憧れの団地暮らし 『あの頃のプラッテンバウ』

 私は生まれてから5歳まで、大阪のとある団地で過ごした。いかにも高度経済成長期に建てられた、真四角な切り餅のような5階建て。田舎の広大な家に慣れている祖母は、こんなマッチ箱みたいな家じゃ息苦しくてたまらん、と我が家に来るのを嫌がっていたけれど、今考えても機能的でそう悪くなかったように思う。何棟か並ぶ団地には某電気会社の名が冠されていたので、そこに暮らす者は皆同じ職場だったということになる。となると、母はご近所づきあいに手を焼いた可能性も考えられるが、覚えている限り、母親たちは外で井戸端会議をするのが常だったし、子どもたちは示し合わせたようにいつも外に集合し、年齢の別なく遊んでいた。大きい子が小さい子の面倒をみるのは日常の光景だった。昭和あるあるノスタルジーである。

 

 その社宅団地は仮住まいの要素が強く、ぱらぱらと誰かが抜けて行っては新しい人が入ってくるという具合で、例に漏れず我が家も私が5歳の時に近郊都市のマンションへと越した。そのマンションも団地と同様、子どもらはいつも自然発生的に外に集合し、敷地内にあった公園で日が暮れるまで遊んだ。夕飯の時間になると上からそれぞれの母親たちが子どもらを呼び、一人抜け二人抜け、そして公園は静かになった。いわゆるベッドタウンにあり、急行停車駅の徒歩圏内、ということで似たような懐具合のサラリーマンが多い、そういった類のマンションだった。


 さて、私が旧東ドイツに妙な懐かしさを覚える一因に、まさに日本の団地よろしく林立する東ドイツ発祥の四角い集合住宅の存在がある。この社会主義時代を象徴する折り目正しく均一な住宅は『プラッテンバウ』と呼ばれる建築で、プレハブを利用し、短期間で安価に建設が可能なため重宝された。社会主義風と言えば、いかにもソ連の影響を受けた左右対称で重厚かつ威圧感のあるスターリン様式建築も個人的には好みだけれど、このプラッテンバウ以上に東ドイツを東ドイツたらしめる建築はないと思っている。

 西側の人や遊びに来る日本人の多くには「簡素な上に不気味で、見てるだけで不安になる」などと酷評されるのだけれど、待て待て、西側の建物の不細工さと日本の混沌とした住居環境を棚に上げて何をか言わんやと、東側の肩を持ってしまう私なのである。少なくとも東ドイツ人は不細工で簡素な建物に「メゾンドナントカ」とか「ナントカヒルズ」なんて口に出すのも恥ずかしい名を付けたりはしていない。あの罪深さをまずなんとかしてから文句を言いやがれ。


 このプラッテンバウと日本の団地は共に、近郊で働く労働者とその家族を対象として計画的に建設された集合住宅であり、当時としては先進的な住宅設備を備え、モダンで都会的な暮らしに憧れる人々がこぞって移り住んだというところも共通点だ。この団地から仕事場へ直通の電車を走らせたり、団地内に商業施設や学校に幼稚園、映画館などの娯楽施設や大きな公園を設けたりなどのインフラ整備により、未来型都市として莫大な人気を誇った。

 

 私の暮らすハレ市内に存在するプラッテンバウはたくさんあるけれど、中でも圧巻なのは当時人々の憧れの的だった未来型都市、ハレ‐ノイシュタッドだ。現在は近郊の都市ライプツィヒに暮らすカトリンだが、実はスーパーモダンなこの区画で子ども時代を過ごした、いわゆるクールキッズらしい(本人談)18階建の高層住宅がずらりと並ぶその様は、私が中学の途中から高校卒業までを過ごした、横浜の某高層団地と趣が似ていて、懐かしい気持ちにさせられる。

