私は同世代に比べて圧倒的にゲームをやらずに過ごしてきました。
ドラクエもFFもやったことありませんし、格ゲーもスト2くらいです。あさりよしとおや押切蓮介の漫画に登場するゲームも名前は知っているくらいのがほとんどです。
なので、このレビューという体を取った小説がどの程度「それっぽい」のか、実際のところはわかりません。
ただ、そんな私にもわかるくらいこの作品は我々がまだ見ぬ未来のゲーム業界、そしてそれについて更なる未来人が綴ったレビューを精緻にエミュレートしています。
我々が慣れ親しんだノリを仮想世界に持ち込むというアイディアはさまざまな作品で見られるものですが、それをここまで楽しく実現している作品はそうそうないでしょう。
ゲーム史という視点から魅力的な未来像を面白おかしく鮮やかに私たちに見せてくれる、この作品は素晴らしいSFだと思います。
ゲームソフトの流通は、これまでの店頭販売からDL販売、果てはクラウドゲーム(覚えてます?)とルートが増え、ファーストや倫理団体のチェックを受けない物も数多くなり、消費者にはあまりよろしくない「低評価」を受ける物が存在します。(任天堂やソニーやセガやNECが鎬を削っていた時代にも低評価の烙印を押された物、そもそもアングラで発売された物もありましたが)
いわゆる「クソゲー、低評価」の評価は16年現在、大手ゲームメディア、販売サイトのレビュー欄、口コミ、「昔からクソと言われていたから」、ハード論争により匿名掲示板やまとめメディアで意図的に評価を下げられたものなどが存在しますが、作者さんの意図は「あらゆる低評価ゲームの低評価を消す」という固い一点で動いており現在もTwitterと生放送配信を舞台に、怒られるかもしれませんが一般的には「ゲテモノゲーム」「そもそもゲームではない」と括ってもいいような低評価ゲームであっても実に様々な角度から魅力をあぶり出し、我々にゲームを評価することの根本を問うていらっしゃるのですが、カクヨム進出にあたり「自分で考えだした未来の低評価を下された架空のゲーム、または周辺機器」へのカウンターを放つという一歩間違えれば正気を疑われる文章を書かれています。
ただ作者さんならではの普通に生きていたら絶対に出会うことはないゲーム達(例えば中国で発売された日本のメディアでは絶対扱わないような謎のゲーム)+普通の名作と言われるようなゲーム体験、流行の時事ネタ(最近ではVRやロボット技術でしょうか)、更には未来予測が高度に調和してレベルの高い「未来ゲームレビュー」という新ジャンルをここに生み出すまでに至りました。
後、これを読んでいる方で中国の低評価ゲーム「血獅」に心当たりのある方は作者さんに教えてあげてください。
「2115年に開設されたゲームレビューサイトの文章」という設定で書きだされたこの小説とも批評とも精神病患者の戯言とも言い切れないこの・・・これ・・・えーと・・・なんだろう・・・このなんかはゲーマーならニヤリとする「あるある」ネタがこれでもかと盛り込まれている。
さらにその「あるある」は「あるある」を積み重ねていくことで「あるあるネタ」にとどまらず、現代批評となり未来予測となり、ついにはSFロマン大作を生むに至ったのである。
第二話「Acacia」は未来のゲーム用アンドロイドを題材に「オタクのスケベ心」、「拡散するネットミーム」などの「あるある」ネタに爆笑するが、やがて主題は「進み過ぎたテクノロジーの悲哀」であることに気付かされる。
これは「あるある」ネタが作者の長年ゲーマーとしてゲームを愛し、積極的に活動を行ってきた(具体的に言うとフィリピンパブのカラオケでチューリップを歌いチンピラを打ち負かしたり、自分でゲーム福袋を作り自分でそれを開封しあまつさえそれを配信する等)経験による圧倒的なリアリティに裏打ちされているに他ならない。
全てのゲーマーに、いや、ゲームをやらない人にも全力でオススメできる圧倒的にすごいなんかそのよくわからないなにかだ。
「低評価ゲームの再評価活動」をライフワークとし、世界中の低評価ゲームを収拾、アラモゴードから出土された伝説の低評価ゲーム「E.T.」を購入した日本人としてメディアに取り上げられた事もある赤野工作こと模範的工作員同志氏のオリジナル小説。
