再び舞台に

 須磨子は抱月のことを気に掛けながらも時折頼まれる繕い物を縫い、無為な日々を過ごしていた。何かしらしていないと抱月への思いが募る。

部屋に籠り、外に出かける気も起きない日々を送っていたが、晋平からの抱月の様子を聞いて少しほっとしたのか久しぶりに近くの河原まで足を延ばしてみた。


 河原までの道は夕焼けに染まり時折り北風が木々を揺らしていた。頬を冷たい風が通り抜けるが、須磨子にとっては心地良い風だった。

 河原にたどり着くと河面はゆったりとしたうねりを見せていた。かつてはここで何度も台詞を覚えた場所である。

 川の流れを見るだけで心が落ち着く。気持ちが洗われるように靄が流されていくようである。

 信州の田舎に舞戻ったような気分になった。

 子供の頃は何も考えずに千曲川の川原を走り回って遊んでいた。走り回ることだけで楽しかった。ただそれだけで良かった。大人になり、それが赦され無くなった。

 足許から小石を一つ拾い上げ、河面に向かい投げ込んだ。

 河面かわも水飛沫みずしぶきが上がる。須磨子は再び小石を拾い、もっと強く小石を投げ込む。小石は二度河面を跳ねた。

 須磨子は何度も繰り返し小石を投げ込んだ。

 空を見上げると大きな雲が流れている。その雲を見ているうち雲が藤太の顔に見えてきた。藤太は須磨子に笑みを浮かべながらやさしい瞳を投げかける。子供の頃も藤太は須磨子が駆け回る姿を川原をに座り見守っていてくれた。

 おっ父、私は何がしたいのだろう、あの川原を駆け回っていた頃のように、ただただ自分の思いのまま生きて行きたいだけなのに。おっ父はどうしたらいいと思う?

「正子、お前はお前の思うように生きたらいい。たった一度の人生だ。誰に気兼ねすることなく悔いなく思うように生きていいんだぞ。」

 そんな藤太の声が聞こえてきた。いや聞こえた気がした。須磨子の瞳からは涙が落ちていた。

 ...そうよね、おっ父。私はもう一度あの舞台に立ちたい。そうあの舞台に、抱月の脚本ほんで。抱月が、抱月だけが私をあの頃の私に戻してくれる。

 きっとあの人だって私が舞台に立ってこそあの人の表現したい舞台になると思っているわ、きっと、そうよ。私のために、私を思い描いて脚本ほんを書いているはずだわ。

 須磨子は振り返ると帰路についた。その顔からは憑き物がとれたように、すっきりとした顔をしていた。

 道すがら先ほど逢った晋平が抱月が脚本を書いていると言っていたことを思い出した。

 その脚本が見たいわ。その脚本で舞台に立つのは私よ、ぜったいに。誰にも渡さないわ。

 須磨子は歩を早めた。

 そう言えば今日来た中山さんっていったっけあの人は信濃の出だと言っていたわ。あの人も千曲川で遊んだのでしょうね。だったらあの人はきっと私の味方になってくれるわ。原風景が一緒なんだもの。あの人にお願いして抱月先生に逢わせてもらおう。きっと逢わせてくれるわ、絶対に。須磨子の頬は上気して赤くなっていた。


 須磨子は商店街をとぼとぼと歩くと1軒の古本屋の前で足を止めた。並べられている古本の一冊に目がいった。

 青鞜附録ノラと書かれている。

「あおたん?」

 なんと読むのかさえも判らなかったがノラの字に目がいった。

 須磨子は『人形の家』で自分が演じたノラの字を目が追ったのだ。須磨子はその雑誌を手に取った。

 そこには『人形の家』上演の批評がされていた。

 須磨子はノラを何度も演じて来たが、他人から褒められたりすることはあっても活字となった批評を読むことはほとんどなかった。他人のことなど関係無い。ただ抱月の喜ぶように演じてきたのである。


 巷では日本の女が自立して生きていくために、自由を掴みとろうとする女たちが運動をしているということは聞いたことがあったが、それがどのようなものなのか知らない。読むものはもっぱら台本の須磨子にとって世の中がどう動いているのかさえ興味が無かった。ましてや新聞や雑誌の記者が押し掛けるようになってからは新聞さえ常に自分の悪口が書かれていると思い目に触れることも厭になっていた。

 パラパラとページをめくると須磨子の演じるノラはおままごとであって、その時代に本当に生きている切迫さが伝わってこないなどと書かれている。封建的な生き方を強いられ、良妻賢母で従順に夫に従うだけで生きてきた日本の女から自立する女へと変わる時が来ているのだ、それをこの演劇は伝えていないと辛辣だった。


 須磨子は眉間に皺が寄ると、ぽろぽろと泪がこぼれ出た。悔しかった。自分の芸ではない。抱月の演劇を侮辱されたような思いだった。

 店員が怪訝な表情で須磨子を見ていた。

 人の目も気にならないほどにそして今の自分が歯がゆく思えた。

 もっともっと私は演じたいのだ。そしてそれを観てくれる客がいる。楽しみにしてくれる客がいるのだ。

 いてもたってもいられなくなった須磨子は、踵を返すと抱月の家に向かった。

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