 この横浜の団地は最寄駅までバスがないとアクセスできないため陸の孤島と揶揄されていたけれど、大型スーパーに専門店、郵便局や銀行に病院、幼稚園、小中学校に併せて老人ホームまで備えた、ゆりかごから墓場までを地で行く未来型都市だった。日本にあって珍しく、電柱が地下に埋め込まれており、歩行者用と自転車用道路が色分けされ、車道との境もしっかり線引きされていた。そのあたりも含め、まさにハレ‐ノイシュタッドの町づくりと酷似している。私がこの町に妙な郷愁を感じるのは当然なのかもしれない。私は横浜版ハレ‐ノイシュタッド出身のクールキッズだったのだ。知らなかった。

 

 大型団地ハレ‐ノイシュタッドには実に多くの世帯が暮らしていたけれど、とりわけ化学工業系の工場に勤務する人が多かった、というのも、東ドイツでは日本のように『社宅制度』が設けられていて、団地の殆どを企業が所有し、労働者たちがそれを借上げるというシステムが一般的だったことによる。ちなみに東ドイツに於いての企業、工場すべては『国営』なので、国の所有ということになる。

 ハレを囲んで、化学工業三角地帯と呼ばれる三つの大きな工業地域があったため、その職場まで直通の輸送電車が走っていて、朝はぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られて仕事に行き、ぴったりに就業時間が終わるとまたラッシュアワーが発生するという具合で、まさにベッドタウンとして機能していたようだ。

 カトリンの父親は、ハレ近郊にあるプラスチックやゴムを生産する高分子化学工場で働いていて、いつも決まった時間に駅前に迎えに行くと、電車からどんどん吐き出される労働者の中に父親を見つけることができて嬉しかったそうな。なんだか昭和の香りさえ漂ってくるではないか。


 ここで決定的な違いをひとつ挙げる必要がある。それはハレ‐ノイシュタッドには団地妻、ではなく専業主婦が存在しなかったということ。社会主義国には専業主婦という概念が存在しない為、女性たちは皆職業婦人であった。これに関してはまた改めて詳しく説明するが、それゆえに団地内に併設された保育所は女性の大きな味方だった。1歳になるのを待たず早々に子どもを預け社会復帰するのが一般的で、子どもたちは両親が仕事を終えて帰ってくるまでの一日を集団保育で過ごした。学校が退けてもホート(Hort)という学童保育所があり、そこで宿題も終わらせた。子どもは子どもの世界の中で育てるという方針が強く、それが望ましいとされていた。これは現在も東側に見られる傾向である。


 カトリンの団地でも私の子どもの頃同様、家に帰ってくると誰ともなく敷地内の公園に集まりだしては日が暮れるまで遊んでいたようだ。敷地内はしっかりと囲われていて、子どもたちが外に出てしまう心配はなく、親たちは安心して目を離して遊ばせることができた。そして今のように親がずっと傍についているなんてことはなかった。大らかな時代でした、今思えば。

 そして、それぞれの親たちが建物の上から、夕飯のコールなりサインなりを出すと、一人ずつ家路に着く。うちの母は王道の「ごはんよー帰ってきなさーい」コールだったが、同じ階のとあるおばさんは上からベルをりんりんりんと鳴らしていて、私はそれにこっそり憧れていたが、母は信条を曲げず最後までクラシック路線を貫いた。そしてカトリンのところは、うさぎのぬいぐるみを窓に出しておくのがサインだった。もっと遊びたいカトリンはそのうさぎを見て見ぬふりをして延長戦を図るも、結局誰もいなくなってすごすごと引き返すのが通例だったそう。

 私たちの幼少期を語る時、この集合住宅の思い出は外せない。親を介することなく、同じ建物内に住む友達のところにアポなしで遊びに行くのだって、かつてはごく普通のことだった。私の知る限り、同世代の日本及び東ドイツの団地っ子の間では一般的だった。

 しかし今では、同じ建物に住む子どもたちが自然に集まって遊ぶ姿が日常ではなくなったよねと、東側出身の友人らも口を揃える。いちいち親に連絡を入れて、確認して、と随分御大層になり、必要以上に親が干渉するようになった。

