ヘリコプター菩薩マザー 『大人と子どもの距離』

 それは娘の誕生日パーティでの出来事だった。

大人は我が家のリビングでお酒を飲みながら寛ぎ、子どもたちは娘の部屋で一緒に遊んでいたのだが、Cの子どもがリビングのCの元を離れようとしない。まあシャイな子どもなのだろうと見守る客人たちであったが、次第に微妙な空気が漂いだした。


 私たちはテーブルを囲み、皆で談笑していた。Cの子どもは執拗に大人の会話に割りこんで母親の注意を引こうとするのだが、その度にCがすぐ娘の方を向いて「なに?どうしたの?」と応えるものだからグループの会話が続かない。Cが投げかけた質問に答えている人を完全に無視して子どもの話を聞き続ける姿に、一同がしらけた表情になる。東側の人々は、子どもが大人の会話に首を突っ込むと「今は大人が話しているから後で聞かせてね」という姿勢が一般的である。思えば私の子ども時代もそんな感じだったと記憶している。

 ひとりでは子ども部屋に行けず、母親を独占したがる娘のためにCが立ち上がり、その後彼女はずっと子ども部屋に篭り、自分の娘を仲間に入れるため率先して『彼女自身が』子どものグループを纏めて遊びだした。飲みかけのシャンパンを置きっぱなしにして。


 その場に居合わせたカトリンを含む客人たちの顔に浮かぶ大きなクエスチョンマーク。どうしてあんなに過剰に子どもたちに構うの?そんなに介入しなくても子どもは子どもで遊ぶのに。その場ではCだけが西側出身であった。


 後日、こんな投書が寄せられた。

「カルチャーショックを受けました。私の(東で固められた)友人には存在しないタイプの母親でした。あれは西側特有なのですか?」カトリン ライプツィヒ在住


 いやいや過干渉な母親なんて、万国共通どこを探しても一定数いるはずと、私は思うのである。東側にだっているに決まっている。子育てなんて子どもの数だけ違うし、たまたまその日がそんな調子だっただけかもしれないし、となるべく公平にみようと努力した結果導き出されたのが『西側と東側、もしかすると存在する子育て差異問題』である。


 確かに、私が唯一の外国人母である非常にローカルな『東』の幼稚園の父兄を見渡してみても、子どもとの関係がさっぱりしていると感じるのは事実だ。東側の人々の集まる場では、大人は大人で、子どもは子どもと確かにしっかり線引きができている。これは東側の今までの積み重ねによるところが大きいと思われる。そして、私が子どもの自主性を尊重するという建前の元、放任主義でいても、ここでは不自由に感じたことがないことにも気付いた。もしかすると「この外人、随分適当に子育てやってんな」と生暖かい目で見守られている可能性も一応置いておく。


 実は、毎年娘を連れて日本に帰省する度に『精神的に』非常に疲れてしまう。勝手の違いのせいかと思っていたが『母親はこうあるべき』という圧力を感じとって、不承不承過干渉気味な母を演じる自分に疲れていたというのが本音かもしれない。多少ほったらかしにしてもいいだろうと個人的には思うのだが、そうすると『ダメ母』の烙印を押されてしまうのが怖い。所詮私も同調圧力に弱い日本人である。はみでては叩かれてきた子ども時代のトラウマが蘇る。


 前出のCは才女で素晴らしくユーモアがある大好きな友人であるが、いかんせん子どもの一挙手一投足に敏感すぎる。正直に言うと、私はその過干渉ぶりに苛つくことがあり、それを彼女に告げると「そう私ってちょっと過干渉なの」と客観的に自身を振り返られるほど余裕のある女性である。きっと彼女の方が適当すぎる私に腹立たしく思うことが多いだろうに。


 そこで、Cの例だけではなく、私の知り得る限りの西側ドイツ人で母になった人物を思い浮かべてみることにした。確かに……過干渉な印象がある。

 この人たちはさぞやクールな母親になるであろうと思われた、元パーティガールだったSも、ヒッピーでピースだった(これまた)Sでさえも、そういえば母親になると皆一様に『子ども第一主義』のおかんへと立派に変貌を遂げていて、彼女らが子どもといる時の姿勢はまさにC同様、子どもにべったりである。

「子ども中心で何が悪いのよ、私は母親よ。母親ってそういうものでしょう」

という台詞が自然に口をついて出る人は、例外なく前時代的な母親像を持ち合わせている。自己犠牲が母親の美徳であるというあの精神。そう、かつての西ドイツと日本の母親のように。恐らくそこにすべてが凝縮されている。子どもの頃から設定され、刷り込まれている『よき母親像』の姿が違うのだろう。西側、及び日本の理想の母親像は、聖母マリアか菩薩かというほど慈悲深い存在であるらしいのだ。


 たとえば公園に行くと、私はベンチに座りたまに娘の姿を確認する程度で、その内に娘は誰かしらと遊びだしたり、ひとりで冒険を始めたりする。助けが必要なら彼女の方から声が掛かる。しかし菩薩母たちはじっと座っていることはなく、ヘリコプターとなって常に手助けできる位置にスタンバイしている。あっ、ようやく隣に座った、と思ったらまたすぐに出動する。大いに偏見があるのかもしれないが、西側ドイツと日本の友人知人の多数がこの傾向を持っている。子どもが落ちないように支え、それはまだあなたには早いと迂回させ、母がいないと遊べないように仕上げているのは、他でもないその母たちなのである。

