結婚
翌年、明治36年(1903年)春、正子は戸板裁縫学校を卒業した。桜が咲き誇る中、紋付に袴、下駄に太い鼻緒姿で卒業式に出た正子は誇らしかった。姉の峰子と兄の益三が店を休ませてもらい見に来てくれた。
「よかったわね、正子。しっかりと卒業出来て」峰子が喜んでくれた。
「ええ、でもこれも姉さんと七澤の家のおかげよ。感謝してもしきれないわ。本当に東京に出てきてよかった」
「正子が一生懸命頑張ったからよ。安太郎さんも、お義父さん、お義母さんも喜んでいてくれたわ」
「ああ、俺も正子を見習って頑張らないとな」
「益三兄さんも頑張っているじゃない。もうお菓子作りを任せられているし」
「そうね、安太郎さんも益三は真面目に頑張っていると言ってくれていたわ」
「いや、まだまだ頑張らないと。皆の足手まといにならぬよう」
「私も頑張ってお店のお手伝いをするわ」
「二人ともこれからもしっかりとお願いね」
その夜、七澤の家では寿司をとって皆が正子の卒業を祝ってくれた。
その後も風月堂を手伝っていた。時には店の客からの縁談の話があったが未だ早いと断っていた。そんなある日母からの手紙で正子に見合い話が持ち込まれた。親戚の紹介ということで、相手は千葉県木更津の割烹旅館の息子、鳥飼啓蔵という男である。正子より5つほど歳が上だった。
見合いは七澤の家を借りて行われた。母の
正子は啓蔵にそれほどの好意も持ったというわけでは無かったが、母のみつには好感が持てた。
まだ結婚というものが個人の物というより、家と家のもの、女性の権利は弱い時代である。正子の意見より家族間の意見が尊重され、あれよあれよという間に結婚が決まった。正子にも峰子の姿を見て結婚に対する憧れというものが芽生えていた。
木更津の割烹旅館に嫁いで行ったのは十一月の事である。結婚初夜、啓蔵との床につくと、どきどきする正子の布団に啓蔵が入り込んできた。
その帯をほどかれ、寝巻きの間から恵三の手が入り込む。するとまだ膨らみきらない正子の胸を柔らかく揉んできた。正子にとっては初めての経験である。頬を赤らめると、その唇に啓蔵の唇が押し当てられた。その口は正子の胸に移動しその小さな乳首を口に含んだ。そしてその口はその片側の乳首にも。その手は叢に伸びた。
寝巻きをはがされその中心部を貫かれると、鈍痛が走る。啓蔵は更に腰を動かした。正子の内腿に一筋の血が流れた。だがそのうちその痛みもなくなり夢見心地のまま初夜を終えた。
翌日からは割烹旅館の手伝いに立った。風月堂とは勝手が違い、姑のみつは無頓着な正子のやることを気にして色々と細やかに仕事を教えた。
みつの言われるままに動く日々が続いた。旅館は姑のみつが女将として旅館を切り盛りしていた。啓蔵は厨房に立つわけでもなく、旅館の周りの庭掃除をしたり時には床掃除をしたりとふらふらとした毎日である。正子はそんな夫を歯がゆく見ていた。
嫁いでからそう時を経ず夫の啓蔵が夜遅くに家を出るようになった。
「あなた、どこに行くのです?」支度をしている啓蔵に正子が尋ねる。
「ああ、今日は町の寄り合いでな。少し遅くなる」そう言うと啓蔵は家を後にした。
夜遅くに家を出た啓蔵は朝方まで戻らなかった。正子は布団に入りながらも、寝ずに啓蔵の帰りを待っていた。最初は町の寄り合いを信じていたのだが、啓蔵が出て行くのが週に二度三度と増えて行く。
「あなた、いつも一体何処に行っているのです」正子が朝方戻った啓蔵に問う。勝気な正子の気性が出てか、つい詰問口調になってしまう。
「煩い。寄り合いだよ。こっちには町の仲間や旅館同志の付き合いがあるんだ」啓蔵も売り言葉に買い言葉で、そう言葉を投げ突けると布団に潜り込み寝込んでしまう。
そんなことが何度か続き、そのうち啓蔵は正子の体も求めなくなっていた。更に朝方にさえも戻ってこなくなった。それでも正子は寝ずに啓蔵の帰りを待っていた。それが嫁の務めだと思っていた。
寝ずに朝を向かえ、そのまま旅館の仕事に出る。そんな日が続くこともあった。
舅の吉蔵もそしてみつもそんな正子の体を気遣ってくれ、早く寝るように言ってくれた。啓蔵にも嫁を大切にするようよく言って聞かせた。
だがその後も正子と啓蔵の様子は変わらなかった。そのうち、そんな朝方まで起きていて翌日の仕事をこなすという生活で、正子は体を壊し寝込むようになった。気苦労の事もあってのことだろう、時折ふらふらと海近くまで出ては海を眺め、弱った体を海の吹き荒ぶ風にさらし、更に体を悪くし寝込むことが増えた。
