第12話 蟻の回路 ver.1.01(前編)
蟻の回路 ver.1.01
国境近くの誰も住んでいない白い砂の街、風を凌ぐ布の屋根の下で、私は地面に這いつくばっていた。このちっぽけな小国は、かの大国から援助を受け、歴史上最も残忍で残酷なテロ組織が支配する隣国を解放すべく、戦っていた。これは代理戦争であった。大国の代わりに戦い、その報酬として政府が多額の資金援助を得ている。そんな捨て駒の、たくさんの兵士のうちの一人が私であることは理解していた。しかし、我が民族の発祥の地は自らの命をかけて守らねばならない。私はパイロットとなり、そしてその結果、砂漠のど真ん中に放り出され、こうして死線をさまよっている。こうなることは必然であり、血を流し傷ついた体も、カラカラに乾き息が通るだけでしみる喉も、もう戦えない無念も、すべて受け入れて安らかに死のう。
そんな生きることを諦めた私の視線の先に、一匹の羽アリが飛び降りてきた。芋虫のように地面に体を預けている私の目と、彼女の目はもはや同じ高さである。そう、彼女は若い女王蟻だった。自分の生まれた巣から、新しい安住の地を求めて長旅をしてきたのだろう。彼女の羽はボロボロで、彼女もまた、私と同じように這いつくばっていた。ただ、私と決定的に違うところがあった。彼女は生きたいという意志に満ち溢れていた。新しい命が詰まっているだろう大きな腹を抱えて、必死に歩こうとしている。彼女は新しい命が自分を必要としていることを理解している。では私はどうなのか。私が死んだ後の死亡弔慰金で家族は十分にやっていけるのだろうか。いや、それは金で解決できるような問題ではない。子供たちは私を必要としているはずだ…
それでも私は動くことができなかった。けれども最後に「親」として子供たちのことを願いながら死ねることに安堵していた。これはちっぽけな蟻のおかげだ。私の気持ちが変わったところで、何も変わらないかもしれない。それでも、親として死ねることに一種の満足感を得ていた。少しだけ動かせる右手で、彼女にお礼をしよう。
私は建物の隅に、ナイフを突き立て穴を掘った。そして、必死に歩く女王蟻の目の前に指を差し出した。彼女が指に乗ったことを確認した後、そっと穴に降ろしてあげた。
「いいお母さんになれよ。」
私は少し眠ることにした。
指先の痛みで目が覚めた。少し体は休まったようだが、変わらず喉はカラカラだ。
「痛っ。」
チクっとした痛みを右手の指先に感じた。見ると、前よりお腹の小さくなった女王蟻が、私の指先を噛んでいた。今にも死にそうな私を起こしてくれたのか。いや、水分を求めて傷口を作っただけなのかもしれない。どちらにせよ、今動かねば、生きることはできない。人は水を3日飲まないだけで死んでしまうのだ。再び、この小さい友人に助けられてしまったようだ。私は彼女が顎を緩めた隙に右手を引いた。指先から流れる血を見て、無駄とはわかっていても口にせずにはいられなかった。しかし、その血は意外な味がした。
「甘い…」
それは甘くて、芳醇で、幸せそのものだった。その味は私に「生きろ」と単純なメッセージを送ってきた。何故、血がこんなに甘いのか。
「生きろ」と頭の中で繰り返しながら、手を胸と地面の間に入れた。それからゆっくりと腕の筋肉と、足の筋肉と、肩の筋肉を使って四つん這いになった。もう一回指の血を舐めてみると、それは本来の鉄の味に戻っていた。
その時に視界に入った地面の彼女を見ると、何やらお腹をさすっている。彼女はお腹から、蜂蜜のような色の液体の玉を出し、それを地面に置いてから、あのナイフで作った穴に入っていった。
私はその金色の玉を指でつまんで、口に入れてみた。やっぱりそうだ。先ほどの幸福が身体中に行き渡る。こんな小さな糖分の玉では、大した栄養にはならないだろう。しかしそれでも確かに、希望と活力が私に与えられたのだ。
