐん彼は跳んでいく、まるで「磁石に吸い寄せられるように」天井へ…20m、50m、80m、100m!

 彼はそのまま腹から天井にくっ付いてしまった。とてつもない衝撃を受け、彼の脳は激しく揺さぶられた。


「なんだ!?どうして!?回路がおかしくなってしまったか?早く電源を切って下に降りないと…」


 彼は脊髄の電源を落とそうとしたが、その前にその回路の作用で回転の早くなった脳が警告を出した。

 いくら力が強くなっても、仮にドームの天井までの跳躍をしたとしても、天井に張り付くなんてことがあるだろうか。そう、磁石のように。開会式での、あの選手の言葉が頭の中で再生される。


「これ、リニアモーターカーの技術の応用らしいぜ。」


 高さ100mのこの状況で、彼の体に流れる強い電流を止めてしまうのは危険だ。とんでもない失態を世界中に見られてしまったが、命には変えられない。

 全世界中の驚きの視線の中、彼は救助を待つことにした。




 オリンピックドームの空調や照明の管理をする中央管理室では、若い作業員が先輩に指示を仰いでいた。


「ドーム天井の電磁石に異常を発見しました。」

「どうした?」

「電磁石の部分に電流が流れたままになっているんですけど、スイッチを切れないんです。」

「あーあれか。あれは厄介な代物だ。オリンピックの突貫工事の弊害ってやつだな。」

「どうしましょう?」

「いや、そのままでもなんの問題もない。もし強力な電磁石を身につけている物好きがいたら別だがな。」

「しかし電気が勿体ないのでは。」

「確かに。ではブレーカーを落としておこう。」




『…バチッ』

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