第9話 拡張された楽園 ver.1.0(完結)
拡張された楽園 ver.1.0
人類が生まれてすぐの子供の頭の中にチップを埋め込むようになってからどれだけ経っただろうか。そのチップは脳の神経に接続され、脳が認識した視界に重ねて3D映像を映す。それは空中に浮かぶ道路標識だったり、公園内の地図だったり、架空の景色だったりする。現実にデジタル情報をつける拡張現実というやつだ。おかげで、道の邪魔な看板は撤去され、都市の景観はとても綺麗なものになった。自分の位置を知らせれば、目的地までの道順を示す矢印が空中に浮かび、案内をしてくれる。
彼女はこの国の経済の中心で働くOLだ。営業先に商談を持って行く途中だが、約束の時間までまだ大分時間がある。そういえば、夫が近くにチーズケーキの美味しいお店があると言っていた。しばらくそこで今日の商談のおさらいでもしておこう。彼女は専業主夫の夫に頭の中のチップを使って電話をする。チップは聴神経にも繋がっているのだ。
「ここら辺でチーズケーキの美味しいお店があるって言ってたけどどこ?」
『ああ、あの店かい?きっと気に入ると思うよ。君のチップに情報を送っておくから、矢印に沿って行ってみて。』
「わかった。ありがとう。今夜はすぐ帰れそうだから美味しい料理、作っておいてね。」
『久しぶりにゆっくりできるんだね。楽しみにしているよ。』
「私も。じゃあまたね。」
『仕事、無理しないでね。じゃ、また。』
夫から送られてきた情報を元に、視界に映された矢印をたどって彼女は喫茶店に着いた。さて、今日の商談も頑張ろう。でもその前に甘いお菓子を楽しもうじゃないか。
店に入ると、長身の、モデルのようなウェイターが席に案内してくれた。
「こちらが今日のメニューとなっております。」
ウェイターが差し出したメニューを受け取る。彼女が重さ0kgのメニューを受け取ると、様々に趣向を凝らされたお菓子たちが彼女を誘う。彼女は一瞬、カラフルなフルーツタルトに心を持っていかれそうになったが、夫の言葉を思い出しチーズケーキを注文した。まずはこれを頼まないと、夫と話が合わなくなってしまう。これ以上、綺麗なお菓子たちの映像を見ていたら、夕飯が食べられなくなってしまうほど注文してしまいそうだったので、彼女は名残惜しく感じながらもメニューを閉じた。メニューを閉じてみると、それまでお菓子に見入っていた視線が、店の内装の方に移る。00年代のような、懐かしい雰囲気の店だ。彼女が自分の子供時代のことに思いをはせていると、先ほどのウェイターがやってきた。
「こちら、チーズケーキでございます。」
「ありがとう。」
これまたとても懐かしさを感じるチーズケーキだ。彼女はその思いを他人と共有しようと、こめかみを摘みながら右目でウインクをする。そして、その脳に保存された写真をすぐ、夫や友達に送信した。昔ながらのお菓子もいいものだ。そのチーズケーキは今時珍しく、すべて人の手で作られているそうだ。その温もりと、店の雰囲気がとても合っていて、とても良い。最近の新しい技術の波にもまれて疲れていた彼女はとても満足した。
さて、十分に気力を蓄えた。後のプレゼンテーションに気合が入る。
「…というわけで、先の結論に戻りますが、この画期的な手法には大きな利点と、将来性があるのです。以上です。ありがとうございました。」
プレゼンテーションの終わり、会場は拍手に包まれた。この会場には椅子しかない。30名ほどの聴衆は各々、楽な姿勢で座りながら自分のチップにメモを書き込んでいた。昔ながらの紙のメモ帳に書き込んでいる人もちらほらいるものの、ほとんどは手ぶらである。目をつぶっている人もいるが、彼は寝ているのではなく、プレゼンテーションの資料を閲覧しているだけかもしれない。彼女にはプレゼンテーションの手応えがあったし、拍手もあった。しかし、その拍手は形式的なもので、本当の評価はここからだ。拍手が鳴り止んだ後、彼女の目の前には星が降り注いだ。星の数は74個。良し。やった。これだけ聴衆から星を貰ったのは初めての事だった。一人当たり星2.5個といったところ。とても嬉しい。今夜は夫にいい報告ができそうだ。
今日は会場からそのまま帰宅できる。彼女は商店街を通るついでに、店でコロッケ弁当を1つ買って帰った。愛しの我が家、彼女にとっての楽園はすぐそこだ。
「ただいま〜。」
「お帰りなさい。今ちょうど自動炊飯器でお米が炊けたところだよ。」
「うん。おいしい料理、作ってくれた?」
「もちろん、今日は大きな会議が終わったところでしょ?腕によりをかけて作ったよ。」
「ふふっ、ありがと。」
「ん?今日は何かご機嫌だね。いいことでもあった?」
「うん、会議でたくさんいい評価を貰ったよ。」
「それは良かった。夕飯も美味しくなるね。」
「そうだね!さ、早く食べよ!いただきまーす。」
彼女はコロッケを食べ始める。
「このタイの塩焼き、おいしいね。」
「ああ、今日みたいな良い日にぴったりだと思って。」
現実と変わらない質感の焼けた魚の映像が、コロッケを包む。頭の中のチップは舌に偽の電気信号を送る。彼女の味はチップに支配される。そして彼女は独り言を言う。
「ちょっと待って!最後はタイ茶漬けにするんだから!残しておいてよ。」
「わかったわかった。いつもどおりね。」
彼女は綺麗に骨から身だけをとったコロッケを、どんぶり一杯のご飯の上に乗せ、醤油とわさびを入れてから緑茶を注ぐ。
「君は本当に魚を綺麗に食べるね。」
「へへへ、すごいでしょー。」
そして、映像の夫と共に過ごす楽園の夜は更けていく。
ここは拡張された楽園だ。
この偽物だらけの楽園で、
彼女はこれからも本物で居続けることができるのだろうか。
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