裸の東ドイツ

おにぎり

ランバダ談話 『バブルと壁の崩壊』

 ある寒い冬の午後、私は友人カトリンのキッチンでお茶を飲んでいた。昼間なのに太陽が顔を出さないのでどんよりと薄暗い。ドイツ東部の町ライプツィヒは予報通り今にも雪が降り出しそうに空が低く、灰色の雲がたちこめていた。


 なんとなく気分を盛り上げたくて点けていたラジオから、ずっと忘れていた、しかしある時期毎日のように耳にした懐かしの曲『ランバダ』が流れてきて、一瞬にしてあの頃に引き戻された私とカトリンは思わず顔を見合わせ、同時に「うわー懐かしーい!!」と叫んでいた。


 ランバダとは南米の風薫るリズム音楽で、1989年にリリースされると瞬く間にその情熱的なダンスと共に世界中に飛び火した。男女が性的な連想をさせるほどに密着して踊るスタイルに日本中が大興奮で、ランバダを踊っただけで妊娠するなんて噂がでるほどだったらしい。テレビがまだ大らかで、女性がぺろんとおっぱいを出すのが容認されていた時代でも話題沸騰だったのだから、今なら速攻でBPO審議入り案件間違いなし。


 カトリンと私は初めて会った時から馬が合った。職業は教師と堅めな割に、時間にルーズで適当で、誰とでもすぐに打ち解ける、およそ『典型的なドイツ人』からは遠い人物である。

 かと思えば、ギリシャ料理屋でシュニッツェルというドイツ定番おふくろの味の薄いトンカツを注文するような『典型的ドイツ人』でもある。そんな同胞の数は少なくないようで、異国料理屋の多くがその国には存在しないであろう薄いトンカツを定番メニューとして掲げている。ドイツ人を迷わせるな。とりあえずシュニッツェル。


 ドイツ人は基本的に冒険をしない。同じ土地に暮らし、いつものレストランで毎度同じものを注文し、夏になればお気に入りの場所に休暇に出掛けていくのが『典型的なドイツ人』たるものと自虐的に認めている。そしてドイツ人の多いリゾート地では必ず出会える信頼と実績のシュニッツェル。


 極東からやって来た私と出会い、オリエンタル代表格の寿司を覚えたカトリンは虜に。何はなくとも寿司を食べに行こうと誘ってくるようになった。一度ハマるとしつこくリピートするのは『典型的なドイツ人』であるが、彼女は自分がハイカラになったと信じているようなので大きな声では言わないでいる。『典型的なドイツ人』と言われることを嫌がるのも典型的なドイツ人である。


 と、こんな具合に『典型的なドイツ人』を多用する現代ドイツ社会であるが、ほんの20数年前までは、二つの主義を異にした国に分かれていたことを忘れてはいけない。第二次世界大戦後に分割されてできた、西ドイツという資本主義国と、東ドイツという社会主義国が40年間存在していたことを払拭するかのように『典型的なドイツ人』という共通認識を育んでいるように感じる時がある。

 

 カトリンは東ドイツのハレというライプツィヒに程近い町に生まれ育ち、丁度ランバダが世界的に流行したあの頃、東ドイツ国民からドイツ国民になった。


 ランバダが流行し始めた1989年の10月。社会主義国東ドイツのライプツィヒでは、予てより加熱していた反政府デモがもはや制御不可なまでに膨れあがっていた。国民が叫んでいたのは、民主化そして自由に西側諸国へ旅行する権利。東ドイツ人は事実上国内軟禁状態で、同じ社会主義国以外への旅行は厳しく禁止、すぐ隣の資本主義国西ドイツへも自由に出られず、人々の不満は最高潮に達し、東ドイツ政府は慌てふためいていた。


 「国外に出せ!」と叫ぶ国民を鎮静しようと、東ドイツ政府が出した苦肉の策は『ビザとパスポート所持者には西ドイツを含めた外国旅行を無条件で認める』というものだった。当時の東ドイツ人の殆どがパスポートなど所持していない上に、ビザの発給にべらぼうな時間が掛かることを計算した、意地悪な条件付き政策である。

 

 ここで世紀の勘違い男シャボウスキー報道官が登場する。彼はこの決定が下された時に遅刻してその場にいなかった。詳しい内容を把握しないまま、急かされて予定されていた形だけの記者会見へと移動する。


 当たり障りのない会見が終盤に差し掛かった時、とある記者が「現在過熱している出国規制問題は政府としてどう考えているか」と質問をし、遅刻したせいでいまいち内容を理解していない彼は焦って、ぱらぱらと資料をめくり、ぱっと目についた「外国旅行を無条件で認める」という箇所だけをなんともめでたく読み上げてしまう。それはまだ報道関係者には非公開、そして但し書き付きの情報であったのに。


「そ、それはいつ解禁になるのですか?」と驚きを隠せない記者の質問に、またもやこのうっかりさんは焦りながら資料に目を通し「えー、私の知る限り、今すぐにです」と世紀の勘違いを披露する。やっちまったなシャボウスキー。むしろ策士であってほしい。


