逍遥の画策
「坪内先生、待って下さい。何故小林君だけが........。では島村先生はどうなるのでしょうか?」東儀は息せき切って逍遥に尋ねた。
「島村君は当分謹慎だ」逍遥は無表情のまま言った。
「......それだけ.....ですか?それではあまりにも小林君が可愛そうじゃありませんか?ねえ皆さん」
東儀は周りの講師に同意を求めた。だが、他の講師は俯くだけだ。皆あまり深入りしたくはないのだろう。
「仕方ないのだよ。芸術協会のためには」逍遥が答えた。
「そ、そんな」
「他に意見が無ければ、これを持って会議は終了とする」
逍遥はそう言い残すと部屋を出て行った。
講師達が銘々に席を立ち部屋を出て行くが東儀だけは椅子に座ったままだった。
逍遥はそれだけ抱月の才能を買っていたのである。逍遥の抱月への信頼には東儀が入り込む余地などなかった。
その夜、逍遥は須磨子の家を再び訪ずれた。
呼びり鈴を鳴らすと憔悴した表情の須磨子が顔を出した。
「ちょっとお邪魔していいかな」
躊躇いながらも逍遥がそう言うと須磨子は無言のまま、逍遥を家の中へと通した。
「どうだい?やはり島村君とは別れることはできないのかい?」
腰をおろした逍遥は、お茶を作る須磨子に尋ねた。
「.....はい。やはり私にはあの人がいないと駄目なのです。瞳を閉じるとあの人の顔が浮かんでくるのです。今すぐにでも逢いに行きたいのです。でも奥様が….」
須磨子はそう言うと、逍遥の前に湯飲み茶碗を置いた。
「....そうか、それならば仕方ないな。今日は君に残酷な事を伝えに来たんだ。.....申し訳ないが、君には芸術協会を退会してもらうことになったんだよ」
「えっ。何ですって。…………...先生、私に女優を辞めろと言うのですか?あの人だけでなく私の夢までも奪い去ろうというのですか」
「いや、そうではない。そうではないんだ。もし君が望むなら、他の劇団を紹介してもいい。君を知らない劇団関係者などいない。それに私が推薦するんだ、どこででも演じることができるだろう。ただ、芸術協会の舞台にはもう立てない」
「そんな、島村先生はどうなるのですか?」
「島村君は当分謹慎だ」
「...私は島村先生の演出でしか舞台に立つつもりはありません。私を一番美しく演じさせてくれるのは島村先生だけなのです。他の人の演出なんて、私には演劇とさえ思えません」
「落ち着いて、良く考えて見てくれ。君ほどの才能ある女優を埋もれさすわけにはいかない。私は君のためを思って提案しているんだよ。他の演出家で試してみる価値だってあるだろう。優秀な演出家は島村君だけじゃないよ」
「.........いくら考えても、変わらないと思います。私を心の奥底から舞台で輝かせてくれるのは島村先生だけなのです」
その言葉に逍遥は、湯飲みのお茶を一気に喉に流し込んだ。
「とにかく、どうかもう一度良く考えてくれないか。一週間後にまた来よう、その時にもう一度君の気持を聞かせてくれないか」
「......」
逍遥は帰って行った。だが、逍遥はその後、須磨子と二度と会うことは無かった。
須磨子は逍遥を見送ると畳の上にへたり込んだ。もう舞台に立てない。射つくばかりに自分に眼差しを向ける観客の視線を浴びて演じることが出来なくなるなんて。
翌日、夕刻に自宅で謹慎する抱月の元を一人の学生が訪ずれた。青木という男だった。
青木は早稲田大学時代から抱月を慕っていた。
「先生、お願いします。早く復帰してください。先生の演劇を皆演じたいのです」
「青木君、そうは言っても、私は謹慎の身だ。私の判断では何もできないのだよ」
「....そのことなのですが」
「どうかしたかい?」
「聞いた話では、小林さんが、松井須磨子さんが、退会になったらしいです」
「えっ何だって。そ、そんなこと聞いていない」抱月は驚愕の表情を見せた。
「一体、それが決まったのはいつのことなんだ」抱月は息せき込んで青木に尋ねた。