そして、私は立ち上がった。まずは水を探そう。壁の隅の穴からは、小さい触角が2本、飛び出していた。
かつてはこの街も栄えていた。ただ戦闘地域になってからは放棄され、今は誰もいない。栄えていた頃の名残の農場へ向かえば、地下水を汲み上げるポンプが残っているはずだ。街の外れから5km歩いたところに農場はあった。案の定、荒れ果て乾いて、食べ物などどこにもないが、紫色の水道管が露出しているのを私は見つけた。そしてさらに、頑丈なディスプレイと黒いキーボードもだ。
この砂漠の国では水は何よりも貴重なものだった。汲み上げた地下水はその一滴一滴を無駄にしないために、精密な制御により、作物の根へ分配されていた。水の少ない分、我が民族は知恵と絶え間ない努力により食料を確保した。農園の徹底的なシステム化もそのうちの一つである。実際、戦争が始まる前は、砂だらけの国であるのに関わらず、食料自給率は100%だった。
電源を押して、システムを起動させた。良かった。まだ太陽電池は生きているようだ。しかし、ディスプレイに映った文字は、
『ポンプが故障しています』
その言葉に私はがっかりしたが、そう事が上手く運ぶわけはない。このボタンがあっただけでも良しとしよう。キーボードについている一際目立つボタン、『SOS』ボタンだ。私はそのボタンを押した。
『SOSボタンが押されました。緊急時用の水槽から、1週間分の水と3日分の食料を確保できます。加えて、SOSが発信されます。ディスプレイ裏から位置計測装置を取り外し常に身につけてください。ただし、これは救助を保証するものではありません。繰り返します、これは救助を保証するものではありません。』
取り出した水を、少しだけ、大切に飲む。そして、ディスプレイ裏から取り出した小さくて軽い装置を、腰のベルトに取り付けた。
さて、これから食べ物を探さねばなるまい。
取り出せる水は50リットル。必要な分以外は緊急時用水槽に入れておいた方が安全だ。私はとりあえず、二日分の水を水筒に入れ、街へ戻ることにした。
ボロボロの家に戻った後、私は友人の巣のそばに、水の入った小さい皿を用意した。
「乾杯だ。」
彼女はその2本の触角で注意深く水を調べたあと、飲み始めた。私も喉の渇きを癒す。言わずもがな。私はこの小さい同居者に愛着を持ち始めた。彼女は何故私を助けたのか。偶然なのか。それを直接彼女に聞きたくなった。そして、砂漠で生き抜くための知恵を彼女は持っているはずだ。どこに食料があるのかと言う答えを、彼女は虫の本能から知っているのではないか。それから、私は彼女のために歩くことができる。私たちは助け合うことができる。彼女と言葉を交わしたい。私は彼女と話すことにした。
そのために向かったのは、街のはずれのスラムにあるゴミ処理場だ。ハエが飛び交っている。それは裏を返せばハエが食べる物もあるということだ。しかしここへ来た目的は、腐った兵士や、ハエではない。目的のモノは、私の足元をカサカサとくぐり抜けていった。それは大きめのゴキブリで、その背中に爆弾を背負っていた。
命を捨てることを恐れないテロリストに、連邦は手を焼いていた。彼らは躊躇することなく、自爆を作戦に組み込んでくる。死を恐れずに、市民に紛れて爆殺を仕掛けてくる。それではこちらの兵士の命がいくつあっても足りない。その問題を解決するために考案されたのが、「ゴキブリ爆弾」であった。ゴキブリの触角を回路によってハッキングし、命令を与える。元は原子力発電所や、災害時のグチャグチャに壊れた街など、人が入りづらいところに入り、現状把握や救助を行うための技術だったが、かの大国はそれを当然のように軍事転用した。わずかな隙間さえあれば、このゴキブリ爆弾は街に、家に、ビルに入り込み対象を爆破する。使用者が傷つくことがないクリーンな兵器だ。テロリストを殲滅するため対象へ向かうように放たれたゴキブリ爆弾だが、中にはプログラムのバグか、それとも機械的な問題か、不発弾を背負うゴキブリもいた。それらは爆発することなく生き残り、野生化した。
