命短し恋せよ乙女
大正七年十一月五日、抱月はスペイン風邪(インフルエンザ)をこじらせ寝込んでいた。
その朝、須磨子は抱月を気にしながらも抱月の事は宮阪という若い使い走りの男にまかせ明治座での「緑の朝」公演の稽古をするために出かけて行った。この「緑の朝」は松竹との一年契約が成立した結果である。須磨子が認められた結果であり、抱月としても一安堵していたことであろう。
抱月は宮坂に明治座の須磨子に電話を入れるように何度も言ったが、稽古中の須磨子に取り継ぐことができなかった。
抱月が急死する。抱月は急性肺炎を併発していた。稽古を終え芸術倶楽部に戻った須磨子にはそれが現実の事とは到底思えなかった。
「島村先生は亡くなりはしません。どうしても生きています。わたし何だか頭が痛い、割れそうに痛い……」彼女は足早に狭い部屋の中を駈け廻ったり、座ってみたり、転げてみたりした。(「東京日日新聞」大正7年11月7日 川村花菱「随筆 松井須磨子」より)
告別式は芸術倶楽部で執り行われた。抱月夫人の市子や子供たちが棺を見守る中、籍がないために隅においやられた須磨子はとめどなくあふれ出る涙を拭こうともせずに泣き崩れていた。
だがその日でさえ須磨子にはやるべきことがあった。「緑の朝」の公演である。須磨子はその日から抱月のことなど忘れたかのように公演に没頭した。しかし凛としたその姿には寂しさが漂っていた。
年が明け大正八年一月四日、街は年明けの喧騒に包まれていた。須磨子は夜までの芸術倶楽部での稽古を終えると一人になった。そして坪内逍遥、伊原青々園、義兄の米山益三に宛てた3通の遺書を書きだした。その遺書には自分の遺灰は抱月と一緒に埋めてほしい旨を書きつづっていた。
手紙を書き終えると須磨子は化粧し髷を結い、大島紬の着物を着こんだ。
須磨子は唄を歌いだした。カチューシャの唄、そしてゴンドラの唄。抱月との思い出が浮かび涙がとめどもなくあふれ出てくる。
唄い終え時計を見ると、針は12時を過ぎ、一月五日となっていた。
須磨子は部屋の梁に掛けた帯に首を入れ乗っていた椅子を蹴飛ばした。多幸感が須磨子を包み込んだ。
抱月と同じ墓に埋めてほしいという須磨子の願いは叶う事は無かった。
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