須磨子と晋平
逍遥は市子が帰ると、芸術協会を後にし、早稲田大学へ向かった。
既に夕暮れ近い。物思いに耽りながらとぼとぼと歩く逍遥を真っ赤な夕焼けが背を染めた。
早稲田大学総長 高田半峰は総長室で執務をしていた。半峰はドアの
半峰とは号であり、本名を高田早苗という。大隈重信と共に早稲田大学の運営に力を注ぎ大隈が総長の際には学長として支え、その後総長に就任していた。半峰は早稲田大学の運営に力を注ぎながらも衆議院議員に立候補し全国最年少で当選、その後通算6期務めた。知、格共に備えた人物である。
「お久しぶりですね、坪内先生」半峰は席を立つと逍遥の前に座った。
「ご無沙汰をしており申し訳ありません」逍遥は立ち上がると半峰に頭を下げた。
「まあ、お座り下さい。何か元気がないようですが、大丈夫ですか?」
「…私は大丈夫なのですが」逍遥は口ごもった。
「そうですか、顔色がすぐれないようですが。芸術協会はどうですか、ご活躍の噂は聞いていますよ」半峰は穏やかな笑顔を見せた。
「実はそのことでご相談がありまして、今日はぶしつけにもおじゃまさせていただいた次第です」
「ほう、どうしました?」
「うちの島村なんですが….」
「島村先生がどうかしましたか?坪内先生の右腕としてご活躍と聞いていますが」
「実は、協会の女優とおかしな関係になりまして….」
半峰は怪訝な表情を浮かべた。
逍遥は今までの経緯をかいつまんで半峰に話した。
「その相手方の松井須磨子という女優には退会を言い渡したのですが、何分にも島村の方をどうしたら、いいものかと…。」
「その松井須磨子さんという女優さんのお名前もお聞きしてますよ。才能豊かだと。その女優さんの将来はどうなるのですか?」
「他の劇団に紹介する旨伝えてはあるのですが、納得のいかない様子で」
「坪内先生はどうしたいのですか?」
「このままこんな話をマスコミに広げられて芸術協会が無くなるのは何としても防がなくてはなりません。高田先生から島村に話をしてもらえないでしょうか。島村の才能があればこれから芸術協会は、いや日本の演劇界は発展できるのです」
「そういうことですか」
「身勝手なお願いだとは分かっているのですが、高田先生にしかお願いできないことなのです」
半峰は少し考えると話はじめた。
「どうでしょう、私は来週から視察も兼ねて京都や奈良を周ります。島村君も一緒に同行させてみては。少しの間関西に身を置くのもいいかもしれません。少しの間二人を離れさせて冷却期間を置いた方がいいかもしれませんね」
「お願いできますか。ありがとうございます。高田先生」逍遥は半峰の手を取り頭を下げた。
逍遥は半峰の部屋を出るとほっと一息ついて帰路にたった。
翌日、逍遥が抱月の家を訪ねると、晋平が応対に出た。市子は留守にしていた。
抱月は逍遥を自分の部屋に招き入れた。
「市子さんに聞いたよ、一体君はどうしてしまったんだい。死のうとするなんて君らしくないじゃないか、君には芸術協会を通じて演劇を日本に広めるという使命があるのだよ」
「…..」
「君は芸術協会の幹部なんだぞ。君を慕ってついてきたものも芸術協会には多い、そんな彼らを見放す気か」
「…先生、そんなことより、正子君を退会にしたというのは本当なのですか」
「…ああ、芸術協会のためには仕方がないことだ」
「しかし、先生は今、私は芸術協会の幹部だとおっしゃいました。私に一言も無く決めてしまうなんて」
「君は、今回の問題の当事者ではないか」
「当事者だからなんなのです。芸術協会は先生だけのものではないはずです。私たち幹部だけのものでもない。正子君達会員やお客さんのものでもあるはずです。それを先生は...」
「…芸術協会には良質な芸術を世に広めると言う使命があるんだよ。そのためには些細なスキャンダルで終わらすわけにはいかないんだ。君はあの頃の情熱を失ってしまったのかい?」
