壁に耳あり障子に目あり 『シュタージに気をつけよ』
「ドイツ人と日本人は気質が似ていると聞くけど実際はどうなの?」と少なくない数の日本人から聞かれたことがある。
「ドイツと日本は先の大戦でも同盟国だったからな、共に経済大国だしな、似てるよな」と強気なおじさんにも何度か出会った。
ドイツ人である夫を捕まえて「今度戦争やる時はイタリア抜きでやろうな、わははは」という酔っ払いにも数人遭遇した。
確かに両国とも、先の大戦で敗戦を喫しても尚、世界有数の経済大国にしてものづくり大国に返り咲く勤勉さや、時間や約束を守るという律儀さなど、一般的なイメージは合致している。
どちらもメールの返信が早いし、電話を取る時は苗字を名乗るし、知り合ったばかりの人にぐいぐい行かずに距離を取るところも似ていると言える。ああ、そうそう、ダンスを踊らせると、妙に動きがぎこちなくて滑らかさがない所も似ている。しかし、メンタリティはほぼ180度違うと言っても過言ではない。
日本人の場合『空気を読み、控えめな様子』が好まれるが、これを現代ドイツ人に当て嵌めてみると『意見を呈し、自信に溢れた様子』が好ましい。もちろん鼻持ちならない自信過剰は嫌われるが、それでも自信がなくて己の意見を言わない人間よりは断然評価される。言わぬが花など存在しない。言ってなんぼ。言わぬが負け。
ついでに、買い物に行くとお客様は神様の日本に対し、店の人が絶対的権威なのがドイツ。閉店間際の客に内心苛つきつつも笑顔で接客する日本に対し、閉店5分前辺りで「もう仕舞だよっ!」と鬼の形相なのがドイツ。
幼稚園で仲の悪い子どもたちに対し「みんなと仲良くしましょうね」が日本なら「仲良くないなら距離をとりなさい」がドイツ。我慢するのが大人の対応な日本に、論破するのが大人なドイツ。そもそも現代ドイツには読む空気など存在していない。
東ドイツ人が資本主義への転換期に学んだこの『自分自分(ich ich)精神』は現代ドイツに於いても揺らぐことのない大切な礎である。
そして前述の『日本人の場合』はそのまま『東ドイツ人の場合』に置き換え可能なのである。東ドイツでは状況に応じて空気を読んだり、口をつぐまざるを得ない状況が多々発生したからである。政治が絡んだ時、である。
社会主義時代は、国家の意向により、皆と足並みを揃えて全体主義を第一としたので、東ドイツというのは所謂ムラ社会であった。そう、まさに日本のそれである。学校や会社、そして近所での付き合いは濃い目に設定されており、グループ単位での活動が奨励された。そこには互いを自然と意識せざるを得ないシステムがあった。出る杭は打たれ、発言に気を付けないと村八分にされ、怪しい動きがあればくまなく監視された。それも隣人を装った監視員から。そんな経緯により『周りの空気を読み、控えめな様子』であることが処世術となったわけだ。
東ドイツといえば、あの悪名高き秘密警察『シュタージ』を連想する人は多いだろう。稀にナチス時代の『ゲシュタポ』と混同している人も見かけるが、どちらも国家による盛大な諜報活動であることは同じである。
『Staatssicherheit』という国家安全保障の意味を略したのが『Stasi シュタージ』で、徹底した体制を敷いて東ドイツ国民を監視し、更には西ドイツへのスパイ活動にも熱心だった。東ドイツは西ドイツを意識しまくり、対抗意識燃やしまくりであったし、対する西ドイツも、東ドイツが何かで成功を収めてもことのほか小さく報じるなど、余裕を見せつつもライバル心は持ち合わせていたようである。
さて、このシュタージは正規職員と非公式協力員に分けられていて、この非公式協力員というのは、厄介なことに匿名で身近に潜む市井の人々だったのである。いつも感じのいい隣のおばさんの職業は幼稚園の先生であり、そして二足の草鞋を履いたシュタージの非公式協力員でもあった、なんてことが普通にあったということだ。もちろんすべては秘密裏に行われていた。
酒を飲んで気が大きくなった人がうっかり国家の悪口を言ってしまい、その場に居合わせた非公式協力員が素早く密告し、ほどなくして警察が現れて逮捕に至るなんてこともあった。誰がチクったかは誰も知らない。沈黙は金なり。
「発言の自由がない暮らしなんて辛すぎるでしょ」と私が呟くと、
「でも、日本だって自由に発言すると痛い目に遭うって前に愚痴ってなかったっけ?少なくとも東ドイツは政治以外の発言は自由だったよ」カトリンから思わぬ攻撃。
「そもそも日本にはシュタージもいないのになんで『空気を読み、控えめな様子』が好まれるの?自由主義社会なのに」うん、いいとこついてきたね。
そうはいっても日本は東ドイツ時代とは違い、言論と思想の自由が保障されていることを説明しようと試みたが、
「でもドイツで見る福島の原発事故のニュースが日本のと違うと言っていたよね。反政府デモをメディアは意図的に報道しなかったって。それって東ドイツ時代と同じ言論統制じゃない?」更に追い打ちを掛けてくる。ああ耳が痛い。
東ドイツの人々は『国家に関わること』を除いては、あけすけに個人的な話をしたし、既にご存知のようにあけすけに裸になって寛いでいた。医者でも農家でも給与体系に差のない社会に於いて、お金の話はタブーどころか互いの利益になる話は進んでしたし、妬み嫉みというものも少なかったらしい。皆同じような環境と境遇にあり、助け合いの精神は強かったし仲間意識も強かった。
