舞台の上に

 正子はその後、静養の為田舎に戻る事になった。千葉での事を忘れる事ができるよう峰子の配慮だった。

 田舎での正子は小林家の菩提寺でもあった坂城町の大英寺という寺に身を置き、静かにその日その日を暮らしていた。

 縁側に腰かけ、舞い散る雪をただただぼうっと眺める。生気を失ったその顔色に寺を訪れた皆が声を掛けるのを躊躇ためらった。それでも住職が何かと正子に声をかけるが、小さな声で"ええ"とか"はい"と言うだけで、その瞳は庭先の池を泳ぐ錦鯉を見いっている。

 食事は住職家族と共にするが、正子から話す言葉は無い。正子としても申し訳ないと思っていても言葉がその口から出てこない。そんな日が続いた。

 そのうち誰に言われるまでも無く寺の掃除を始めた。縁側や講堂の床を雑巾がけし、それが済むと寺の周りを履いた。自分に出来ることを少しづつでも見いだそうとしていた。体を使い、人のために為ることをすることによって小さな自分の存在価値を確かめようとしていた。


 次第に寺の周りに足を延ばしてみた。子供の頃見ていた山々や千曲川をゆったり流れる清流の景色が正子の心を洗って行った。言葉も正子の口から出てくるようになってきた。少しづつではあるが、自分を取り戻しつつあった。母や兄も時折顔を見せた。

 母や住職の勧めもあり、時折り長女のきくゑきくいが嫁いだ坂城町の家や、正子が東京に出てから三女のマスが嫁いだ須坂町の家、須坂町の叔母の家を訪ねてみたりした。皆からの声や無邪気な姪、甥を相手にするうちに心も落ち着きを見せてきた。

 心が落ち着きを取り戻すとともに田舎の日常に退屈さを覚える。胸にぽっかりと穴が開いたような思いが残る。

 ある日、正子は誰にも言わずにこっそりと田舎を後にした。山々が夕焼けで茜色に染まり、正子の顔も照らしていた。


 東京に戻った正子は七澤の家に身を寄せ、風月堂の店に出た。日々忙しくその日の店の仕事に追われるうちに、少しづつではあるが心も晴れて行った。

 正子が店に戻ったと聞きつけて、以前来ていた男の客も戻ってきた。そんな男達から洋食などに誘われることもあったが、まだ癒えてはいない心がそうさせるのか誘いに乗ることはなかった。

 峰子も正子の復調に目を細めていた。

 正子は自信を回復させていった。それに伴い、いつまでも七澤の家にやっかいになるわけにいかないと思っていた。迷惑を掛けた思いが募った。それと共に、一度は死んだ身である。自分がやりたいことをやってみたいと思うようになった。本当に自分がやりたいことは何かを探していた。


 ある日、正子が店の手伝いをしていると、肩を叩き、男が声をかけて来た。

「正子さん。私の事覚えていますか?」

「........ああ、町田の家で...」従妹の路子の家で会った男だった。

「ええ、前沢誠助です」

「ああ前沢さん。今日はどうしたんですか?」

「実は、今度信州の田舎に帰省するのですが、土産は何がいいかと思って。いろいろ考えたのですが、東京の美味い菓子を父や母に食べてもられば喜んでもらえるんじゃないかと思いまして。この前ここにいると言ってらしたので訪ねてみました」

「ああそれなら、田舎へのお土産なら私の母や兄が特に喜んだものを選んでさしあげるわ」正子は兄や母が喜んで手紙にも書いてきたいくつかの種類の菓子を見繕って上げた。正子がそれを詰め合わせて箱に納めると、前沢は喜んでそれを買って帰った。


 それから数日後、前沢はまた店に顔を出した。

「この前はありがとうございました。父や母も美味い美味いと大層に喜んでいました」

前沢は正子に頭を下げ礼を言った。

「とんでもない、こちらこそありがとうございました。それに皆さんに喜んで食べて頂いて嬉しいわ」

「私も一緒に食べたのですが、その美味さにたまげました。甘いのは苦手なんですが、あの餡は甘すぎず心地良い甘さが口の中に広がりました。普段和菓子など食べ慣れてないんですが、あれほど菓子で美味さを感じるとは。今日も買って帰りたいと思っているんです」