「昨日決まったらしいです。それにかこつけて、東儀先生が講義の場でも一人の女優に責任をなすりりつけたなどと島村先生の悪口を言ってます」
「東儀のことなんてどうでもいい。正子君が辞めさせられる....何てことだ。私は一人の女優の人生を台無しにしてしまった」
抱月は瞳を閉じた。抱月の心の中に逍遥への不信感が芽生えた瞬間だった。
「先生、お願いしますよ。早く復帰して下さい。私たちからも坪内先生にお願いしてみますから」
「......」
青木は帰って行った。
抱月は一人、部屋で気を重く沈み込ませて行った。
妻も子もある身分の自分が一人の女優を好いた。愛してしまった。そもそもそれが間違いなのはわかってはいる。だが、本来男と女とは好き合った者同士が一緒になることが自然なことだ。それはどんな状況であろうとも。
だが、周りはそれを許さない。そればかりか才能ある女優の身さえも潰そうとしている。いや私のせいで潰されそうとしている。
と、抱月は自分の帯をとき、そばにあった椅子を踏み台にその帯を部屋の梁に二重三重と巻きつけ首が入る程度の輪を作ると両端を結んだ。
抱月はその輪に首を入れ体ごと椅子から飛び降りた。
どすん、大きな音がして抱月は畳の上に尻をついた。抱月が梁を見上げると抱月の体重で帯はほどけていた。
その音に最初に気づいたのは、書生の中山晋平だった。
晋平は、何事かと廊下を走り、抱月の部屋の襖を開けた。
「先生、一体どうしたのですか」青白い顔をした抱月に晋平は問いかけた。
「中山君、僕はもうだめだ。一人の女優の人生を駄目にしてしまった。くずも同然の人間だ。生きていても仕方がない。死にたいんだよ」
「何をおっしゃっているのです。気を確かにしてください。」
そこへ市子も入ってきた。
「一体何があったというのです」
「….せ、先生が死のうとしたらしく….」
「何ですって、あなた一体何を考えているの」
「市子、頼む。正子君に逢わせてくれ、一生のお願いだ。僕は彼女に謝らなければならないんだ」
「…..駄目です。あなたをあの人に逢せるなんて。そんなことしたらあなたはもう帰って来なくなるわ。晋平君、この人を見張っていて。私は坪内先生に相談に行ってくるわ。いいわね、この人を一歩も外に出しちゃだめよ。何なら腕を縛ってもいいわ」
市子はそう言い残し、キッっときつい目を抱月に向け部屋を出て行った。
「先生、お願いします。私には先生を縛ることなんてできません。だから、死のうなんてことも、この家を出て行くなんてことも考えないでください。奥様だけでなくハーちゃんだって泣いてしまいます」晋平が抱月に懇願した。
ハーちゃんとは抱月の長女、春子のことである。
抱月は俯いたままだったが低く声を漏らした。
「中山君、下に行って酒を持ってきてくれないか。素面ではこの心を静めることはできない。酒でも飲んでいないとやってられないよ」
晋平はこの場を離れていいものか悩んだが、無視をするわけにも行かない。晋平は市子の書生ではなく抱月の書生なのだ。師の言う事には従わねばならない。
「わかりました。すぐ戻ってきますので、くれぐれも変な気は起こさないでくださいよ」
晋平は酒を取りに台所に向かった。
市子は逍遥の家に向かった。
「坪内先生、一体どうなっているんです。主人は死のうとしました。」
「何だって。それで島村君は...」
「大丈夫です。何ともありません。ですが、あの女をどうにかして下さい。あの女が傍にいるから主人が駄目になるんです」
「それは、私が何とかします」
「本当ですか?以前私がご相談した時に何とかして下さっていればこんなことにはならなかったのです」
市子はきつい視線を逍遥に投げかけた。
「大丈夫です。島村君だって馬鹿じゃない。私の思いが分かってくれるはずです。私を信じて下さい」
市子はそれを聞き、胸のつかえがとれたのか、すっきりした顔で帰って行った。
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