「そもそも熱心な社会主義者なんて私たち家族の周りにはいなかったし、ほとんどの東ドイツ国民が政治には不満で反体制だったのは暗黙の了解だったし。それを踏まえた上で皆が助け合ってたっていう感じだと思う」
「でもその中に非公式協力員がいるかも知れないなら、そうもあけすけに話なんてできなかったでしょうに」素朴な疑問を投げかける。
しかしカトリンによると、彼女の父親は友人らとお酒を飲みながら東ドイツの国政についてよく話をしていたという。大事なのは『資本主義を礼賛しないこと』一点で、国政について意見を述べたり不満を表明することはそう神経質に禁止されてはいなかったようだ。そして、人々が集まって話すのは何も政治だけではない。それ以上に趣味やスポーツ、車に休暇に仕事の話とたくさんあるのだから。
「西側のテレビだって皆観てたよ。大きな声では言わないだけで、西側からの情報なんて皆知ってた。東ドイツのニュースがいかに一方的なものであるかも知ってたの」
電波は壁にも鉄条網にも遮られない。東ドイツ国民はアンテナの位置をずらし、しかし音量は小さめで、西ドイツのテレビを視聴していたのだ。これを取り締まれば、東ドイツ国民のほとんどが逮捕されてしまうくらいに、皆向こう側に興味津々だったのである。シュタージは気付いていただろう。でも大きな対策を講じることはできなかった。
そして統一後に、シュタージ職員の名前や個人情報が、東ドイツの市民運動による機関誌に掲載されることになる。正規職員がメインではあったが、一部の非公式協力員の情報も漏えいした。
この機関誌でカトリンの家族も真実を知ることになったが「まさかあの人が……」というよりは「そうだったのか」と妙に納得したものらしい。そういう社会が悪かったのだ、と罪を憎んで人を憎まずという考えもあったようだが、それは実質的に被害がなかったから言えることで、シュタージによって酷い目に遭わされた人はそうもいかなかっただろう。
実際に逃げるように引っ越した元シュタージ関係者は多かったようだ。反体制者として目を付けられた者は、尾行され、盗聴され、それを逐一国家に報告されていたのだから。痴話喧嘩の内容から、風呂場での鼻歌、セックスの時間まで事細かに記録されていたのだから、たまったものではない。
しかし、ごく一般の市民の周りには際立った反体制者もいなければ、そこまで現実的にシュタージの存在を身近に感じることもなかったのが実情らしいが、それは統一後に全貌が明かされるまで、シュタージの具体的な活動内容を把握していなかったところにもある。
「本当にそういうのとは無縁だったの。シュタージに捕まっただとか、遠い知り合いの話で聞く程度だったんだから」とカトリンは何度も繰り返す。確かに彼らシュタージはどこにでも存在していたし、日々どこかで監視されていたのは確かだが、普通に暮らす市井の人々が実害を被ることは少なかったというところか。
東ドイツと聞くとどうしても『シュタージに怯えて暮らす人々』を想像するのだが、ごくごく普通に毎日を楽しく暮らしていた人たちの方が多数派だったのだ。
カトリンに説明を促され、日本人が『空気を読み、控えめでいること』を美徳とする理由を考えてみた。長きに亘り継承される日本のお家芸であるこの精神だが、どうも今と昔の捉え方にかなり違いがあるような気がする。
かつては、それこそ日本人の美徳である『謙虚さのなせる行動』だったのに対し、現在は『謂れのない攻撃をされないための防御策』になっている節がある。
同様に、かつては横並びであることに安心するという価値観だったのが、現在は横に並ぶ人を見て「自分はこの人より上だ、下だ」と優劣をつける方向にスライドしている気がする。仲間意識という概念が薄れているのかもしれない。勝ち組だ負け組だ、やれカーストだとぎくしゃくしているから、弱い者が更に弱い者を叩く。
昨今の『特定の公人攻撃』は、やや常軌を逸している。過ちを犯した公人を一億総シュタージならぬ、一億総小姑とばかりに嬉々として皆で吊し上げる。この人は罪を犯したのだから人に非ずとばかりに。まるで中世の魔女狩りさながらの狂乱を横目に、自分には火の粉が降りかかりませんようにと、ますます『空気を読んで、控えめに』暮らす。そこには謙虚さなんて欠片もない。
シュタージはいわゆる裏切り行為を生業としていたわけだが、もちろんそこには旨みもあった。報酬ももちろんその一つ、そして『横並びの国民から抜きんでいる、特別な自分の存在』を意識できること。彼らは国家に忠誠を尽くす自分に酔い、そうでない罪深い人々を徹底的に批判する自警団だった。
「私はルールを遵守しているのに、この人はそれを無視するのが許せない」
「私はこんなに我慢しているのに、この人は自由で腹立たしい」
「叩いている私は悪くない、悪いのは叩かれるようなことをするこの人」
私はカトリンにこう告げた。
「日本国民が一丸となってシュタージ活動をしているから、日本の秩序は今日も守られているわけですよ」
※実際のシュタージの(東ドイツのですよー)活動を見てみたい方には、是非、この映画『善き人のためのソナタ』をお勧めしたい。途方もなく素晴らしい映画です。
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