アイヌ語で白く濁った川のことを「ヌブルベツ」と言うらしい。
「喪失」とは、いつまでも鮮やかな色ではなく、徐々に時間の膜に蔽われて、ヌブルベツの風情を醸すのかもしれない。
「蟻の枝」「蝉の死骸の日記」「これはひどい」「ミミのしっぽ」の四編から成る連作短編集。
一貫するテーマは「喪失」で、日記形式であったり、シナリオ風であったりと、語り口に富み、キャストも多様。
単独で読むことも出来なくはないけれど是非、順に通して読んでほしい。
「喪失」に伴う感情が、白い川底に沈んでいる。
読み進めるうちに、それに手を伸ばせるようになる。
不可視の感情が、あなたの掌に伝わる温度を、味わってください。
緻密な構造を持つ四つの短編からなる作品です。それぞれの短編は単独でも面白いですが、通して読み終わって全体像を眺めると、さらに深い奥行きがあることがわかります。
端的な言葉で綴られる情景はどこか歪で、共感と不理解の境界を行き来する物語構造の繊細さに、夢中になって読み進めてしまいました。
短編集のそれぞれの主役たちに、そのまま共感できるかと問われれば難しい。そのはずなのに、描き出された空白は、ひどく身に覚えのある形をしているのです。
あらすじで語られている通り、テーマは「喪失」。
読み終えて、その単語を見返して、もう一度頭から読み直したくなる物語です。
この四篇の物語、特に表題にして最後を飾る「ミミのしっぽ」は、一見して何の繋がりも無いように思われますが、そこで描き出そうとしているものはある種共通した、人間の本質なのだろうと思います。
個人的にはより繋がりの明瞭な前三篇が好みで、中でも「これはひどい」の作中にある舞台劇などは、そのエンタメ性、露悪性など、このままどこかの劇場で上演されていたら凄まじい反響を呼ぶだろうと思える代物です。僭越ながら、「どこかに持ち込めば良いのに」などと思ってしまいました(笑)
「ミミのしっぽ」は最も難解かつ風味に妖しさを残しつつも、叙情的な余韻を読者に与え、単品でも十分に素晴らしい前三篇を結ぶに相応しい傑作です。
正直私は、純文学? なにそれおいしいの? って人間です。
この作品を読み始めたのも、なんだか可愛いタイトルだったのと、短編集なので、のんびり読めばいいかな、という軽い気持ちで読み始めたのです。
実は、作品の伝えたいことを読み取れているかも自信がありません。
しかし、淡々と紡がれる物語の中の、激しくどこか歪な感情が、次を読みたいと思わせてくれました。
楽しい話ではなく、人間の汚い部分に触れている、と言ってもいいようなお話であるのにも関わらず、目をそらしたくない、そらせないという様にこのお話に入っていきました。
純文学と言えば、難しい文章で書かれているんじゃないの? というイメージでしたが、その点に関してはとても読みやすく、しかし、美しい文章でした。
ぜひ読んでみてください。
「蟻の枝」「蝉の死骸の日記」「これはひどい」「ミミのしっぽ」という4つの短編で構成されているんですが、それぞれの話が象徴的な場面の連続になっていて、表層に描かれていることより、もっと深い何かを伝えようとしていると感じます。
たとえば、「蟻の枝」は一見すると、子供の頃のかくれんぼの話、蟻地獄に蟻を落として遊んだ話、みんなで見た上映会の話、死んでしまった生物の墓をつくった話……など、懐かしさを誘う情感あふれる短編ですが、何気ない場面を積み重ねて暗示されるのは、エロスとタナトス、自己愛と対象愛といったフロイト的な思想です。
この作者さんの作品を『幻想を泳ぐ魚たち』『ミミのしっぽ』『アスコラク』という順番で読んでいくと、よりそう感じるんですが、夷也荊さんは心理学、文化人類学、社会学、表象学といった分野の広い知識を持ち、ふだん意識されることのない社会や心の深層、構造を解き明かそうとしている、思想家でもある人だと思います。
また、そういった要素を抜きにしても、この短編集、特に「ミミのしっぽ」――幼馴染みと死に別れた故郷に帰る、2人が共有していたミミという猫が少しずつ消えていく話は、成熟に伴う「喪失」に胸打たれる、素晴らしい短編だと思いました。
「喪失」をテーマとする連作短編で、「蟻の枝」「蝉の死骸の日記」「これはひどい」、そして表題の「ミミのしっぽ」という4つの話から成っています。
それぞれを独立した話として読むこともできますが、4編を読み通したとき、パズルが完成するように大きなメッセージが浮かび上がってくるように感じました。
正義と利己心、虐待の根源にあるもの、自己と他者……。
簡単には答えを出せない問題について、象徴的で魅力的な場面をいくつも組み合わせることで、押しつけがましくなく考えさせていく。そんな小説だと思います。
読んでいると心がソワソワして、でも、読むのをやめられない感じです。
個人的には「蟻の枝」の最後の場面がとても好きです。「君」と「彼」の間にいる猫のミミが少しずつ消えていく話も、とても感銘を受けました。
対象を突き放して傍観しているのにも関わらず色彩豊かな文章、多分それは書き手の言葉選びと形容の巧さによるものだろう。例えば、作中の「風が耳元で渦を巻いて音を立て、山裾まで広がる黄金の稲を揺らしていく。その光景は風に揺らめく草原の姿そのものだ。黄金の草原は米が実り、穂が刈られる間の短い間にしか姿を現さない~中略~稲よりも背の高い稗が所々に伸び、軽快に駆ける馬を髣髴とさせた。雲一つない空では、鳶が弧を描きながら独特の声で鳴いている。それに吊られて白いサギが一斉に飛び立った。」というこの箇所、彩りさえも指定された情景が、どのように運動しているかが読み手の五感を刺激しながら活き活きと描かれているのである。さらには三人称では文章が硬くなってしまうので、すべてを見通す不可視の不思議な猫を語り手にすることで文章を柔くリズミカルにすることに成功している。徹頭徹尾計算されたこれらの文章から、書き手のこれまでの読書量が非凡であることがうかがい知れる。
ジュブナイル文芸と評したのは、作品の評価がこの世界観を誰に向けているかで変わるということだ。少年少女に向けられたもの、少なくとも二十代半ばまでの読者ならばこの作品にハマることができるはずだ。彼、もしくは彼女はそこに文芸を感じるだろう。故に、読者層を絞っているならばこの作品は成功している。 しかし三十も半ばの読者にとっては、幼い書き手の心象風景を達者に書いているだけのものにも捉えられてしまう。もしこれが作者の世界観の全力であるならば、もう少しの成長を(期待を込めて)切に望みたい。書き手には既に書く基礎力は十分に備わっているはずなのだから。
ちなみに、私の近況ノートに人称についての質問がありましたが、本作は全て一人称で書かれていると考えて良いと思います。