抱月と晋平と須磨子と市子と
抱月は晋平に手紙を持たせた須磨子のことを考えていた。須磨子は何を思うだろう、抱月はすぐにでも須磨子を抱き締めたい想いを募せたが、市子、そして逍遙やマスコミの目は避けなければならなかった。
抱月の中では 須磨子は無くては為らない存在となっている。自分の描く脚本の世界を表現できるのは須磨子以外にはいないと思っていた。もうそれが恋愛対象なのかどうかは抱月自身もわからなくなっていた。年の離れた須磨子に対して嘲笑う冷静な自分と、引き込まれる情熱的な自分がいる。
ただ、言えることは須磨子を通してのみ、自分の思う世界が実現できた。自分が書いたシナリオ道理の世界感がそこにできているのである。他の役者ではどうにも薄味だった。
この須磨子の演技を他の脚本家に渡す事など考えられない事であった。
だからこそ、須磨子をもって日本初の新劇女優などと呼ばれるのかもしれない。
日を追う毎に、その思いは強くなった。毎日繰り返される市子との口喧嘩など、一考に気にならなくなっている。
それは、大恩があり義父である島村文耕との決別を意味していた。妻の市子は文耕の姪である。
文耕は田舎時代の幼き抱月少年を貧困から救い出てしてくれた。13歳から薬局で働き、15歳からは裁判所の給仕として働く抱月に早稲田の道を与えたのは文耕である。
そして今の地位にまで押し上げてくれた、今の恩師坪内逍遙との完全決別をも意味するのである。
抱月は妻の市子との離婚は既に覚悟していた。毎日毒づかれ言われる嫌味にはほとほと嫌気が差していた。
しかし可愛い子供達には不憫な思いはさせてはならないと思っていた。
ただ、須磨子と抱月の悪い噂は抱月の故郷、島根県那賀郡久佐村までたどりつくようになっていた。
晋平は芸術家としての抱月を心から尊敬していた。それは、晋平が
晋平は明治38年に、代用教員などを経て音楽への思いを捨てきれずに東京に出て来た。その後抱月の弟の縁により抱月の家に書生として迎え入れられ、明治41年には東京音楽学校予科に入学し勉学に励んだ苦学生であった。
抱月は努力家ではあるが誰もが認める天才プロデューサーであり脚本家である。そしてその要求に応えることで晋平は成長した。
天才が天才作曲家を生んだのである。須磨子と同じく抱月と晋平の出会いもまた必然であったといえる。
晋平は、そんな自身の作る劇作という世界において類い稀な能力を発揮する抱月を羨望の眼差しで見つめ、成長していったのである。
抱月からはこんなことも言われた。「いいかね君、我々のやる芸術は、国を向いてやってはならん」
「じゃあ、どうすれば?」晋平が問うと
「自分の想いは大衆に向けてやるんだ。それは子供向けの唱歌だってなんだって一緒なんだ」抱月は言った。
晋平は抱月の家の前を掃除をするところだった。家の中では、また抱月と市子が口喧嘩をしていた。嫌気が差した晋平が外に出て掃除を始めたのである。以前は市子寄りだった晋平の心は、何回 も須磨子と顔を会わせるたびに郷里の同じ須磨子寄りに変化していた。
ふと、遠くを見ると、見覚えのある顔がこちらに向かってくる。須磨子だった。
「なんでここに」家の中を気にしながら晋平は口走った。と同時に須磨子のもとへ駆け寄った。
「須磨子さん、どうしてここに。」
「あら中山さん。どうしてって、先生に逢うためよ。」須磨子はしれっとした顔で言った。
「そんな、今行ったら駄目だよ」慌てて晋平が言い返した。
「なんで駄目なの。私はこれから自由に生きる事にしたわ。気兼ねすることなく、そして、誰にも邪魔はさせないわ」
「そ、そんな。先生を呼んで来るから、ここで待ってて。」
晋平は須磨子を路地に押し込んだ。須磨子はほうを膨らませながらも、路地に腰を下ろした。市子と須磨子が顔を会わせた日にはどうなる事か。晋平は駆けて行って抱月の家に入り込んだ。
「先生、外に須磨子さんが来ています。」
抱月の耳許で晋平は囁いた。
「なんだって」抱月の顔があからんできた。
「どこにいるんだ」抱月も囁き声で聞き返した。
「一旦外に出ましょう」晋平は耳許で囁いた。
「どこに行くのよ」外に出る二人に市子が聞き返す。
「いや、先生は逍遙先生の言付けで早稲田の学校まで」咄嗟に晋平は嘘をつきながら、須磨子の方角を体で隠した。
「本当なの?あなた方の言う事は信じられないわ」
抱月は市子の言う事など耳に貸さず、早稲田のある方角に歩き出していた。
「先生こっちよ」須磨子が顔を出し、手を振っている。晋平が気の効いた嘘をついていたのである。
抱月が路地に入ると、二人は抱きあい深いキスをした。晋平は気を利かせたのであろう、着いては来なかった。
「良く聞いてくれ、新しく劇団を創ろう。それしかない。」
「そんなこと、できるの?」
「ああ、君と俺となら絶対できる。」
「また、先生の本で、舞台に立てるのね。凄いうれしいわ。」
抱月が新劇団旗揚げを決めた瞬間だった。
そして、その光景を市子が見ていた。
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