軍から支給された電磁パルス発生装置を作動させると、ゴキブリはその動きを止めた。ナイフで虫の背中の機械を外す、虫の方も持って行こう。小さな同居人へのいい土産ができた。それから、ごみ捨て場を一回りして、同じように2、3匹のゴキブリを捕まえた。
家へ戻った時にはもう夜になっていた。ゴキブリ爆弾のバッテリーにより、明かりを確保する。同居人の住む穴のそばにゴキブリの死体を置くと、女王蟻が出てきて、それを巣へと運び込んだ。
わずかな明かりを頼りに、私は電気工作を始めた。夜はなかなか過ごしやすい。遠出をする必要がない日は夜に行動することにしよう。
まず、ゴキブリを外した機械を爆弾と神経細胞に電気信号を送るための装置の2つに分離する。後者が、蟻と私を繋ぐ翻訳機になる。私はゴキブリの触角の根元に繋がっていた2本の電線をその装置から伸ばして、形を蟻の触角のように整えた。
そして、回路と、ディスプレイとキーボードを接続し、電源を入れた。実は農園に行った際、これらを取り外して持ってきておいたのだ。ディスプレイには虫に命令を与えるためのコマンドを打ち込む真っ黒な画面が浮かび上がった。即席の神経ハイジャック装置の完成だ。私は画面に『触角を私の触角に付けたままにしろ』と打ち込んだ。
最後に、偽物の触角の下に、女王蟻を誘うための水の入った小さい皿を仕掛けた。
「ほら、喉が渇いただろう。こっちへおいで…」
女王蟻は彼女の巣から、彼女の触角をぴょこっと覗かせる。昼間、私が水を与えたことを覚えているのだろうか。彼女は注意深く、私の行動を見ていたが、白い皿が置かれるのを見るとチョロチョロと皿のそばまで歩いてきた。
「よし。触れ、触ってくれ…」
彼女はついに電気触角に触った。彼女の体は一瞬、硬直したように痙攣し、すぐさま『触角を相手の触角に付けたままにする』という命令が彼女を支配した。私は彼女が落ち着いてから、キーボードでこう打ち込んだ。
『こんにちは』
すぐにその下に彼女の返事が表示される。
『y』
ふむ。最初はこんなものか。反応があっただけでも良しとしよう。私はこの結果に満足し、今日のところはこれでやめることにした。初めてだし、彼女を長く拘束しすぎては疲れてしまうだろう。
『次の朝に私の触角を触れ』
『y』
『さようなら』
『y』
解放された彼女は水を少し飲み、巣に戻った。巣にはすでに卵が3つあった。
早朝、ぐっすり寝た後に私は彼女と再び会話を試みていた。
『近くに地上から50m以下の浅い水源があるか?』
『yes』
『それは北か?』
『no』
『それは南か?』
『yes』
『それは東か?』
『yes』
『それは4時の方向か?』
『yes』
「となると…」
私は考える。南東の赤岩の山脈までの途中の地面の下に岩盤の上を流れる地下水脈があるのだろう。さらに、質問を続ける。
『距離は3000より小さいか?』
『no』
『距離は5000より大きいか?』
『no』
私は南東の地形を思い浮かべながら、4時の方向で水脈のありそうなところに当たりをつけてみる。
『距離は4300か?』
『yes』
-30度の方向で、4300離れている場所は…
『座標は(3720, -2150)か?』
『yes』
よし、座標を特定できた。あとは掘るだけだ。
『ありがとう』
『yes』
『次に白い皿を巣の近くに置いた時、私の触角を触れ』
『yes』
『さようなら』
『yes』
私は水脈を探しに出かけることにした。
周りの家屋を漁り、スコップを手に入れた私は、1時間歩いて目的の座標についた。そして、乾いた大地を掘ること5m、スコップがカチンと音を立てて、スコップを掴んでいる手がジーンと痺れた。固い岩盤に当たったようだ。これ以上はスコップで掘れない。ならば…