 前沢は練り切りを買って帰った。


 それからも前沢は度々店を訪れるようになった。

 前沢が同郷ということもあってか、正子は程なく打ち解け、仕事の合間などにも会うようになった。前沢はお伽芝居に関わっており、正子もそのお伽芝居を見に行ったり、小さなその舞台に立たせてもらうようにもなった。

 前沢はその年東京高等師範学校を卒業し、東京俳優養成所で日本史を教える講師になるという。また別の劇団にも関与していると言うことであった。その人柄や知識などに正子も徐如に惹かれていった。

 その後、正子は前沢から求婚され、それを受け入れた。明治41年(1908年)正子は二度目の結婚をした。正子二十二の時である。前沢は同い年だった。

 結婚後、前沢が東京俳優養成所での仕事を終え、家に戻ると正子が夕餉の支度をして待っている。千葉の家では割烹旅館の仕事もあり賄いを皆銘々に空いている時間に食していた。

 前沢との結婚で初めて夫婦としての時間というものを過ごすことが出来た。前沢も家に帰っての話し相手が出来たことが楽しかっただろう、饒舌にその日の養成所での仕事の様子を語った。その中で前沢は俳優養成所での演劇というものや俳優というものついても色々と語ってくれた。


「これから日本の演劇が変わるんだ。西洋からの演劇が流行る。それには俳優の育成もそうだが女俳優の育成も急務なんだ」

「女が舞台に上れるのですか?」

「ああ、歌舞伎のような女形おやまでは女を演じるには限界がある。西洋ではたくさんの女俳優が舞台に上がり喝采を浴びているんだ。女が演じてこそ自然な演劇になるんだ」

 前沢は俳優養成所の仲間の受け売りもあったのだろうが、熱く演劇を語った。

 正子は学生時代に見た華やかな歌舞伎の舞台を思い出した。そしてその女俳優というものに興味を持ち始めていた。


 その2年前、明治39年(1906年)には坪内逍遥が、イギリス・ドイツに留学して西洋の演劇をつぶさに見てきた島村抱月とともに文芸協会を設立。旧来の歌舞伎とは別の新たなる日本の文芸を模索していた。

 また日本としても西洋式の新しい劇場を建設する気運が高まっていた。ただ、まだ民衆の間では旧来からの旧い考え方で、女が演じるということは芸者と同一視され、賤しいことと思われているのも事実であった。

 この年、明治41年(1908年)に川上貞奴が帝劇女優養成所を開設した。この帝劇女優養成所に第一期生として入った森律子は卒業した跡見高等女学校の卒業名簿から外され、また姉が女優になったことを苦にした弟が自殺するという痛ましい事も起きている。