 それが瞬く間に世界中に配信され『一夜にして突然』東ドイツ人は突然、自由の身となり、雪崩のように西ベルリンに押し寄せた。冷戦を終結に導いたのは素晴らしき勘違いだったのである。これだから歴史というのはおもしろい。


 当時10歳の小娘だった私は、壁の崩壊を日本のテレビで見ていた。報道はこの歴史的快挙に興奮しきりで、東西ドイツ人が壁の上で涙を流して肩を組む姿や、つるはしで壁を壊す人々の映像は歓喜に充ちていて、それはそれは世紀のお祭り騒ぎだった。無知な私は、壁が壊れたくらいで何を大騒ぎしているんだろうとその政治的な意味も理解せぬまま、それでも貰い泣きしている母の涙に貰い泣きするほどには、彼らの歓びを感じていた。


 その後とんとん拍子で再統一への道は進み、翌年1990年10月3日には東ドイツが西ドイツに吸収される形でひとつの国、ドイツ連邦共和国が誕生した。


 私とカトリンは、ドイツの凍てつく冬には不釣り合いな、ねっとりとした南国の果実を思わせるランバダを聞きながら、この10歳やそこらの頃を思い出していた。雪がちらちら舞い始めていたが、この音楽ひとつでキッチンも私たちもすっかりと暖まっていた。カトリンがやや興奮気味に、でもしんみりと口を開く。

「やっと自由に西ドイツに行けるようになって、初めて家族でカッセル(東ドイツの端アイゼナハから一番近い西ドイツの町)に行った時、町があまりにもカラフルでこのランバダが流れてて、これぞ自由な世界の象徴だと思ったんだ。東ドイツはなんてグレーな世界だったんだろうって驚いた」


 一方、その頃の日本はバブル期真っ只中にあり、望月の欠けたることも無しとばかりの好景気に沸いていた。給料袋が立っただの、毛皮を着たOLが存在しただの、もはやお伽噺のような時代だった。うらやましい。

 残念なことに10歳だった私はそんな恩恵に預かることもなく、しかも大阪という土地柄、ワンレンボディコンのお姉さま方よりも圧倒的にオバタリアンが多く生息していたことくらいしか覚えていない。でも、ランバダを聞くと一気にあの頃の浮かれた妖に満ちた空気を思い出せる。


 あの音楽は魔性のようなものを秘めていて、抗えずにどこか遠くへ連れて行かれてしまうような心許なさがある気がする。ランバダは明るい曲調に反し、なぜかとても悲しい響きを隠し持っているのだ。


 

 今でも「東ドイツ時代はよかった」と話す老人たちを知っている。『自由』と引き換えに『不自由』になったとは近所のお婆さんの弁である。「私は多くを望まないから、前のままでよかったのよ。東ドイツはとてもいい国だったの」


 薄暗かった東ドイツに突然、物が増え、ハッとするような色彩が溢れた。西側資本の店や企業が続々と進出し、そして、とんでもない数の失業者で溢れた。「西から来た人たちが全部持って行ってしまったのよ。全部自分たちの物にしてしまったの」


 東ドイツが敵と呼んでいた資本主義社会は、弱肉強食の世界。対する社会主義社会は、努力せずとも仕事が与えられ、すべてが公平に分配されていた。自己主張は歓迎されず、足並みを揃えることが最も大事とされた。

 この相反する主義を見ても、東ドイツの人々が資本主義化するのにどれだけ苦労したかは想像に難くない。

『典型的な東ドイツ人』は常に受け身で、怠惰でも失業する不安はなかった。頑張ったところで報酬は同じとくれば、事なかれ主義に落ち着き、平穏無事を何よりとするのも当然である。あれ、なんだか日本のようではないか。


 ランバダのミステリアスで妖しげなメロディに導かれるように、東ドイツは恐る恐る新体制に飛び込んでいき、そして日本では満月の欠けていくがごとく、平成不況がじわりじわりと始まりだしていた。


 東ドイツ人が試行錯誤しながら資本主義の洗礼を受けている頃、極東の資本主義国日本は狂乱の最中にあった。バブル崩壊は勢いを増し、この世の終わりとばかりに、羽のついた扇子を持った派手なお姉さまたちがパンチラしながらジュリアナ東京で踊り狂っていた。

 それは江戸時代末期の社会不安に端を発した『ええじゃないか踊り』さながらの狂乱で、そしてそんな彼女らのボディコン世直し民衆運動も実ることなく、すべてが泡になって儚く消えた。ああジュリアナ行ってみたかった、と当時中学生だった私はがっかりした。バブル世代つくづくうらやましい。


 エキゾチックで自由で、でもどこかに哀愁を含んだランバダは、あの混沌とした時代に完全にマッチしていた。しかしこの一発屋のランバダ、実は盗作で、ボリビアのフォルクローレバンドの曲を人知れずまるまるコピーしてダンサブルにアレンジしたら、まさかの世界的大流行。原曲は「泣きながら去った」という愛する人が去っていくという曲らしい。


 それを聞いて以来このランバダが、失われた東ドイツへのレクイエムに聞こえて仕方ない私なのである。

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