私は腰に下げた爆弾を取り出した。ゴキブリから分離した不発弾は念のため、修理していた。地下水を掘り出すとき、または敵に遭遇してしまったとき、役に立つだろうと思ったからだ。穴の外に出てから、タイマーを10分に設定し、放り込む。安全なところまで離れてから、耳を塞いで見守ると、
「ドンッ」
と重い低音が響き、地面にぽっかりと穴が空いた。
私は柔らかくなった岩だったものをさらにスコップで掘っていった。
半径10m、深さ25mのすり鉢状の穴ができた。穴の底はじんわりと湿っていた。ついに、地下水脈まで到達したのだ。私は達成感を感じ、そして疲れを感じた。今日のところはこれで終わりだ。水はまだ十分にあるし、帰る体力が残っているうちに蟻の元へ帰ろう。
井戸にビニールをかけてから帰宅した。帰る途中にゴキブリ爆弾を見かけたので、数匹捕まえた。
『こんにちは』
『こんにちは』
『1+1は?』
『2』
蟻を繋いだ回路を、簡単な計算ができるように改良した。そして、質問にイエスかノー以外の答えを返せるようにした。ただし、今のところは答えの文章中の単語をランダムに返す程度のものだ。
『井戸を固めるにはどうしたらいいか?』
『水』
『井戸を固めるにはどうしたらいいか?』
『赤土』
『井戸を固めるにはどうしたらいいか?』
『水』
『井戸を固めるにはどうしたらいいか?』
『水』
『井戸を固めるにはどうしたらいいか?』
『混ぜる』
『井戸を固めるにはどうしたらいいか?』
『赤土』
『井戸を固めるにはどうしたらいいか?』
『乾かす』
ふむ、答えの文章は『水と赤土を混ぜて乾かす』だろう。あまり強度は高くないと思うが、水と赤土を混ぜたものを井戸のすり鉢に塗っておこう。
『ありがとう』
『yes』
『さようなら』
『yes』
夕飯に乾パンを食べて、私は眠った。
翌日、私は井戸を完成させるため、座標(3720, -2150)に向かった。
一晩経って、穴の底には泥が溜まっている。私は早速、爆弾を取り出した。ただし、今度はゴキブリ付きである。井戸掘りのついでにハッキングしたゴキブリ爆弾のテストを行うためだ。このゴキブリにはあらかじめ、「10分待機する。50m直進する。爆発する。」と命令を与えている。私は穴から50m離れ、ゴキブリ爆弾を穴に向けて設置する。そして、回路を起動した。
10分の待機時間の間に、さらに安全な場所まで退避する。
停止していたゴキブリが動き始めた。その虫は穴の方向へ一直線に走る。そして、穴の中心に止まり、爆発した。
この発破により、さらに5m掘り下げる予定だ。25mのすり鉢状の穴の下のさらに深い5mの穴には、水を貯めることができる。
スコップで泥をかき出し、時々すり鉢状の穴の表面にそれを塗りながら、黙々と穴を掘っていく。1時間に1回、休みをはさみ、喉を潤す。時には食事をし、最大の効率で作業できるように努める。掘って、かけて、掘って、掘って、掘って…。
ついに井戸が完成した。そこには濁った水が溜まっている。この水は明日には綺麗になっているだろう。
街に帰る頃には、夜になっていた。しかし、少し様子が違うことに気がついた。真ん中の広場から明かりが漏れている。息を潜め近づき、隠れながら広場の様子を伺うと、そこにはターバンを巻き、アサルトライフルを持った男たちが野営をしていた。
テロリスト…つまり、敵だ。パイロットの私を追ってきたのか、それともただの移動か。どちらにせよ、私の隠れ家が見つかり、私の存在がバレてしまえば、捕まって人質になるのは避けられない。こちらに銃はないのだ。そして、彼らの処刑方法は連日のニュースの通りだ。しかし、これは好機でもある。
彼らの持っているだろう食料、地図、武器、ラクダは私の生存率を大幅に引き上げる。
「よし、狩るか。」
私は彼らを殺すことにした。
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