小説の内容は、氏が普段行っている低評価ゲームレビューと全く同じ体裁で進む。ただひとつ、「レビューしているゲームがまだこの世に存在しない未来のゲームである」というところを除いて。
氏の低評価ゲームレビューを知る人なら、まるで100年後の未来にも何らかの手段を取って氏が存命であり、低評価ゲーム再評価活動を続け、現代にレビューを届けているのでは、と思わせるリアリティがある。
しかし、氏の活動を全く知らない人でも、斬新なアイデアと「ありえる」未来のゲーム事情を描いた、優れたSF作品として楽しめる構造になっている。
確かな知識とゲームへの愛、そして低評価ゲームに執着する狂気によって紡がれた文章はゲームファンの心を掴むはずだ。
世の中にはクソゲー、と呼ばれるものがある。
その基準は人によって様々だから、明確な定義付けを行うことは出来ない。さる名作をクソゲー呼ばわりするユーザーもいれば、プレイした大多数がクソゲーと呼ぶゲームもある。怒りのままにクソゲーという言葉をぶつけるユーザーもいれば、クソゲーなりに楽しもうという愛をもってクソゲーと呼ぶユーザーもいる。
しかし、それらの様々な価値基準の中で一つ、共通する点がある――「クソゲー」と呼称したゲームのクオリティに対して好感を抱いていない、ということだ。
この小説はそういった低評価ゲーム――有り体に言えば「クソゲー」レビューという体裁を取っている。
これは珍しいものではない。十年以上前にも遡るテキストサイト全盛期、インターネット上では人々がこぞって名を挙げるために「クソゲー」レビューを物していた。
この小説内で記述されたゲームレビューは、そういった「クソゲー」レビューとはいささか趣を異にする。
理由は二点。
一点は、「現実には存在しない、架空のゲームをレビューしたものである」ということ。
もう一点は、「本当にそれはクソゲーであるのかと懐疑し、再評価の目を向けている」ということだ。
架空のゲームをレビューする。端的に言えば荒唐無稽にも思えるが、その実、小説内で記述される「架空のゲーム」はリアリティに満ちている。
なぜかといえば、「架空のゲーム」に対する評価の実態、つまり発売された当時の人々の反応などが説得力をもって語られるからだろう。
なぜこれほどまでに説得力を感じられるかというと、これは個人的な所感になるが――小説内で語られる未来の人々と同様、現代人も実にしょうもない理由で低評価を下しているからだ。
人間、進歩ねえな。そんな哀愁漂う滑稽さにおかしみを感じてしまうのはきっとぼくだけではないと思う。
加えて、本当にそれはクソゲーであるのかという懐疑からなる再評価。これは単純なルサンチマンや判官贔屓などではない。読んでみればわかるが――という表現はレビューとして失格だと思わないでもないのですが――この小説は低評価、すなわち「クソゲー」とあだ名されたゲームへの優しさ、慈愛に満ちている。
蔑まされ、馬鹿にされ、話の種として消費される運命にあった「クソゲー」。例えそう呼ばれても仕方がない理由があったにせよ、そんな「クソゲー」を純粋な心で楽しみ、そして愛した人がいるのである。
この小説はまごうことない未来の一側面を描いているが、同時に現代の相似形でもある。
自分は「クソゲー」という言葉をあまりに気軽に用いてはいないか? 「クソゲー」という言葉が氾濫するインターネットに慣らされ、大上段から低評価を下し、そのゲームを愛する人もいるのだという当たり前の事実をすっかり忘れてはいないだろうか? そう自らに問いかけ、戒める必要を強く感じさせられた。
ここでぼくは最後に一つ、はっきりと申し上げたい。
クル・ヌ・ギアはクソゲー。
この作品は、世界で最もゲームを愛している人物によって書かれた、ゲームに対する愛の物語である。
最も、と言うのは誇張でも宣伝文句でもない。作者は実際に、世界中から、数多くのゲームを買い集め、楽しんでいる。
それも、集めるために集めているのではない。クソゲーとあざ笑うために集めているのでもない。遊び、楽しむために集めているのだ。