 これを日本の友人に話すと「だって他人の子どもに怪我させたり迷惑かけたら気まずいじゃん」と返ってきた。「あとすぐに親の責任問題に発展するしね」なるほど。


 東側のこの辺りの公園で子どもたちが小競り合いを始めたって、親が介入してくることはほぼない。やめなさいよアンタと引き剥がすぐらいで。

 先日娘が故意ではないにしろ同じクラスの男の子に怪我をさせた。その子は足の骨折でしばらく幼稚園を休むことになってしまい、私は彼の母親に「うちの子がごめんね」と日本風に謝ったのだが、彼女は驚いた顔をして「こんなことが起こるのは想定内のことだし誰も悪くないわよ」と笑っていた。子どもの世界では当然起こり得ること、ということらしい。

 西側の母Sが、幼稚園で自分の子どもに悪影響を及ぼすから、と乱暴な振る舞いをする子どもを遠ざけるように先生に頼んだという話をしていたのを思い出した。


 英語圏で一時期流行した言葉に、ヘリコプターペアレントというものがある。丁度日本ではモンスターペアレントという単語が流行した頃と時期を同じくしていると思われる。どちらも過干渉な親を指す語であるが、ヘリコプターペアレントというのは、子どもが失敗しないよう、傷つかないよう、丁度ヘリコプターのホバリングのように常に子どもの近くに待機し、何か起こると我先に駆けつけて問題解決をする親のことを言う。子どもが自発的に成功と失敗の体験をするチャンスを与えず、先回りをする行為が特徴だ。


 誤解のないように言うと、そんなヘリコプター菩薩マザーは本当によくできた母親である。菩薩であるからして声を上げて怒ったりはしないし、慈悲深い顔つきで子どもを見守る、一生懸命な努力の母である。彼女らの子育て情報はウィキペディア並みに網羅されているし、明らかに楽しくないであろうおままごとなどにも菩薩スマイルで付き合ってあげる懐の深さもある。観察する限り、やや完璧主義の女性に多く見られる傾向がある。かわいい我が子が傷つく姿を見たくない、いつも幸せでいて欲しいと強く願うゆえに、自分の経験をフル活用して子どもを守ろうとする。溢れる愛情を感じるのも確かだが、そこに「立派な子に育てたい」「賢母でありたい」という強迫観念めいたものも同時に感じる。


 彼女らから見れば私は、子どもと遊んでやらずに自己を優先する育児放棄母に映るのかもしれない。どれが正解というのはないにしても、子どもには子どもの世界があり、親がずっと守ってやれるわけではない。先回りして問題解決してあげるより、ぶつかりながらも自分で世間を渡っていく強さを身につけてあげる方が、子どもには必要なのではないかと、個人的には思うのだけれど。


 そして東側では言うまでもなく『親の都合に子どもが合わせる』スタイルであり『子ども中心』の西側や日本とは完全に向いている方向が違う。私はどうやら己に適した土地に暮らしているらしい。もしくは、ここで出産子育てしている内に知らずと影響を受けて東の民然としてきたのかもしれない。そういえばFKKデビューだって果たしている。影響受けまくりではないか。


 東側と西側をざっくりと比較すると、東側の初婚年齢、及び初産年齢は圧倒的に西側よりも早い。東ドイツ時代にはとにかく早く家族を持つのがよしとされていた名残がここにもある。そして東側でひとりっ子というのは珍しく、私の娘は幼稚園のクラスで唯一のひとりっ子だが、対する西側はひとりっ子が多いという統計もある。

 条件は揃った。

『西側は晩婚、及び高齢出産が多く、ひとり産んで職場復帰してもあれこれ大変で、ひとりっ子に落ち着くことが多い。そして専業主婦だった自分の母親像が刷り込まれているゆえに、母親たるものこうでなければという過干渉マザーが仕上がりやすい』そんな背景がぼんやりと浮かび上がってくる。対する東側の母親は子どもらを引き連れたリーダーのような立ち位置というのがしっくりとくる。どちらがいい悪いでなく、意識的もしくは無意識であれ、理想の母親像が違うだけのことなのだ。育てたように子は育ち、見てきたような母になる。自然の摂理である。

 

 余談だが、私が娘を叱ると「お母さん、ハッピーな顔してよ」と毎度言われる。叱りながらニコニコするなんて、某俳優じゃあるまいしそんな芸当できるわけがない。私は声を荒げないよう、低いトーンで切々と説明的に叱るよう気を付けているので、その表情だってニュートラルなものであると信じていた。だが偶然、叱っている自分の顔が鏡越しに見えた時、そこにはくわっと目を見開く般若がいた。あんな鬼の形相で叱り続けたら娘にトラウマを植え付けることにもなりかねないレベルのリアル鬼婆だった。私は偉そうなことを言う前に、少し菩薩マザーを見習わなければと真摯に、心から反省した。ヘリコプターはちょっと大仰すぎる上に腰が重いので自転車でも傍に置いておこうと思う。いざとなったらチリンチリン。

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