啓蔵は正子と結婚する前から芸者の妙と懇ろの関係にあった。実家の旅館でも居場所のない自分を包みこんでくれる。芸者を嫁にもらうなど、親に行っても許してもらえるわけがない。仕方なく親の進める縁談に乗ったのだが、やはり我慢できなかった。
「俺のことを分かってくれるのは妙ただ一人だ。何とかお前と夫婦になる方法はないもんかのう」
「啓蔵さん、私はこのままでいいのよ。私と会える時間を作ってくれるだけで嬉しいわ」
啓蔵は妙の所に居つくことが多くなっていった。
正子は鳥飼家で嫁ぎ通すつもりでいた。いつかは啓蔵が変わってくれることを信じて。だがある日吉蔵から告げられた。
「正子、こうお前さんが寝込むようだと、旅館の仕事にも影響がでる。それに悪い病気だと噂にでもなったらこの旅館の行く先にも関わる」
正子は離縁を告げられた。まだ木更津に嫁いで一月ほどのことである。その夜正子は慟哭した。
「私の何がいけなかったんだろう。私が間違った事をしていたの?」正子は自分を責めた。
それから正子は七澤の家に戻った。それでも正子の自責の念は治まらなかった。自分だけの問題ではない、実家にもそしてこの七澤の家にも泥を塗った結果となった。
出戻りという言葉が心に重くのしかかり、店にも、そして外にも出ることが憚られた。体調もまだ悪い。あの時、太一を殴り上田の義父に迷惑を掛けたことが思い出された。また世話になった多くの人たちに迷惑をかけてしまった。
峰子が暗く沈む正子を気にして、気晴らしにでもと東京に嫁いだ従姉の路子の所にでも遊びに出ることを勧めてくれた。正子はそれほど乗り気では無く峰子に言われるがまま出てみた。
嫁ぎ先の町田家で路子は夫とともに出迎えた。その折、一人の来客があった。近くに住む、前沢誠助という男で席を同じにした。前沢は正子や路子と同じ信州の坂城町の出身ということだった。
嫁ぎ先の町田家で幸せに暮らす路子との会話の中でも、更に自責の念を強くした。私は人並みに嫁ぐことも出来ずに皆に迷惑をかけた。正子の瞳は世の中のすべての事が受け入れられないようになっていた。家に戻ると、店で笑っている従業員の声さえも自分を嘲け笑っているように聞こえてしまう。
正子はその晩、自部屋の梁に帯を巻き付け踏み台に乗ると、その帯を首に掛けた。
これで終われる。正子はガタッっとその踏み台を蹴り飛ばした。帯が頸椎を締め付け、意識が遠のいていった。
益三が寝つこうとしていると、隣室の正子の部屋から物音がした。益三は部屋を出ると、正子の部屋の襖を開けた。暗闇の中にぶら下がる人影がある。急ぎ電灯をつけると、そこには帯に首を括っている正子の姿があった。正子は足をだらんと垂れている。
「正子、何してるんだ」
驚いた益三は転がっている踏み台を元に戻すと正子の足を乗せ、帯から彼女の体を外し体を抱えるとそっと布団に寝かせた。益三は急ぎ下の階に寝ている峰子の部屋に向かった。峰子も二階の異変に気がついたのか、部屋から出てきた。
「姉さん、正子が。正子が首を括った」
「えっ、それで大丈夫なの」
「意識はある。医者を呼んでくれ」
「分かったわ」
峰子は店を出ると、闇の中を近くの医者を呼びに走った。医者の家は既に明かりが消され小さな裸電球が玄関を照らしていた。
「先生、先生、すみません。起きて下さい」峰子は叫びながら玄関の戸を叩いた。
いくらかするとガラッと戸が開き、医者の奥方が顔を出した。
「あら、風月堂の若奥さん、どうしましたの?」
「妹が、妹が大変なんです。先生はいらっしゃいますか」
「ちょっと待ってね。今寝つこうとしてたとこだけど」そう言うと奥さんは2階へ駆けのぼっていった。
数分後、医者が着替えをすまし降りてきた。
「先生、すみません。お願いします。妹が首を括りまして」
「そりゃ大変だ」峰子と医者は風月屋への道を駆けた。
正子が気がつくと周りには姉の峰子や益三、安太郎、栄太、かよが集まっていた。医者の姿が枕元にあった。
「姉さんごめんなさい」正子は一言呟いた。
「正子、あなたは何も心配しなくていいのよ、何も。だからゆっくり休んで」
峰子も益三も、皆が瞳を涙で濡らしていた。医者は正子の顔を覗き込み、もう大丈夫だとのお墨付きをもらった。
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