これほどゲームを愛している人物は他にいないだろう。
この作品は、世界で最もゲームを愛している人物による、ゲームに対する愛の物語である。
だが、その愛とは決して楽しいだけの愛ではない。ゲームに一方的に注ぐだけの、利己的な愛ではない。
「本編」である未来ゲームレビューは、作者がゲームを愛し過ぎるがゆえに、現在のゲームのみでは飽き足らず未来のゲームを愛してしまった、そんな物語である。
ゲームを愛している作者によって書き出された、ゲーム愛に溢れる「未来のゲーム」の話。
それは、本当にそんなゲームが存在すると錯覚させるようなリアリティに満ち溢れている。一話読んだ後には、本当に楽しいゲームを遊んだような、そんな爽やかな読後感に満ちている事だろう。
だが同時に、レビュー対象となるゲームは、何らかの理由で「低評価」とされたゲームである。作者が心から愛し、愛するがあまりに自ら産みだしてしまった未来のゲームは、しかし悲しいかな、評価されないものばかり。
レビューの裏には「自分の愛を世間に理解して貰えない悲哀」と、「自分の愛を理解できない世間への哀れみ」も描かれている。
この作品はとても楽しい。しかし楽しいだけではなく、そこに考えさせられるような深さもぎゅっと詰まっている。
そして、ゲームへの愛をさらに深く描き出したのが「雑記」だ。レビューが「愛するゲーム」を題材としているのに対し、雑記は「ゲームを愛し、未来に生きる作者」を題材としている。
そしてこの雑記では、様々な理由でゲームを遊べなくなり、様々な理由でゲームを楽しめなくなっていく過程を通し、「ゲームを愛しているのに、ゲームに愛して貰えない悲哀」と「ゲームを愛せなくなる事への恐怖」が描かれている。
それは、息を呑むほどに美しく、残酷で、だからこそ心に響く。
この作品は、世界で最もゲームを愛している人物によって書かれた、ゲームに対する愛の物語である。
そして、愛する事の喜び、愛する事の辛さ、愛する事の恐怖。愛に関する全てが詰まった、一級品のラブストーリーである。
僕たちは美しいものが好きだ。
そして、あらゆるクリエイターは、己の中にある美しさを目に見えるかたちで再現する表現者のことだと僕は考えている。
その昔、ビデオゲームは限界との戦いだったという。
1990年代、当時の若者たちはゲームセンターと呼ばれるビデオゲームをプレイする専門のフロアで対戦格闘ゲームに興じることがブームになっていたそうだ。とwikipediaに書いてある。
(ゲームセンターに設置されているビデオゲームはアーケードゲームと呼ばれていたようだ)
そのブームに目をつけた当時のゲームメーカーはこぞって人気のアーケードゲームを家庭用ゲーム機に移植を試みたけど、アーケードマシンと家庭用ゲーム機ではスペックに差がありすぎて、移植というにはおそまつな、画家の描いた絵を三歳児が模写したようなシロモノがほとんどだったという。
(ただし、移植度の高かった作品や移植版のほうが評価の高い作品もいくつかあったことをここに記しておく。ちなみに家庭用ゲーム機とアーケードゲームのスペックに差がなくなったのは、ここからさらに20年後のことだと書いてある。20年!)
当時の若者たちがそんな中途半端なものでも楽しんでいたというのは正直疑わしい気もするけど、たいせつなのはプレイヤーじゃなくてクリエイターなんだ。
おそらく、無謀だと言われただろう。
それでもそこに挑戦したのは、そこに彼らの美意識や美学、つまり表現すべきと確信した美しさがあったからに違いない。
そしてその挑戦によって底上げされた技術が今の僕たちの生活や豊かさの基盤になっていることも間違いない。
大昔、貨幣は巨大な丸い石だった。
大昔、携帯ゲームは壁を作るレンガみたいにぶ厚くて、戦争の爆撃にも耐えるほど頑丈だった。ただし表示カラーはモノクロ。
そこからさらに美しくあろうと考えて、工夫して、立ち向かって、ときには笑われて、そうやって磨き上げられた時代に今の僕たちは生きてるんじゃないかな。
ある時代に低評価とされたもの。
それは、その時代に最も美しくあろうとしたものなんじゃないかな。
ここで紹介されているものが、それだと思うんだ。