芸術座

 その夜、抱月は市子に離婚話を切り出した。市子は予想していた事であり、先ほどの光景が頭に浮かんだ。キッときつい眼差しで抱月を見つめ言い出した。

「そんな事、絶対許さない。子供達はどうするのよ。叔父さんだって許さないわよ」

「子供達はいつか、私が引き取る。子供たちもわかってくれるはずだ。先生には私から説明する。」

「絶対に渡さない、あなたあの女の所に行く気ね」

市子は離婚を許さなかった。抱月は家を出ると須磨子の所へ向かった。

 須磨子は抱月を迎え入れると、夕飯を簡単に済ませ二人は朝方まで交じり合った。

須磨子にとって幸せな時間が戻って来た。舞台にもまた立てるのだ。それも抱月の脚本ほんでである。あの射るような観客の視線を浴びる事ができるのだ。須磨子はぞくぞくと身震いがした。


 翌朝、須磨子が起きると抱月は帰り支度をしていた。

「先生、戻らないで、もうここに私と一緒に住んで。お願いだから」須磨子は甘えた声で言った。

「それは、今はできない。子供たちがいるし、マスコミの目もある。もう少し待ってほしい」そういうと抱月は須磨子の家を後にした。

 抱月はその足で早稲田の逍遙を尋ねた。芸術協会を退会する決心はもう着いていた。

「先生、折り入ってお話があります。申し訳ありませんが芸術協会を退会させていただきたいのです」抱月は切り出した。

「な、何を言うんだ、君は。僕は君こそが次の芸術協会会長だと思っているのに」

逍遙は抱月に言った。

「いや、すみません。大変お世話になったので電話では無礼と思いまして今日おじゃまさせて頂きました。先生、僕は松井君と一緒に歩みます」

「それだけじゃないだろ?」逍遥は顔を紅潮させながら、怒気を強めて言った。

「は?」

「何人か連れて行く気なんだろう?」

「それは各個人の自主性に任せようかと思っています」

早稲田には抱月を慕って来ている生徒が多くいる。結局20名程が芸術協会から移籍となった。


 大正2年7月3日、牛込清風亭に抱月によって多くの人が集められた。新劇団である芸術座創立発起人会である。芸術座の名はモスクワ芸術座から抱月が命名した。幹事長を島村抱月が、そして幹事に相馬御風、川村花菱、楠山正男、水谷竹紫。技芸長に松井須磨子、技芸主任に沢田正二郎が名を連ねた。

 抱月は「早稲田文学」誌上に一人一口百円以上の出資者を募ったが多くは集まらなかった。


 坪内逍遥は訪れた新聞記者から抱月の芸術座旗揚げのことを聞いた。まだ芸術協会に戻ってきてくれることをわずかながら期待していたのが、事これに極まれりと、芸術協会会長の辞任と芸術協会解散を決め、発表した。逍遥は誰よりも抱月の才能を買っている人であった。


 抱月は早速、芸術座旗揚げ公演の準備に取り掛かった。芸術座はその年3回の公演を行い無難な船出をしたものの、金が無かった。


 抱月はこのままでは芸術座が持たないと思った。(何としても多くの客を呼べる新しい劇を考えないと...)  

 抱月は新しい公演に幹部である楠山正雄から進言されたトルストイ原作の"復活"を決めた。トルストイ三大傑作の一つとされている。若い貴族ネフリードフは昔捨てた娼婦カチューシャがある殺人事件の被告となっていることを知り、そして彼女が無実の罪であると知り彼は彼女と共に流刑地シベリアに出発する。しかし彼女は彼の幸福を願い革命家のシモンソンと結婚する。彼は殉教者となり人間復活の道を歩み始める。


 自分達もまさしくこの公演に復活を掛ける訳だから丁度良い。ヒロインは当たり前のように須磨子が演じることになった。須磨子はその役を他の座員に譲るつもりなど全くなかった。


 何としても抱月が立ち上げたこの文芸座を成功させなくてはいけない。須磨子は抱月のためにと思い稽古に励んだ。他の座員が休憩をしている時でさえ、窓に映る自分を見ながら台本を持ち稽古をしていた。須磨子は一生消えないコンプレックスを持っていた。どうしても町娘を自然に演じることができない。信州の田舎育ちであるゆえんであった。


 そんな須磨子を苦々しく見る座員もいた。

ある日休憩中、稽古に励む須磨子に沢田正二郎が声をかけた。

「おい、小林、いや松井さん。稽古に励むのもいいが、皆が休憩している間ぐらいは、皆で休むのが協調性というものじゃないのかい」正二郎は自分より芸歴も浅く、年下の須磨子が技芸長という自分の上に名を連ねていることを妬んでいた。

「協調性もいいですけど、そんなこと言ってたら公演に間に合わないわ、あなた方こそ休んでばかりいないで稽古に励んでほしいわ」

「なんだと、君はいつも一人でも稽古しているが、稽古しているふりを島村先生や脚本家の先生方に見せてアピールしてるんじゃないかって、もっぱらの噂だぜ。」

「あら、島村先生は私の演技を認めてくれているわ。アピールする必要なんて全くないわ。あなたの方こその拙い演技を矯正してアピールしてみたら?」

「な、なんだと。なっ、生意気な」正二郎はムッとして須磨子にじり寄ったが、それを周りの男優が諫めた。男優は多くが技芸長に須磨子がついたことで女の下でなんてと不満を持っていた。女が男の上に立つなど考えられない時代のことである。

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