 ある夜、夕餉の後に正子は自分の思いを前沢に打ち明けた。

「あなた、お話があるんです」

「何だい、一体。畏まって」

 前沢は読んでいた新聞をたたみ、横に置くと正子を見た。

「私、女俳優を目指してみようと思っているんです」

 正子は正座をし真剣な眼差しを前沢に投げた。

「なんだって?」

「このまま無下に時を過ごすことに居たたまれないんです」

「うーん。まあでも、何かを目標に生きる事はいい事だとは思う」前沢は座卓の湯飲みを手に取ると、煎茶を口に入れた。

「あなたの話してくれたことに、女優に、夢を託してみたいんです」

「ああ、これからの演劇は変わる。目指すことはいいことかもしれないが」

「なら、いいのですか?」

「......でも、今まで通り家事はやってくれるのかい?」

「もちろん、そのつもりよ」

「うーん。ならいいだろう。僕も応援するよ」

「はい。ありがとうございます」

「で、どうするつもりなんだい?うちの俳優学校は男しか入れないし」

「どこか、女が入れる養成学校を紹介してもらえないかしら」

 前沢は思案気な顔をしながら答えた。

「うーん。そうだなあ、明日学校ででも聞いてみよう」

「お願いします」正子は前沢に頭を下げた。


 翌日、前沢は養成所に行くと、主事の桝本清の部屋を訪ねた。

「桝本先生、相談があるのですが」

「何だい、一体?」

「実は、うちの家内が女優を目指したいと言っておりまして、先生が知っておられる女優養成所を紹介していただけませんでしょうか?」

「君の奥方が?」

「はい」

「..紹介できなくはないが。しかし、君の奥方とは会ったことも無ければ見たことも無い」

「では、今度、家内と会っていただけないでしょうか?」

「まあ、それはいいが」

前沢は桝本と正子との面会を取り付けた。


 3日程のち、正子は東京俳優養成所を訪れた。玄関で前沢が迎えると、そのまま桝本の部屋に向かった。正子は峰子からもらった中で一番気にいっている白地に牡丹の花が描かれた着物を着ていた。

 桝本の部屋をノックすると桝本の声でどうぞという声がしたので二人で部屋に入った。

 そこには桝本とともに研究生の田口栄三が待っていた。

「さあ、どうぞ」桝本は、自席の前に置かれている打ち合わせ机へ案内した。桝本も移動すると、桝本と田口の対面に前沢と正子が椅子に腰を掛けた。

「先生、今日はお時間をとって頂いてすみません。これが家内の正子です」

「は、はじめまして、前沢正子です」正子は前沢に促され挨拶したが、緊張からか喉が渇き、消え入りそうなか細い声がやっと出た。

「桝本です。こっちは研究生の田口君だ。第三者の意見も必要かと思ってね、立ち会ってもらうことにしたんだ」隣に座る田口が頭を下げた。

「で、女優になりたいんだって?」桝本は正子の顔を伺いながら、声を掛けた。

「は、はい」

「いくつなんだい?」

「に、二十二になります」

「うーん」桝本は顎に手をやり、正子の顔を見ながら、思案顔になった。

「先生どうでしょうか?」前沢が口を挟んだ。

「そうだなあ、可愛いとは思うんだが、本人の前で言うのも何だが鼻が低くて、顔が全体的に平面的だなあ。舞台映えしないんじゃないかと思うんだ。大きな舞台ではのっぺら坊のように見えてしまう。養成所を紹介してあげられなくもないんだが、面接で落とされると思うぞ」

「そ、そんな」正子は桝本の思わぬ物言いに驚いた。他人より鼻が低いということは認識していたが、それが女優への障害になろうとは。

「女優への道は諦めて、奥方業に徹していたらどうだい?」

「............」正子には納得がいかなかった。

「先生、もう一度よく考えてみます。ありがとうございました」前沢は正子を椅子から立たせると、部屋を出て行った。


「田口君どう思う?」正子達が出て行った部屋で桝本は隣の田口に聞いた。

「そうですね、先生の言う通りだと思いますよ。早く諦めてもらった方が彼女のためでもあると」

「そうだよな、それに碌にしゃべれないようではな」

 桝本は椅子を立つと、自席に戻り読みかけの書物を手にとった。田口は一礼すると部屋を出て行った。


 前沢と正子は夕闇せまる中を帰宅の道を歩いていた。正子の落胆は思った以上だった。正子は前沢の後をとぼとぼと歩くが、帰り路一言も発しようとしない。

「しょうがないじゃないか、先生がああ言うんなら。先生も可愛いと言ってくれただろ、十分じゃないか」

 前沢が後ろの正子を励ますが、ただ俯きながら歩くだけだった。


 それから三日ほど正子は家で家事をしながらも身に入らなかった。このまま自分の夢が絶たれてしまうのだろうか。いてもたってもいられなくなり、正子は着替えると、東京俳優養成所へ向かった。