「…そんなことはありません。今でも燃え滾る情熱を持っています。私には今回のことが公になったことぐらいで客が逃げるとは思えません。それは彼らをばかにしているということです」
「そんなことはない。風聞は怖いものだ。私は芸術協会をどんなことからも守り抜かなければならないんだ」
「それは、先生のエゴでしかない」
「君はもう少し頭を冷やした方がいい。どうだね、
「…関西ですか?」
「ああ、早稲田の高田先生が京都や奈良など関西視察に出向くそうだ。君にも今後の芸術活動のための見識を増やすように同行しないかと言ってくれているんだ」
「今はそんな気分ではないのですが」
「今のように時間をとれる時ではないと行けないのではないかね」
「それはそうですが...」
「私から高田先生に同行する旨伝えておくから準備しておいてくれ。来週には発つそうだ」逍遥は半ば強引に抱月に承服させると戻って行った。
抱月は不承不承であるが承諾した。須磨子の事を思っても市子の眼があり逢いに行くこともできない。
自宅にいても息が詰まる思いであり、新しい脚本の筆も進まない。それならば旅にでも出た方が心も晴れるのではないかと思ったからであった。
抱月は机に向かうと筆をとり手紙をしたためた。須磨子への手紙であった。
手紙を書き終えると、晋平を呼んだ。
「先生何でしょうか?」晋平は怪訝な表情で抱月を見た。
「僕は旅に出ることになった。この手紙を明日にでもこの住所にいる正子君に届けてほしいんだ。市子にみつからないように」
抱月は真剣な眼差しで手紙と須磨子の住所を書き添えた紙を晋平に渡した。
晋平は黙って受け取った。
翌日晋平は須磨子の家を訪れた。かつて市子に頼まれ抱月の後をつけた際に訪れている場所である。
扉の前に立つと緊張で呼び鈴を押す手が震えた。どう話したらいいのだろう、この手紙を渡すことで島村家が崩壊するのではないかとの思いも湧き上がる。
勇気を出して呼び鈴を鳴らすと、浮かない表情の須磨子が顔を出した。
「はじめまして、私中山晋平と申します」
「..なかやま..しんぺいさんですか?どなたでしょう」晋平は以前須磨子を見ているが須磨子は初めてみる顔である。
「はい。島村抱月先生の書生をやらしてもらっています」
「島村先生の..」須磨子の頬に赤みが差した。
「島村先生からこれを預かってきました」
晋平は手紙を須磨子に渡した。
須磨子は急くように渡された手紙をその場で開いた。
手紙には抱月の気持が書き連ねられていた。最後には今は逢いに行けないが必ず会いに行くのでそれまで必ず待っていてほしい旨が書かれていた。
須磨子は読み終えるとその手紙を胸に当てた。
「あの、中山さん。先生はお元気なのでしょうか?」
「ええ、まあ」
「そうですか」須磨子はほっとしたような表情を見せた。
晋平はそんな須磨子をいじらしく思えた。
須磨子の名は女優として既に晋平の耳にも入っていた。市子からは悪口ばかり聞かされどれほどひどい女なのかと嫌悪感を抱き、腹黒い下劣な女を期待していたのかもしれない。だが、そこに立つのは抱月を思うか弱い一人の女であった。
「..須磨子さん」
「はい?」
「何か島村先生に言づけはありますか」
「はっ、はい。私はいつまでもずっと待っているとお伝えください」
「わかりました。須磨子さんもお元気で」
「ありがとう」須磨子の眼からは涙が零れ落ちた。
晋平は帰路についた。
須磨子は晋平とは故郷が同じ信州の出である。それは晋平も抱月から聞いていた。同じ故郷から遠く離れ東京で脚光を浴びようとしている女優である。晋平にとってそれは誇らしい思いもある。
「なんとかうまくいかないものなのかな」晋平は独り言をつぶやいた。
空には厚い雲が広がり今にも雨が降り出しそうな夕刻であった。
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