 これは日本に暮らす友人らからも聞かれる声で、いつの間にか集合住宅の伝統であった「地域皆で遊んで大きくなる」という風習は肥大化する個人主義の波に飲まれたのか、少しずつ消えつつあるのが現状のようだ。

 子どもはいつの時代も子どもで、娘と自分の資質に隔たりがあるとは思えないけれど、子どもを取り巻く環境、親や大人たちの意識の変化が今の状況を生み出していることだけは確かな気がしている。これは危険、それは他人に迷惑、あれは禁止。どれで何して遊べばよいのやら。今の子どもたちに申し訳ない気持ちになる。

「最近はヘンタイなんかも多いでしょ?」という声も聞くが、ヘンタイはいつの時代もどこにでも一定数存在している。問題はヘンタイの進化より『地域ぐるみ』の習慣がなくなったところにある気がするのだが。


 そして、人々の憧れの的だった最先端のハレ‐ノイシュタッドも時を経て、日本の団地の市場価値に変化があるように、現在はもはや率先して住みたがる人がいないのが実情である。最高にクールとされたホッホハウスと呼ばれる高層団地も、幾つかは事実上閉鎖されている。現在は低所得者層、ハーツフィアと呼ばれる生活保護受給者や外国人、そして東ドイツ時代からずっと同じ所に住み続けているという高齢者が主に暮らしていると聞く。

 そこに暮らす高齢者の数はまだとても多く、ビルの一角でポリクリニックという開業医をしていたカトリンの母親は、そこに暮らし続ける同胞を、定年退職したつい最近まで診療し続けていた。そして彼女が退陣する際にクリニックを継続してくれる人を募っていたのだが、これが想像以上に難航したようだ。若い人にとってはもう魅力的ではない町、ハレ‐ノイシュタッド。

 

 東西ドイツ統一後に、とてつもない失業者数を記録した旧東側の人々、特に社会主義体制にどっぷりだった当時の中年以降の人々が突然資本主義的競争社会に投げ入れられてもうまく行く事例は少なく、国営企業の買収や消滅により職を失い、生活保護を受けて同じ場所に暮らし続け、精神を病んだり、アルコール依存に陥るなどの問題が深刻だった。ゆえに、ここにはまだたくさんの老人たちが暮らしている。かつて子どもたちが走り回った活気溢れる空気はもうそこにはない。残念ながら、現在のハレ‐ノイシュタッドはゴーストタウンのように生気がない。


 栄枯盛衰とはよくいったもので、私がかつて暮らしていた横浜の某高層団地も同様の問題を抱えている。未来型都市に憧れて分譲時代に購入した人々は老人になり、子どもたちが巣立った後もそこに暮らし続けるゆえに老人人口が一気に上がり、古くなれば資産価値が落ちる日本の住宅事情により、若い家族は入ってこない。そんなこんなで、子どもの数は一気に減少、ふたつあった中学はひとつに統合され、それも廃校を危ぶまれるほどの生徒数の低下。老人の為の施設ばかりが増築されている。先日懐かしさに駆られて遊びに行ってみたら、そこは老人の桃源郷だった。もし20年後くらいに団地全体が高齢者施設化していても驚きはしない。むしろよっぽど現実的である。

 

 ドイツと日本、どちらも少子高齢化問題がリアルに迫る。まさに二つの団地は同じ道を辿っていて、その少し老朽化した、でもまだまだ威圧感のある高層団地群に漂うもの哀しさが、ひとつの時代の終焉を告げているようでやや感傷的になる。いい時代だったよね、とカトリンが言う。うん、そうだね、いい時代だったよね。


 現在、無人になっていくプラッテンバウがどんどん取り壊されている。東側の人たちでさえ「あんな不細工な建物早くなくして正解」だと思っている様子だが、あのなんともいえない絶妙なダサさと不気味さの同居するプラッテンバウが完全に姿を消した時、旧東ドイツは完全に姿を消してしまうのではないかと勝手に心配している私がいる。

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