ジュブナイル文芸、とでも呼ぼうか

 対象を突き放して傍観しているのにも関わらず色彩豊かな文章、多分それは書き手の言葉選びと形容の巧さによるものだろう。例えば、作中の「風が耳元で渦を巻いて音を立て、山裾まで広がる黄金の稲を揺らしていく。その光景は風に揺らめく草原の姿そのものだ。黄金の草原は米が実り、穂が刈られる間の短い間にしか姿を現さない~中略~稲よりも背の高い稗が所々に伸び、軽快に駆ける馬を髣髴とさせた。雲一つない空では、鳶が弧を描きながら独特の声で鳴いている。それに吊られて白いサギが一斉に飛び立った。」というこの箇所、彩りさえも指定された情景が、どのように運動しているかが読み手の五感を刺激しながら活き活きと描かれているのである。さらには三人称では文章が硬くなってしまうので、すべてを見通す不可視の不思議な猫を語り手にすることで文章を柔くリズミカルにすることに成功している。徹頭徹尾計算されたこれらの文章から、書き手のこれまでの読書量が非凡であることがうかがい知れる。

 ジュブナイル文芸と評したのは、作品の評価がこの世界観を誰に向けているかで変わるということだ。少年少女に向けられたもの、少なくとも二十代半ばまでの読者ならばこの作品にハマることができるはずだ。彼、もしくは彼女はそこに文芸を感じるだろう。故に、読者層を絞っているならばこの作品は成功している。 しかし三十も半ばの読者にとっては、幼い書き手の心象風景を達者に書いているだけのものにも捉えられてしまう。もしこれが作者の世界観の全力であるならば、もう少しの成長を(期待を込めて)切に望みたい。書き手には既に書く基礎力は十分に備わっているはずなのだから。


 ちなみに、私の近況ノートに人称についての質問がありましたが、本作は全て一人称で書かれていると考えて良いと思います。

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