 桝本の部屋に向かい、ドアをノックすると桝本の”はい”という声が聞こえた。桝本は在室していた。

 正子が、部屋に入ると桝本は驚いた様子で正子を見つめた。正子は桝本の前に立った。

「どうしたんだい?」

「先生、私どうしても女優になりたいんです。どうかお願いできませんか」

「そう、言われてもなあ」

「お願いします」正子は体を折り曲げ深々と頭を下げた。

 桝本は考え込んだ。と、話を始めた。

「私の知り合いで、隆鼻術を施して鼻を高くした女優がいるんだが、やってみる気はあるかい?」

「そ、それは」正子は戸惑いの表情を見せた。

「最新の術法で、鼻筋に蝋を注入し高くするんだ」

「大丈夫なのでしょうか?」

「まあ、その女優も特段問題無いようだから、大丈夫だとは思うんだが。何ならその女優に会ってみるかい?」

「ええ、是非」正子の瞳は輝き始めていた。

「稽古場がこの近くにある。今から行ってみようか?」

「いいんですか?」

「ああ、いいよ」

 二人は東京俳優養成所を後に、歩いて十五分ほどのその女優が稽古をしている稽古場の楽屋に出向いた。桝本はその女優に正子を紹介した。

その顔から見た目には全くわからない。美しい顔立ちだった。

「大丈夫なんですか?そんな鼻の手術をしても」正子は問いかけた。

「全く問題ないわ。痛くもないし」女優は自然に話した。

正子の瞳は輝いた。正子はその女優に医者の住所を聞くと桝本と共に稽古場を出た。


「君は思っていたよりずっと積極的な女の人だったんだね」桝本が正子に聞いてきた。

「いえ、そんな」正子は頬を赤らめた。

「この前は、碌に話せもしない娘かと思っていたが、女優向きな性格をしているのかもしれないな」

 正子は桝本と別れ、帰路についた。その歩きは傍目にもスキップでもしそうになる程軽やかだった。


 その晩、前沢が家に戻ると正子は嬉々として今日あった出来事を全て話した。そして手術したい旨を前沢にお願いした。

「本当に大丈夫なのかい?そんな手術をしても」

「大丈夫よ。全く見た目はわからなかったわ」

「そうは言ってもなあ」

「痛くも、なんともないと言ってくれたわ」

「そうか」

 前沢は渋々ながらも承諾してくれた。正子に気押されたようであった。


 正子は教えてもらった隆鼻術の医者を訪ね、鼻筋に蝋を注入する手術を受けた。その顔を鏡で見る正子の顔は誇らしげだった。まさに鼻高々である。子供が新しいおもちゃを与えられたような無邪気な笑顔を見せた。これで女優になれるかも....しれない。いやなれる。


 正子は手術後の安静のため家で寛いでいた時、新聞で坪内逍遥や島村抱月の文芸協会が研究所試験として男女の俳優を募集していることを知った。桝本を頼り、養成所を紹介してもらえるかもしれない。だが何のコネもなく一から勝負したくなっていた。自分の力を信じて。


 正子は早速願書を書くと、文芸協会宛てに送った。数日後、正子宛てに面接日の通知が送られてきた。面接日は3週間後の事だった。


 正子はまた白地に牡丹の花が描かれた着物を着て面接に向かった。会場に着くと幾人もの受験生が集まっていた。女性は少な目ではあるが、皆綺麗な女性が佇んでいる。

 正子の番になり面接会場へ入ると正面には何人もの試験委員が並んでいた。正子は中央の椅子に座らせられると、試験委員の質問に答え女優への思いを饒舌に語った。桝本との面会で失敗したことはもう許されない。ここで自分の思いを語らなければと前沢から得た知識と自分の思いを吐き出した。

 その愛嬌のある愛くるしい顔と大地を踏みしめるように踏ん張るその体躯、またその音声の強い気迫に押され試験員は面接を合格とした。

 その試験員の中には、島村抱月もいた。それが初めての出会いだった。


 正子は面接が終わり廊下へ出ると、両拳を握り締め心から歓喜した。これで舞台に、舞台の上に立てると。

 正子は研究生として採用された。明治42年(1909年)春、正子二十二の事である。

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